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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
28/53

第14話 中山牝馬ステークス②

 昼食後、優衣はレースを見たり、普段なかなか来られない中山競馬場のあちこちを散策したりしてから、第十レースからパドックの前のほうに居座って、中山牝馬ステークス出走馬入場のときを迎えた。

 だが、パドックでいくらか写真を撮ると、早々にその場を離れ、コースのほうへ移動した。水野騎手は十レースにも乗鞍があったから、パドックでナギノシーグラスにまたがる瞬間を見ることはできない。だから早めにコースのほうで、見やすい場所の確保を優先することにしたのだ。

 もう見慣れたナギノの青い勝負服、パドックでも輪乗りでも、優衣の目には周囲の風景から浮かび上がって見える。色合いもデザインも派手ではないのに、目立たない鹿毛馬を追いかけ続ける優衣にとっては、一番の目印だった。

 鮮やかなグリーンのターフの上に、青いガラスの欠片がそっと置かれているかのようだ。

 朝から気持ちのいい晴天で、馬場状態はずっと良。天気がいいこともあって、GⅢとはいえ観客は多く、コース前はすぐに人でいっぱいになった。優衣はかろうじてスタートとゴールの間あたり、少しばかり前に人はいるがカメラを構えやすい位置に落ち着いた。

(距離が合わんなら、せめてナギノシーグラスの得意な重馬場だったら良かったのに……)

 そんなことも考えたが、晴れ渡った空の下で眺めるサラブレッドたちの馬体は格別に輝いて見える。目当てのナギノシーグラス以外の出走馬にも、カメラを向けずにいられなかった。

 今回の中山牝馬ステークスは十四頭立て、ナギノシーグラスは三番、水野騎手は赤い帽子をかぶっている。ナギノシーグラスの次に目が行くのは一番の栗毛馬コバルトキャンディ、前回共に走った馬の中ではナギノシーグラスを除くと最先着の四着で、今回は特にこの馬がライバルのように感じられて、優衣は今度も負けるな、などと考えてしまった。他の愛知杯出走組はいずれも二桁着順だから、油断できないように感じられるのはこのコバルトキャンディくらいだった。

 実績馬も、良血馬もいる。だが、今回も優衣がひたすら追っているのはナギノシーグラスだった。「がんばれ!」と印字された、ナギノシーグラスの単複馬券だけを手に、優衣は今日もその瞬間を待っていた。

 姿を現したスターターが旗を掲げ、ファンファーレが鳴り響く。今回は嫌がる馬もおらず、ゲートインは粛々と進行する。

『スタートしました!』

 スタートはきれいにそろい、波乱のひとつもなくレースは始まった。

 ゲートに向かって斜めの位置からカメラを構え、発走の瞬間を連写モードでまずは数枚。

 水野騎手は、今回はスタートから馬首を押して先行策をとり、他馬より早く前に出ていった。スタンドから遠い内枠、優衣の方から見て馬場の奥側にいるナギノシーグラスも、外枠の馬たちに覆い隠されることなく、走りだす瞬間をしっかり撮影することができた。

 とはいえナギノシーグラスは逃げ馬ではない。水野騎手も、前へ前へ押し寄せる他の逃げ先行勢を無理に追わず、ある程度前目のポジションに落ち着いたころは手綱をおさえるようになった。最初のコーナーへは、まっさきに大外枠にいた一頭が飛びこんでいった。

 先行馬の一頭であるコバルトキャンディも好スタートを切ったが、首を上げて行きたがるふうでいるのを、騎手の手はあえて少し下げたように見えた。三番手を確保したナギノシーグラスから一馬身ほど後ろ、馬群の内側に控えた。

「マークされてるな……がんばれ……」

 今回ナギノシーグラスは四番人気、前走重賞勝ちとはいえ、やはり距離を不安視する意見があちこちで出ていた。二〇〇〇までの実績やここまでの安定感から、前走四着のコバルトキャンディのほうが注目度は少し上、三番人気だ。

