第15話 GⅢ②
選抜予選でも、地方大会でも桜井に阻まれて、全国選抜に向けてピリピリしているのはどの出場部員も同じだが、特に彩莉がひどく思い詰めているように見えた。稽古の後に泣いていることはしょっちゅうで、部活の帰り道では笑顔も少なくなった。
一人の選手としての勝ちへの執着も、部長としての重圧も、一緒にいて痛いほど伝わってくる。自分だって勝ちたい、自分の稽古に集中したいのは弥生だって同じだ。けれど、彩莉の気持ちの面も心配でならなかった。
同じチームの仲間として、友人としてどう声をかければいいのか、どうやって支えてやればいいのか、わからなかった。
学年末試験も終わって、全国選抜までもうあと二週間となった。授業が休みになった土曜、午前中だけの部活動、この日も前進を実感できないまま、弥生は、貼りつけたような笑顔で同期どうし別れをかわし、家に帰ってきた。
玄関に入ったとたん耳に入ってくる競馬実況、かすかに聴こえる蹄音、ほっと息を吐きながら、弥生はリビングに足を踏みいれた。
「あ。ナギノシーグラス……」
テレビに目をやると、レースはもう半ばまで進んでいて、馬群はいよいよ直線に入るところだった。唯一覚えている青い勝負服がすぐに目について、部屋に荷物を置きに行く前に、弥生はちょっとテレビの前で立ち止まった。
まもなくナギノシーグラスはどんどん前に出ていき、先頭を走っていた馬に追いついた。座っていた祖父と口々によし、行け、と呟いたとき、ナギノシーグラスは、突然、目に見えて速度を落としはじめた。
「あ……あれ……?」
弥生が声を上げる前、テレビの向こうで、ナギノシーグラスはなすすべもなく下がり続け、馬群に呑みこまれていった。
着順が、一目ではよくわからないような負け方だった。
「あら、まあ……」
祖父がうなる。弥生は祖父の隣に膝をつき、尋ねた。
「なに今の、弱いじゃん。あの馬、こんなに負ける?」
「いや、今のは弱いというよりは……どっか痛めたんじゃないかって止まり方に見えたけどなあ……」
なんだ、と弥生は息をついた。
「すごく弱くなっちゃったんじゃないかって、心配した。怪我してたとしたら、治してまたレースに出てくるよね」
祖父は難しい顔をした。
「馬は人間のスポーツ選手とは違う。腱でもやれば競走生命なんてすぐ断たれるし、骨をやれば死ぬこともある。命が助かっても、もうレースに出すのはやめよう、って馬主や調教師が決めたら、あっさり引退する」
「そんな……」
弥生が思わず再び目をやったテレビ画面は、もう馬たちを映していない。今のレースについて語り合う芸能人たち、彼らを見ていてもしかたがないから、弥生はまた祖父の顔を見た。祖父は元気づけるように笑った。
「まあ、最後まで騎手が乗っとったし、きっと大丈夫さ」
「そうかな。たいしたことなかったらいいね」
「そうだな。……じいちゃんも、弥生が一緒に競馬観てくれて楽しいから、あの馬が戻ってきて、また一緒に応援できたら嬉しいなあ……」
祖父はしみじみとそう言った。ナギノシーグラスを応援することは、祖父にとってもささやかに意味のあることだったのだと、その口調から伝わるものがあった。
結果からいえば、ナギノシーグラスは、やはりレース中に不調を起こしていたらしい。
鼻出血だった。中山牝馬ステークスから数日後、ネットニュースで発表が出ているのを父が見つけて教えてくれた。
「鼻出血っていって、馬が鼻血起こしたら、一ヶ月はレースに出られないきまりがあるんだ。でも、引退はしないってさ。調教師は、秋のエリザベス女王杯を大目標に、馬の調子を見ながら調整を進める、って」
「そっか……」
弥生はほっとした。
「じゃあ、大丈夫ってことね」
「鼻出血は再発しやすいから、この先どうなるかはわからんけどな。でも、ナギノシーグラス陣営が……あの馬に関わる人たちが、大丈夫、まだやれるって判断したってことだから」
安堵以外の別の感情をおぼえて目を見開いた弥生の様子に気づかず、だからさ、と父はのんきに笑う。
「心配ないだろ。せっかくここまで勝ち上がってきた馬、もう五歳の女馬とはいえ、まだ諦める気にならないんだろうな」
弥生や祖父よりもナギノシーグラスに興味がない父は、すぐに話題を切りあげてしまった。
『あの馬に関わる人たちが、大丈夫、まだやれるって判断したってことだから』。最初から、自分たちにあのナギノシーグラスという馬を重ねて見てしまうところがあった弥生には、そんな言葉さえ、小さな光のように感じられた。
