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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
29/53

第15話 GⅢ①

「ああ、もう勝てないんじゃないか……」

 十二月初めの日曜日のリビング、テレビを見ながら祖父がそう言った。テーブルで本を読んでいた高山弥生は、そんなことない、と言い返しそうになって、あわてて口を閉じた。

 競馬の話だ。弥生は、少し過敏になっている自分を自覚し恥じてから、既視感をおぼえた。ずいぶん前にも同じようなことがあった気がする。

 つい先週、弥生の所属するなぎなた部で、全国選抜大会とその予選に向けて、団体戦正式メンバーを決定するための部内戦があった。

 結果は、同期の佃彩莉が一位、弥生が二位、そして一年の辻村桃が三位。無事メンバー入りは果たせたわけだが、その結果に対して弥生が思ったことは、まさに今、祖父がなにげなくつぶやいた言葉と同じだった。

 もう、勝てないんじゃないか。

 弥生たちが――弥生が勝ちたいのは全国の舞台だ。部内戦の時点で負けている場合ではないのだ。

 今年、ついに先輩たちを越えられないまま世代交代した。いま、同期の彩莉に常に一歩先を行かれている。

 そしてその先には、あの他校選手、同県内最強の同級生、桜井が。

 弥生は小さく身を震わせた。テレビを見やると、レースを終えた馬たちがスピードをゆるめているところが映っていた。どの馬ももう、それぞれのゼッケンに書かれた番号も馬名もちゃんと読み取れる速度だ。

 そのなかに、覚えのある名前、「ナギノシーグラス」の文字があった。

 あの馬か、と弥生はすぐに思い出した。二位続きだった馬、今日は三位にも入れなかったようだ。

 今日のレースはどんなレースだったのだろう。気になって、テレビに映る「中日新聞杯」という言葉を携帯電話で調べると、重賞、という言葉が出てきた。

 弥生は、以前、父から教えてもらった競馬のランク分けの話を少し思い出した。確か重賞というのは、前にこの馬が走っていたレースとは違って、ちょっとランクの高い、大きいレースのことだったはずだ。

(ナギノシーグラス、重賞とかいうの、出られるようになったんだ)

 良かった、と思った。

 弥生自身はなぎなたをやっているが、正直、他のスポーツやその観戦には全く興味がなかった。競走馬を、選手と呼んでいいのか、アスリートと扱っていいのか、そのあたりはよくわからなかったが、自分と同じ時期に……自分たちのように惜敗をくり返しているその馬に、親近感めいたものがわいていた。

(もう勝てないかも、なんて思わせちゃだめだ)

 自分に対してか、ナギノシーグラスに対してか、どちらへともなく弥生はそう言い聞かせた。

 

 それから一ヶ月後の選抜予選、桜井選手の強さはやはり圧倒的だった。

 演技の部だけは、弥生と彩莉が優勝した。最後の判定は三対二と厳しい結果だったが、桜井と組んでいた一年生の大久保が力みぎみで、少々硬い動きだったことが敗因だろう。

 団体戦は引き続き、桜井の高校が一位、弥生たちが二位。

 桜井以外の二人の守りが、あまりにも固くなっていた。弥生はまた、取るべきところで一本も取れなかった。相手は唯一、高校から始めたばかりの二年だったのに。

 中堅戦、中学から続けている大久保ですら、彩莉相手に守りに徹した試合で応じてきた。大将戦で桜井の相手になったのは一年の辻村、ここはあまりにもあっさりと二本奪われて負けた。

 残るは午後、個人戦のみ。

 決勝を前に、弥生は桜井と対峙し、試合終了直前にスネをとられて負けた。最初から防戦ぎみの試合で、判定に持ち込めばどうあがいても負けるだろうと自分でもわかる、あまりにも情けない一戦だった。

「ラスト一分です!」後輩の声が聞こえたとき、攻めに転じようとしたのだが、それで増えた隙を鋭く打たれ、敗れた。

 三位決定戦で相手になったのは大久保、こちらの一年では一番強い辻村から二本奪って勝ち進んだ実力派だが、桜井の後では楽に感じるくらいだった。

 以前、インターハイ予選の団体戦で弥生は大久保に敗れていたが、この半年のあいだに力関係は逆転していた。

 少なくとも大久保よりも彩莉が実力上位で、弥生にとってまず目指すべきは大久保ではなく彩莉だ。稽古中も後輩の相手をするかたわら、できるだけ彩莉や、現役時代ついに超えられなかったOGに食らいついて、少しずつ近づいていったのだ。

