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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
31/53

第16話  マーメイドステークスⅡ(前編)①

 このての追い込み馬が内枠を引き当てた時点で嫌な予感がしていた。

 四月初旬のヴィクトリアマイル前哨戦、阪神牝馬ステークスのことだ。今月一日付で東京から兵庫へ転勤したばかりの今、大好きな馬が出走するから、引っ越しの片付けも終わっていないのに、西畑望は現地入りしていた。

「スタートしました――」

 ゲートの開く心地よい音。いっせいに響く蹄音。大方の予想家が事前に新聞だの競馬サイトだので書いていたとおり、最初に前へ前へ出て行ったのは五歳の二頭、栗毛のトーハンコマチと鹿毛のスプリングデイズだった。

 少し離れて、逃げ馬二頭を見るかたちで先行するのは四歳のキクセンレジーナ、去年のオークス馬で、断然の一番人気だった。ほっそりしたシルエットのきれいな黒鹿毛馬だが、ここまで馬券圏内を出たことがない、安定した実績の持ち主だ。

 そして、かんじんのサンドリヨンは。望が愛してやまない芦毛の牝馬は二番人気で一枠二番発走、今日もゴーリー騎手を背に、後方馬群最内を追走していた。

 これでいいのだ、サンドリヨンは逃げ馬でも先行馬でもない、瞬発力と爆発力、それがあの馬の武器なのだから。そう自分に言い聞かせても、芦毛の馬体が馬群の奥に見え隠れするのを見ると胸がざわついた。

 先頭を確保したトーハンコマチを、スプリングデイズがクビ差の位置でマークし続ける。キクセンレジーナはそのすぐ後ろの内ラチ沿い、外に一頭いるが包まれもしない、いい位置だ。

 サンドリヨンの位置もスタートから変わらない。この馬の勝ちパターンといえば、最後方から直線まで待機してからの鮮やかなごぼう抜きだ。これでいいはずなのだ、と望は考えようとしたが、先行集団が一コーナー、二コーナーを回り、向こう正面に入りながら、逃げる二頭が早くも競り合うようなかたちになって、馬群が少しずつ縦長になっていくのを見ると、胸中の不安がいっそう濃くなった。

 かといって、決してペースが速いというわけでもない。トーハンコマチの鞍上はまだその手綱をおさえている。スプリングデイズもかかるそぶりを見せないし、キクセンレジーナも、前から一馬身ほど空けた三番手を行儀よく追走している。

 三コーナーへ向かいながら、サンドリヨンの芦毛の馬体が、馬群の内でもじわりと進出しはじめた。先頭からはまだかなり距離がある、望としては、追い込み馬といってもそろそろ外に出してほしいような思いになったが、そうはならない。サンドリヨンと併走していた馬が位置を上げるのと同時に、サンドリヨンの後ろにいた一頭、二頭がコーナーを回りながら、空いた外側からかぶさるように上がってきた。

 一方、終始好位を追走していたキクセンレジーナは、四コーナーを回りきると先頭でしぶとく競り合う逃げ馬二頭めざして、邪魔するもののない道で、早くもラストスパートをかけはじめていた。

 後方内側を抜けだせないまま最後の直線に至ったサンドリヨンは、もはや馬群をさばくしかなくなった。ゴーリー騎手の手が動き、鞭がひらめく。進路を探し、ある馬の脇をすり抜けようとしたとき、その鞍上が勘づいた様子で、斜行にならないよう注意深く、しかし明らかに進路を締めようとした。

 それでも、サンドリヨンは走る気をなくさなかった。

 ゴーリー騎手の手に応え、一頭分通りぬけられる隙間が閉じられる寸前、サンドリヨンは首を伸ばし、鼻先をねじこんでその道を奪いとった。

 もう前方に障壁はない。やっと、自慢の末脚に火がついた。

『内をついて二番サンドリヨン――!』

 馬群の中から伸びはじめた芦毛馬の名が読み上げられ、望は胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。

 先頭ではキクセンレジーナが、樫の女王が十三頭を堂々引き連れて、残り二百メートルの坂を軽快に駆けのぼる。トーハンコマチがしぶとく二番手を追走するも黒鹿毛の背中は着実に遠ざかり、スプリングデイズはすでに押し寄せた馬群に呑みこまれかけている。

 完全に前が開けて急加速したサンドリヨンは、その馬群からぽんと一頭飛びだした。スプリングデイズをあっさり置き去りにし、トーハンコマチに迫った。

「……行けっ。サンドリヨン、ゴーリー!」

 一人で来ているというのに、ゴール前最前で柵をわしづかんで小さく声を上げた望に、隣で子どもを抱えていた家族連れがびくっとして視線を向けてきた。どうせ二度と会うこともない赤の他人、望は気にすることなく柵に爪を立てていた。

 一完歩ごとに飛ぶように前に進む、サンドリヨンの末脚の切れ味は目にも鮮やかだ。トーハンコマチはあっけなく追い抜いた。だが黒鹿毛の馬体はなお先、すでに坂を上がりきったころ、サンドリヨンのほうは、坂の半ばでほんのわずかに勢いがそがれたように見えた。