厳しい指導を続けてくれる栗木顧問や、義務でもないのに休日の稽古に来てくれるOGたちのことが思い浮かんだ。
彩莉に何か言葉をかけてやりたい、何かしてやりたい。弥生は、競馬のことで父に言われた言葉さえも、次の日の部活動で彩莉に言ってみようかと考えていた。
少なくとも弥生は、昨日の件でずいぶん元気が出ていた。つい応援してしまう馬――アスリートが無事だった、まだやれる。たったそれだけのことに、元気をもらう、ということは本当にあるのだと、そう感じていた。
気持ちが少し前向きになると、体も少し軽くなる。
この日、OGで大学生の鳥羽と、受験を終えたばかりの成田前部長が稽古に参加していた。団体戦形式の試合稽古、メンバー外の現役生三人と鳥羽、成田の五人が相手チームを形成し、弥生たちメンバーと相対した。
五人目の大将戦で、弥生は成田と当たることになった。先鋒から副将までゼロ対ゼロ、どちらのチームも一本も取れていない引き分け状態で大将戦を迎えて、もう弥生がどうにかするしかない状況だった。
相手チームは部内予選で敗れた現役生とブランク有りのOG、一本も奪えないメンバーを前に、審判している栗木顧問の表情が目に見えて険しくなっている。
実戦を想定した作戦でいけば、鳥羽・成田と当たる辻村・弥生が守備に徹し、後の三人が一本でも二本でも取って勝っておかなければならなかったが、こうなっては、弥生も守りに入っている場合ではない。
成田は相変わらず、稽古中、ほとんど表情を動かさない。ブランクがあるといっても一年も離れていない、現役時代ついに追いつくことができなかったその姿を前に、弥生の心臓が早鐘を打った。
互いに礼、正中段、切っ先を合わせる。
「――はじめ!」
栗木顧問の旗が下がってすぐ、弥生は打ちかかっていた。成田はそれを難なくいなし、二打、三打連続して攻めかかるのを最小限の動きで受け流した。
弥生がいったん残心した瞬間、成田が八相に構えた。恐ろしく無駄のない側面打ちが飛んできて、あわてて首をかたむけて避けた弥生は、下がりながら成田の前に出ていたほうのスネへ切っ先を伸ばしたが、するりとかわされてしまった。
再び中段。しばらく稽古を離れていたとは思えない打突の鋭さ、体さばきの隙のなさにぞっとした。
先に打たせてはいけない、そう思った。
同時打ちの場合、両者の切っ先が相手の部位をとらえていても、どちらも一本にはならない。逆にいえば、一拍でもどちらかが遅れていれば、先打ちのほうに旗が上がる。
このチームが勝つためには、どうあっても、弥生が一本でも二本でも取るしかない。もう相手の出方を窺っている余裕のある試合ではない、頭で理解した瞬間、弥生は戦術も戦略もかなぐり捨てて、がむしゃらな仕掛けに転じた。
(今、成田先輩に確実に勝てるものがあるとすれば……)
スタミナだ、と思う。半年以上部活動を離れたとはいえ、六年かけて身につけた勘や技術がそうそう衰えるものではないが、体力だけは落ちていないはずがない。
この試合稽古、成田は守備に徹することもできる立場だ。弥生が動かなければ成田もたいして動く必要はなく、ただ時間切れを待つだけの一戦になるだろう。
ならば、まずはすりつぶしてやる、と思った。前半、数を打ち続けるうちにひょっとして一本、後半、成田が疲れてきた隙を見つけて確実な一本、そんな勝ち方ならできるかもしれない。
考えながら、それを実行に移していた。
それでも成田は――去年の全国選抜ベスト八の実力者は、肩で息をしながらも、やはり戦術戦法無しに一本取れる相手ではなかった。
「ラスト一分です!」
相手方で時計係を担う一年の声が聞こえた。焦りをおぼえながら、弥生はあることに気づいていた。
八相からのスネ打ちも、何度も試した。まっすぐに狙っても、成田は素早く自分のなぎなたで受けたり、すっと引いたり、当てることさえ難しい。
基本的にスネ打ちで狙うのは前足で、今もずっと前に出ているほうのスネを狙っては弾かれている。成田が自分のなぎなたでスネを狙う刃を受けるとき、ほんの少しだけ、前足が外に動く。そのぶん、体の後ろ側が、弥生と成田をつなぐ直線上からはみ出す。
後足のスネが、わずかに、空く。
当然、後ろのスネは遠いが、弥生は脚力には自信がある。
何度か打ち合って、残心すると、弥生は逆中段に持ちかえた。