 そのあいだに、大久保も力を伸ばしてはいたが、久しぶりに打ち合うと気の抜ける瞬間や、動きの遅れがはっきり見えた。

 隙が見えてもなかなか打たせないのは経験の長さならではだが、何度か打ち合って、互いにいったん中段に構えて。

 正中段から八相の構え、八相の構えからのメン打ち、大久保はそれを下がって避ける癖がある。

弥生はそれを予測したうえで、ただ脚力にものをいわせた。弥生の後ろ足は体育館の床をしっかりと踏みこみ、全身を前方にはじき出し、それに合わせてなぎなたの切っ先は自然に大久保の側面を追う。

 とらえた。メン、とひと声発しながら手ごたえを確信して、弥生は素早く、しかし悠々とした残心で再び中段に構えた。

「……メンあり!」

 赤旗が三本上がる。それからまもなく三分経過、試合は終了した。

弥生の一本勝ちだ。

 三位決定戦で勝てたとはいえ、一位以外は一位以外。無言、無表情で戻ってきた弥生の背中を、同期の村井や川本、小松原が次々に軽くたたいてねぎらった。

 しゃくり上げながら面を外した弥生は、同期たちの隣に立って、たったいま退いたコートのほうを赤くなった目で見やり、つぶやいた。

「佃、勝ってきてよ……」

 その視線の先では決勝戦の準備を終えた彩莉と桜井がコートの前に立ち、静かにそのときを待っている。まもなく、静まりかえった体育館内に、大会委員の声が響いた。

「赤、桜井選手」

「はい!」

「白、佃選手」

「はい!」

 返事し、それぞれに開始戦の前に進み出て、一礼。切っ先を合わせた。

「――はじめ!」


 全国高等学校なぎなた選抜大会県予選、個人の部、優勝桜井選手、準優勝佃選手、三位高山選手。

 彩莉は弥生ほど無様には負けなかった。果敢に攻め、打ちかかり、それでもただ一瞬の隙を突かれてスネを取られ、一本負けしたのだ。

 体育館から駅へ向かう道、女子高生が十一人も集まっているというのに、葬列のように静かに歩くさまは、はたから見れば珍しい光景だったかもしれない。

 一年の辻村が持つしっかりした紙袋の中に、今日授与された賞状がまとめて入れられている。優勝の賞状は演技の部の二枚だけ、弥生にとっては、あとはただの質の良い紙きれか何かのような感じがしていた。明日は月曜で全校朝礼があり、全校生徒の前で各部活動の表彰があって、なぎなた部も演技・個人の部の全国選抜出場決定者の発表が行われるが、それすら出たくないくらいだった。一位になれなかったことを、そう何度も突きつけられたくなかった。

 先頭を二年の村井、川本、小松原が歩き、間に辻村たち一年の六人、そして最後尾に弥生と彩莉。前のほうの二年三人は言葉何ごとか話している様子が見えたが、弥生の隣で、彩莉はうつろな目をしておし黙り、ほとんど何も語らないまま、駅までたどり着いた。