 結局、届かなかった。

 キクセンレジーナが一着、サンドリヨンは半馬身差の二着。枠順と位置取りの不利があったとはいえ完敗だった。

 望は、もう何度目かの、またしても、という思いを抱くことになった。

 またしてもキクセンレジーナに負けた。またしても復帰後初勝利を飾ることができなかった。

 三歳時代も、骨折休養から復帰したいまも、サンドリヨンの末脚は、最後の最後に届かない。好きな馬がそういうレースを続けていることが、歯がみしたくなるほど悔しかった。

 そして、そういう馬だから、ますます心を寄せずにいられなかった。


 西畑望という人間は、世間から見れば何不自由なく、順風満帆にこの二十八年間を生きてきたように映るだろう。穏やかな家庭に生まれ、高校、大学と順調に進み、食品卸会社に就職して、波風なく日々を生きている。

 だが、望自身からすれば、本当の夢にあと一歩届かない、そんな経験を重ねてきた人生だった。

 ほんとうは、音楽に関わる仕事に就いて生きていきたかった。趣味ではなく、本業として。不安定を恐れて、安定を捨ててその道に飛びこむことができなかったけれど。

 三年前、社会人三年目の秋、大学の軽音楽部時代の友人たちと組んでいたアマチュアバンドを解散した。望がギター・ボーカルで作詞作曲も担当していた、スリーピースのガールズバンド。大学一回生のとき、出会ってまもなく意気投合した友人二人と、六年間活動していた。

 ベース担当のエミの転勤、ドラム担当の雪菜の結婚。そんな転機が重なった年で、そこに至るまでにも活動頻度はずいぶん減ってしまっていて、解散の一年くらい前から、終わりの予感はしていた。望が懸命に練習やライブ参加を呼びかけて、それでも三人集まることがなくなっていって。

 エミと雪菜は正直なところ、もっと早くからもう終わらせたがっていたのだと思う。表面上は穏便に話が進み、あっさりした解散になった。望だけが熱心だったのはあきらかで、二人ともひどく申し訳なさそうにしていたが、望ももう強いて継続を主張することはしなかった。できなかった。

 生活にも人間関係にも、波風を立てないことは得意だ。二人とはバンドを解散しても良い友人でいようと思った、だから穏やかに解散話に応じたけれど、解散してしまってからそれも不可能なのだと気づいた。いざ二人を前にすれば、解散したくなかった、この三人で一緒に音楽を続けたかった、望の中にそんな思いばかりわき上がってきて、気楽な思いで話をすることができなくなっていったからだ。そうして連絡を取りあうこともなくなっていった。

「わたしたちなんかいなくても、のんちゃんは作詞作曲できるし、他のバンドでも引く手あまただよ」

 最後にバンドメンバーとして会った日、雪菜に言われたことだ。でも、わたしはあなたたちと一緒にやりたかったんだ。その言葉を飲みこんで、結局、次の場所を見つけに行くこともしないまま、三年も経ってしまった。

 それは望自身の問題だとわかっている。バンドで演奏したいならさっさとメンバーを募集すればいいし、曲をアピールしたいなら動画投稿なり公募なり、一人でもやっていけばいいのだ。

 学生時代も、音楽よりも勉強や就活に使った時間が長かったし、今も仕事を減らす勇気もなく、収入は着実に増えているが、好きな音楽に使える時間はむしろどんどん少なくなっている。

 全部、自分で選んできた結果だ。バンドが解散してすぐにでもできることはあったのに、やりたいことさえ心に重くのしかかって、やりたい思いはいつしか欲求よりも義務感じみた何かに変わっていた。安定感を増す日々そのものが脱出しがたいぬるま湯のようで、ますます身動きができなくなっていく。

 バンド解散からちょうど一年が経つまでに、多くのことを見送ってしまった。SNSで見つけたバンドメンバー募集の投稿に返信ができなかった。公募ガイドで見つけた作曲コンテストの締切に間に合わなかった。買おうかどうか考えていた数量限定のギターは、迷っているうちに完売してしまった。次第に、ギターを弾くことさえ億劫になっていった。

 そんなことが重なるうち、誰にも言わなかったが、望の心の中に、何もかも全部終わらせたい衝動が生まれかけていた。一度全部終わらせて、人生ごと新調してしまえば、今度は夢を叶えられるんじゃないだろうか。

 もうこの人生では、夢に賭けて安定を捨てることができそうもないから。

 そんなときに、会社の飲み会でギャンブル好きの上司に、初心者におすすめの賭け事はなんですか、と尋ねて、返ってきたのが「競馬」という答えだったから、一度手を出してみようと思った。

 宝くじ、パチンコ、スロット、その類も一度もやったことがない。賭けるという行為をほとんど徹底して避けてきた己を自覚して、死ぬまでに一度くらい、そういうことを経験してみたらいいじゃないか、という気持ちになっていた。半ば自暴自棄になって初めて、当たり外れのある何かに手を出してみる気になったのだ。

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