少しでも可能性を、隙を作るため、警戒されない程度に斜めに動く。二人をつなぐ直線上から、成田の体の後ろ半分が、少しでも出てくるように。成田のなぎなたと弥生のなぎなた、二つの切っ先が作る角度が、百八十度からわずかにしぼむ。
覚悟を決めて、弥生は八相に構えた。目線は思いきり下に向けて、防具越しでも黒目の動きはかすかに見えるから、成田もスネを狙われていることには気づく、成田のなぎなたの切っ先が下がり、前足のスネを守る動きを見せる。
「……スネ!」
渾身の力をこめて床を蹴る、弥生の体が返り発声が響く、打突音が鳴る。
弥生の切っ先は、しっかりと成田の後足のスネをとらえていた。
ぱっと栗木顧問の旗が上がった。
「スネあり!」
文句なしの一本だった。
まもなく、時計係の「やめ!」の声が聞こえて、試合稽古は終了した。弥生の一本勝ちで、選抜チームが勝利をおさめた。
部活終わりのミーティング、試合稽古で弥生以外一本も取れなかったことについて、最終的に勝ったとはいえ、栗木顧問の反応は手厳しいものだった。だが、こんな日にしては、彩莉が泣きも沈みもしなかった。
他の同期たちと別れてから、弥生は久しぶりに、彩莉をドーナツ屋への寄り道に誘った。
「ヤヨ、今日、すごかったね」
席につくと、彩莉のほうが先に、部活の話題を出してきた。
「成田先輩に勝つなんて」
「でも、先輩、ブランクあったし……」
「関係ないって。あれ、すごいきれいなスネ打ちだったよ。前半ガンガン攻めてたのに、高山はやっぱり、スタミナと脚力だね」
弥生は、えへ、と小さく笑ってドーナツをかじった。
彩莉を元気づけようと思って誘ったのに、今日の彩莉は、最近の部活終わりにしては明るい。良いことだけど、なんだか拍子抜けだ。
「……彩莉、今日は元気そうで良かった」
正直にそう言うと、ジュースのストローをくわえながら、彩莉は「だって勝ったもん」と言って笑った。
「わたしが一本も取れなくても、最後に強い先輩が残っても勝てた。今日はね、それでちょっと安心したんだ。今日の栗木先生はちょっと怖かったけど、あんまり落ち込んでない」
ありがとね、と言ってドーナツを頬張る彩莉を前に、弥生は悟った。
この友人を支えるために、何かしようだとか、うまい言葉をかけるなんて、意味がない。
勝てばいいのだ。メンバーである弥生が強くなれば、それだけ彩莉は安心できるのだ。
彩莉を支えるにしても、自分が勝ち上がるにしても、強くなるしかない。
それを悟ると、言いたいことはいろいろあったはずなのに、そんな気がすっかりなくなってしまった。 急に空腹が強く感じられて、弥生はしばらく無心にドーナツを食べ進めた。
いつになく無口になった弥生に、彩莉から声をかけてきた。
「……最近、寄り道しなかったのに、今日はどうしたの?」
「んー……。ちょっと気晴らし」
「それだけ? 何か話したいことあるのかなって思ったけど」
弥生はまた、んー、と小さく唸ってから、あのね、と口を開いた。
「最近、競馬観始めてね……ちょっとおもしろいかもって……」
あまりにも部活と関係のない話題が飛びだして、彩莉は首をかしげたが、話を聞いてくれた。だが弥生は、ナギノシーグラスという馬に少し元気をもらったのだ、ということだけ伝えると、この話はさっさと切りあげた。
そういうわけで、彩莉がさほど落ち込んでおらず、弥生も話すことがなくなってしまって、この寄り道は短時間で終わった。別れるとき彩莉が笑顔でいるのが久しぶりで、それだけでも良かったと思えた。
「……よし。次は泣かす」
反対方向のホームへ向かう友人の背中を見送りながら、弥生は呟いた。
勝たなければならないのは彩莉に対しても同じだ。彩莉にも勝てなければ、その上へは行けない。
ナギノシーグラスという馬が上のステージへ進んだようには、今のままでは進めない。
電車の中、そんなことを思いながら、弥生は、初めてその競走馬のことを検索していた。次はいつ走るのかな、とうっすら興味がわいていた。
いくつかのニュースを見ているうち、ナギノシーグラスという馬は、マーメイドステークスというレースを目標に調整されるらしいということを知った。
(六月上旬の日曜日……)
インターハイ予選と同じくらいの頃だ。
覚えていたら、レースを観ようかな、などと思った。また元気をもらえるような気がした。
きっとそれどころではないから、当日まで忘れているだろうけれど。
過去の高山弥生登場回
第8話 1000万下Ⅰ