 駅に到着し、改札を通るとき、彩莉はぽつりと言った。

「……これ以上、どうしたらいいのか、わかんない」

 弥生は彩莉から視線をそらしたまま、答えた。

「今日はとりあえず、ゆっくり休もうよ」

 彩莉の答えはなかった。この日はもう、同期どうしでもろくに言葉をかわさないまま、それぞれ別れていった。

 陰鬱な気分で自宅に到着すると、もう夕食の用意はできていて、家族そろって弥生を待っていた。

食卓を見ると、どう見ても百円のものではない寿司が鎮座していて、弥生は面食らった。

「おかえりー! 演技、優勝おめでとう!」

 帰りの電車で、家族に試合結果は報告していた。母がまっさきに祝いの言葉を述べて、弥生はちょっと表情をゆるめた。

「ありがと。……なんか、豪華だけど、これは優勝祝いってこと?」

 それもあるけど、と、箸を並べながら答えたのは父だった。

「父さんとじいちゃん、競馬で大当たりしたんだよ」

「マジ? すごいじゃん」

 部活道具をリビングの端に置いたまま、食卓の席についた弥生は、よくわかんないけど、と前置きしてたずねた。

「何がどれくらい勝ったの?」

 向かいに座る祖父が、すでに酒が入った赤ら顔で、上機嫌に答えた。

「ナギノシーグラスって馬だよ! 重賞初めて勝ったんだよ!」

 あっ、と弥生は箸を止めた。

「二着ばっか取ってたあの馬……」

「そういえばそう! あいつ、今日は十番人気だったんだよ」

「複勝厚めに買ってたじいちゃんと、馬連の紐に入れてた父さんと合わせて、夕飯ちょっと贅沢できるくらいには儲けたよ。中トロ食うか?」

 父が脂ののった赤身の一貫を指さして、弥生はやっと笑った。父が何を言っているのかはよくわからなかったが、少し気持ちが楽になった。

「食べる」

 そっか、ナギノシーグラスは重賞を勝ったのか、と思った。

 もう勝てないんじゃないか、と祖父が言っていた、あの馬が。

 勝ったといえば、弥生だって演技では優勝したが、彩莉と一緒だったし、相手は大久保が足を引っ張ったから勝てたようなものだ。動物相手にまで、こんなふうに感じるのもおかしいと思ったけれど、祝福と羨望の両方が、胸の内でうっすらと渦巻いた。

 やっぱり、勝ちたかった。団体で、個人で。

 彩莉に。そして桜井に。

(わたしだって……)

 勝てないんじゃないか、を覆してやる。

 弥生はそう思いながら、まっさきに中トロに箸を伸ばした。父が豪快、と呟くのを尻目に、一口に頬張った。


 二月はじめ、地方大会前日、各県ごとの二位チームで最後の全国選抜出場権を争った。弥生たちはここでは優勝し、三月の全国出場権をもぎとった。去年と同じ流れだ。

 桜井の所属校の選手たちが、自分の出ないその試合を、ビデオまで用意して観戦していたのが印象的だった。観察されていることはよくわかった。

 彩莉も、辻村も、桜井たちを気にしないようにしていたように見えたが、試合前、防具をつける直前、弥生はあえて桜井たちを観察し返してみた。

 すぐに桜井と目が合った。同じ県内、同じ学年の選手ではあるが、普段親しく言葉をかわすことなどない。

 いつもは防具に覆われてよく見ることのない強敵の瞳が、意外にも澄んでいて、静けささえまとっていることに、弥生は内心驚いた。

(……あのひと、もっと、ギラギラしてると思ってたのに)

 二人が見つめ合っていたのは数秒だけ、試合の時間はすぐにやってくる。彩莉に一歩遅れて、弥生は面をかぶり、しっかりと紐を締めたのだった。

 その日の夜、宿泊したホテルの部屋で、ブロック戦の優勝と全国選抜出場確定をかみしめながら横になっていた。

 ビデオをのぞきこむ桜井の真剣な瞳を思い出すと、奇妙に笑いがこみあげてくる。

 彼らだって、わたしたちが怖くないわけじゃない。

 桜井は最強だ。間違いなく、現役高校生では、日本で一番。

 ただし崩せないわけではない。げんに演技では弥生たちが勝った。団体だってチャンスはある。そして、個人も。

 弥生は去年勝てなかった大久保に勝った。このあいだなど、久しぶりに稽古に来た、元インハイ個人ベスト四の鳥羽や、前部長の成田が、高山はここ最近で急激に伸びた、と目をみはったものだ。

(……きっと追いついてやるから)

 脳裏に、他馬を追う鹿毛馬の姿が一瞬ちらついた。半ば夢だったかもしれない。同室の村井の寝息を聞きながら、弥生はやっとしっかりした眠りに落ちていった。

 そうはいっても、選抜予選からわずか一ヶ月、劇的に何かが変わるはずもない。地方大会は、またも桜井の所属校に阻まれて終わった。

 演技は、弥生と彩莉の組が三位。ここだけは桜井と大久保より上で、やはり大久保の動きの固さが評価を下げる要因となったらしかった。桜井が二試合目かそこらで敗退するのはここくらいだ。

 団体戦では、一試合目は隣県一位のチーム相手に楽勝したが、二試合目にはまたも桜井のチームに当たることになった。

 弥生は今回中堅、ついに桜井の相手をするポジションに立つことになった。ここは作戦通り守備に徹した。それでも負けた。部長の彩莉も、同期の村井も、一年の辻村と富岡も、一本も奪取することができず、代表戦で桜井と対峙した彩莉がメンを取られて負けた。

 そして個人でも桜井が優勝、三位が彩莉、ベスト八に弥生。どの試合でも、桜井が判定に持ち込ませることはなかった。誰が相手でも確実に一本は決める、打突の確かさと隙をとらえる観察力は、見るたびに精度を増しているようで、弥生は身震いした。

 どこまで追いかけても、数倍の速さで駆け去っていかれてしまう気がして、めまいがした。

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