第14話 中山牝馬ステークス①
愛知杯後、ひとしきり大喜びした藤野優衣は、しばらくテレビの前で、ため息をついたり、ぶつぶつ独り言を呟いたりしていた。中継番組が終わって気がつくと、兄の姿は隣になかった。二十歳も超えてはしゃぎ続ける妹をうるさがって、自室に引っ込んでしまったらしい。
リビングで一人になって、少し頭が冷えて、優衣はひとまず携帯電話を手にとった。数人の知人や、インターネットで交流の人々から、SNSを通じて「良かったね」だの「ついに重賞勝ちましたね」だの、優衣の喜びようを見抜いたメッセージが来ていて、笑ってしまった。
それらに一通り返事してから、SNSでナギノシーグラスについて検索をかけると、伏兵に勝たれて馬券を外した者たちの悲鳴がいつもより目立って、今度は苦笑した。それでも、ナギノポセイドン産駒が重賞を初勝利したことや、ナギノシーグラスがここまで勝ち上がるのに時間がかかったことに触れる投稿を見つけているうち、じんわりと胸が熱くなってきた。
そんななかで、ある写真が目に留まって、優衣は思わずスワイプする手を止めた。
いつもナギノシーグラスの写真をお気に入り登録してくれる、TAというハンドルネームの人物の投稿だった。優衣の写真に限らず、ナギノシーグラス関連の投稿に反応している様子はあったが、本人が写真まで発信することは珍しい。
『今日まで長かった。おめでとう、ナギノシーグラス』
今日まで、とはいつからのことを指すのだろう、と思って、それはすぐに判明した。その投稿に、「いつの写真ですか?」「新馬戦です」という、別の人物とTA氏の短いやり取りが続いていた。
「このひと、シーグラスのデビュー戦見てたんや……! いいなあ」
口に出して呟き、ためらいなくその写真をお気に入り登録した。ナギノシーグラスが出走した新馬戦の日は、優衣が競馬に興味を持つよりも前のことだった。
TA氏がナギノシーグラスを新馬戦から見ていたのは、偶然なのだろうか、それとも、何かあの地味な馬が気になる理由があったのだろうか。興味がわいたが、投稿に返信しようかどうか迷い続けて、結局何もしないまま、その日が終わってしまった。
そのまま、愛知杯から二週間が経った一月末、ナギノシーグラスの次走は中山牝馬ステークスで、水野騎手が継続して騎乗すること、ヴィクトリアマイルが視野に入る可能性もあることが発表されていた。
「合うんかな?」
「合わんやろ」
優衣は疑問に思い、兄の孝道は断言した。二月から一人暮らしをはじめる兄の私物整理を手伝っているときのことだった。雑誌や本、紙類をビニール紐でまとめ、段ボールに詰める作業を引き受けながら、優衣は孝道に見解を聞いた。
「やっぱりそう思う?」
「中山牝馬ステークスはともかく、いやそれも合わんと思うけど、マイルはもっと合わんやろ、この馬」
「二〇〇〇切ったらきつそうやんな。GⅠ出てるとこ、わたしも早く見たいのは見たいけど……」
「視野って言ってるから、中山牝馬の結果次第、ってとこやろうけど。それなら適性と血統的に、春は天皇賞でも狙ったほうがまだ可能性あるんちゃうか」
それも無茶では、と優衣は笑った。それにしても、と孝道が話を変える。
「今度は関東か。ナギノシーグラス、重賞路線行ってから、なかなか現地応援できなくて残念やな」
そうやな、と答えようとして、優衣はちょっと口ごもった。それから、思いついたままを口にした。
「中山、行こうかな……」
「マジで?」
兄が驚きともあきれともつかない声を上げる。
ほんとうにたった今、思いついたことだった。優衣が競馬を知って二年、ナギノシーグラスももう五歳、牝馬が五歳や六歳で引退してしまうことは珍しくないし、重賞勝ちを果たしたこの馬は、引退後はほぼ確実に繁殖牝馬になるだろう。繁殖に上がってしまえば、直接会いに行ける機会はほとんどなくなってしまう。
四月からは優衣の就職活動も本格的に始動する。日にちさえ都合がつくなら、行けるうちに行ったほうがいい気がした。行くべきだと思った。
「……うん。春休みやし行くわ。中山行く」
「マジかよ……」
おれも競馬のために遠征までしたことないのに、と笑ったところで、兄は立ち上がった。
「だいぶ片付いたな。助かったわ。奢ったるからラーメン食いに行こう」
「やった。奢りならチャーシュー盛りにするわ」
「遠慮せえへんなおまえは」
「働いたもん」
軽口を返しながら、優衣もまとめ終えた最後の一束を脇に放りだし、兄に続いた。外に出る準備をしながら、頭の中では三月の遠征計画を立てはじめていた。
「……やっとここまで来た……」
駅からの長い長い地下道を歩き続けた優衣の目の前に、「法典門」の文字が現れていた。
朝七時半、新大阪駅発の新幹線に乗って、十一時頃に船橋法典駅にたどり着いた。中山競馬場に向かう地下通路への案内はすぐに見つかるから、道に迷うことこそなかったが、味気ない白い外壁の続くその地下通路がまた長い。
今日はとにかくナギノシーグラスが見たい一心でここまでやってきたから、他のレース観戦にはそこまでこだわっていない。
パドックと投票所、それからコースの間を行き来するルートの下見がてら、第六レースを一通り観戦してから、優衣はいったん休憩することに決めた。
中山競馬場の地下一階に、ファーストフードプラザがある。重賞開催日なうえ、ちょうど昼時で混み合っていたが、優衣一人ならなんとか座席を確保できた。どうにもおいしそうに見えて買ってしまったパスタをつつきながら、レーシングプログラムを眺めた。
愛知杯の次走に中山牝馬ステークスを選んだ馬は、ナギノシーグラスの他に、コバルトキャンディをはじめ三頭いる。
本当はもう一頭、サフランボルも出走するはずだった。
こちらも早い段階で中山牝馬ステークスへの出走表明があったのだが、二月に入って左前脚に屈腱炎を発症、そのまま引退し繁殖入りすることが知らされた。重賞勝ちはないまま終わった現役生活だった。
ナギノシーグラスのように思い入れがあったというわけではないが、牝馬重賞戦線を中心に目にする機会が多かった馬だ。出走をかさねた重賞で二着や三着までは何度か届きながら、結局勝ちまではなかった姿を見ていると、残念なような、切ないような気持ちになる。
ナギノシーグラスだって、サフランボルのように突然引退してしまう可能性はいくらでもあるのだ。追いかけ続けている馬が重賞を勝てた幸運と、やはり遠征を実行してよかったという思いを、優衣は少しばかり厳粛な気分でかみしめた。
出走馬をざっとチェックしながら、優衣はパスタを食べ終わった。予想は大方済んでいる、というよりは、今回は馬券を買うために来たわけではない。
(馬券は、当たらんでもいい。それよりナギノシーグラスに会いたい……)
一頭の馬にただ会いたくて、現地で応援したい一心で関東までやってきたのだ。
食べ終わっても、優衣は少しのあいだ席を立たないで、カメラの設定を最終点検していた。