 一番人気、二番人気はというと、重賞勝ちや去年のエリザベス女王杯好走といった実績を持つ二頭だが、今回ばかりは、優衣はその二頭までは気にしていなかった。

 八〇〇メートル地点を通過するころには隊列はほとんど落ち着き、変化もまだ現れない。ナギノシーグラスは相変わらず前から三番手を、コバルトキャンディはつかず離れずその一馬身後ろを、それぞれぴたりと保っている。逃げ馬がやや馬群を離しているが前半ペースは極端に速くもない。

 水野騎手は、このままナギノシーグラス自慢のスタミナに任せて押しきるつもりだろう。

 優衣の胸が高鳴った。どうしようもなくわくわくする。そういうレースが好きだからナギノシーグラスを好きになったのか、ナギノシーグラスが好きだからそういうレースが好きなのかはわからないが、追い込み馬が最後の直線でごぼう抜きするよりも、先行馬が押しきる決着のほうが好きだった。

 距離が長くても、タフな牡馬が相手でも、積極策で攻めて最後まで脚を鈍らせない、末脚自慢相手にも食い下がる、そんなナギノシーグラスの姿を好きになったのだ。

 やがて千メートル地点を通過、ナギノシーグラスから一馬身下がった位置を保っていたコバルトキャンディが、すっと動いてナギノシーグラスに並びかけた。

 並びかけられたナギノシーグラスは、クビひとつ前に出た。するとコバルトキャンディがまた同じだけ位置を上げる。牽制しあいながら、二頭がじわじわと仕掛けはじめ、逃げ馬、二番手馬との距離を詰める。

 三コーナーを回りながら、二頭は二番手に並び、あっさり追い抜くと、逃げ馬に迫った。優衣は心臓をおさえながら、馬たちが最後の直線へと入ってきつつあるコーナーのほうを見つめた。

 逃げ馬の騎手が必死に馬首を押し、後続にも次々鞭が入っていくが、逃げ馬を追う二頭の脚色が際立っている。

 残り四〇〇メートル、三〇〇メートル、直線でナギノシーグラスとコバルトキャンディがついに逃げ馬に並びかけた、異変はそのとき起きた。

 絶対にコバルトキャンディを先に行かせまいといわんばかりの、強気な手ごたえを見せていたナギノシーグラスが、突然、何かに引っかかったかのように勢いを失くした。

 走る気をなくしたふうではない。それなのに、コバルトキャンディにも逃げ馬にもクビ差遅れ、半馬身遅れ、みるみるうちに取り残されていく。

 騎手の手は動いている、馬の脚も首の動きも前へ向かっている。だが、もはや逆転の見込みはなく、押し寄せた後続馬群にあっけなく飲み込まれた。

 最後まで他馬を寄せつけず、先頭で駆け抜けていくコバルトキャンディの姿が視界を滑っていく。後方、ごったがえしながら中山の坂を上る馬群の中に、水野騎手の青い勝負服だけが判別できた。

 震える手でシャッターを押しても、他馬に隠されて、ナギノシーグラスの姿をとらえることはできなかった。

 レースはそのままコバルトキャンディが快勝した。ナギノシーグラスはシンガリではなかったようだが、おそらく、二歳未勝利戦以来の二桁着順。

 ゴールの瞬間まで馬ごみの中で、よくわからなかった。

 想定外の惨敗に、呆然とその場で立ち尽くす優衣の耳に、周囲のざわめきのいくつかが、次第に明確な言葉となって伝わってきた。

「ナギノ何やってんだ!」

「やっぱ距離じゃね」

「三番、変な止まり方」

 そして、考えないようにしていた単語が聞こえた。

「故障?」

 優衣は小さく身を震わせた。ゴールの向こうで速度をゆるめはじめた馬たちを見る。青い勝負服もそのなかにあった。他馬よりいち早く歩きはじめているように見えたが、歩様が乱れているようには見えない。騎手だって下馬もしていない。

「故障じゃない。決まってる……」

 優衣の呟きは、周囲の喧騒に吸い込まれて消えた。

 観衆の一部が投票所のほうへ流れはじめた。肩を落としながら、優衣もその列に加わった。

 まだ馬たちの後ろ姿がいくつか小さく見えるゴールの向こう、最後に一度だけ振り返ったが、青い勝負服はもう見えない。上着のポケットの中で、応援馬券をそっと撫でた。

過去の藤野優衣登場回

第5話 500万下

第11話 1000万下Ⅲ

第13話 愛知杯

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