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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
26/53

第13話 愛知杯②

 愛知杯当日、卓也は、携帯電話とパソコンをそばに置いて発走時刻を待っていた。このスタイルは、近ごろ家でレース観戦するときの常で、レース前後に競馬好きの友人と連絡を取り合ったり、インターネットでさまざまな人の予想や感想を見たりするのも楽しみのひとつだ。

 ナギノシーグラスの負担重量は五〇。メンバーの中でも最軽量に近く、単勝人気こそ十番人気で、たしかに実績は下位だが、インターネットなどを見ていると、一部の穴党が注目する存在にはなっているようだった。

 パドック中継も終わり、アナウンサーや芸能人がああでもないこうでもないと議論している場面を流し見ながら、ナギノシーグラスについて検索をかけると、すぐに投稿写真を見つけることができた。最初に目に入ったのは、例のフユイという人物が二年前に撮影したというパドック写真だった。

 フユイ氏は最近、未勝利戦をうろうろしていた頃のナギノシーグラスの写真を節目節目に投稿している。この女性がナギノシーグラスにずいぶん入れこんでいることはすでに知っていたが、未勝利戦や条件戦をなかなか勝ち上がれずにいたころの写真まで、何レース分も持っているとは。

 ますます親しみがわいたが、やはり、自分から話しかけにいこうとまでは思えなかった。

 卓也自身も新馬戦から見ているから、携帯電話のアルバムには、二歳時からの写真がいくつも残っている。レースの時間を待ちながら、過去の写真を見ていると、懐かしい気持ちになる。

 今でこそスタミナ勝負の馬で長い距離のほうが得意、といった印象の馬だが、デビュー戦はマイルで三着だった。勝負どころで馬群に包まれ、そこからどうがんばっても勝てるわけがない地点でやっと抜けだして、それでも最後の直線で最内をこじ開けて、騎手に応えて最後まで食いさがり続けた姿を、今も鮮明に思いだせた。

 そこから少しずつ距離を伸ばすと共に着順を上げていきながら、豊富なスタミナを生かした先行スタイルで未勝利戦を脱出し、条件戦をいくつか経験するころには、中団で控えてから最後の直線でじわじわ末脚を発揮するような戦い方も見せるようになっていった。

 そして前々走、久しぶりの二〇〇〇メートル戦では再びの積極策、強気の先行から早仕掛けという強気の競馬で勝利をおさめた。

 内気そうなパドックの姿、おっとりした従順な気性、目立たたない鹿毛の馬体、昔と変わらないように見えて、その走りは三年間の競走馬生を経て、確実に成長を遂げてきているのだ。

 今回は、どんなレースを見せてくれるんだろう。そろそろやっと、重賞を勝ってくれるだろうか。それともこのままずるずると、もう一歩先へ行ききれない条件馬の一頭として、最後まで走り続けることになるだろうか。そんなことを考えると鼓動が速くなった。興奮というより緊張に近いくらいの、息苦しくなるような感覚だ。

 一頭の馬を追い続ける楽しみ、奥深さ、卓也はやっと、父がナギノポセイドンにあれほど魅了され、あれほど思い入れる気持ちをほんとうの意味で理解できるようになってきた気がした。

 卓也がインターネットに目をやっているうちに、テレビ画面は再び、コースの様子を映していた。まもなくスタートだ。

 ゲートの前を、馬たちが騎手を背に輪になって歩いている。今回は十六頭立て、多頭数のレースだというのに、観衆でひしめき賑わうスタンド側とは対照的に、曇りがちな空、冬の芝を背景に、その景色は妙に寂しく、妙に静謐に、卓也の目にはうつった。

 気がつけばもう、スターターが台上に上がっていた。その旗がひるがえると、冷たく静かなコースの空気を切りさいて、ファンファーレ音源が高らかに響きわたる。

 画面ひとつへだてた場所では、ファンファーレの音色も現地の歓声も、場違いなくらいに感じられた。卓也は苦笑して頭を振った。

(みんながみんな、馬の応援にマジになってるわけじゃない……)

 なんとなく厳粛な気分になるのも、緊張してレース観戦するのも、全部自分の勝手だ。

 馬たちが次々にゲートに入っていく。ゲートインはスムーズに進行すると思われたが、最後の十六番の馬だけ、ひどく嫌がって何度も後退した。

 その様子にくすっと笑った卓也は、やっと、気軽に楽しむ感覚を少し取り戻した。

 やっと、最後の馬がゲートにおさまる。スタートしました、という実況と共に、十六頭と十六人は飛びだした。

 正直なところ、卓也には、デビューしたころのような積極的な先行策を見たい思いがあった。あくまでナギノシーグラスは先行馬である、というイメージをずっと抱いていた。

 だが、卓也の予想に反してナギノシーグラスは馬群の真ん中あたりの位置に落ち着いた。

 スタートから一頭の逃げ馬が先手を奪い、二番手に続くのがサフランボルだった。そこから少し空けて、四歳馬コバルトキャンディを筆頭に先行集団が続く。そのすぐ後ろに、内は前走に続き原騎手が手綱をとるマイジーニアス、外はナギノシーグラスと並んでついていった。

 人気を集めるサンドリヨンの芦毛の馬体は、ややごちゃついている後方集団の内にあった。骨折休養明けではあるが、三歳重賞時代に見せたずば抜けた末脚を忘れない競馬ファンは多く、鞍上もいま勢いづいているゴーリー騎手が休養前から引き続き主戦を務める。卓也も、真剣に馬券予想だけ考えるなら、このサンドリヨンがこのレースの本命になると思っている。

 最初のコーナーに入りかけながら、逃げ馬がどんどん馬群を離していく。サフランボルの鞍上は用心ぶかい手つきで馬をおさえて、逃げ馬についていく様子がない。この時点では、隊列の前半分が縦長になっていた。

 そして向こう正面、後方ではサンドリヨンの白っぽい馬体がいつの間にか最内から馬群の手薄な位置を確保して、いつでも外に出して末脚を発揮できるポジションにいる。第三コーナーに向け、鞍上が仕掛けどころを虎視眈々と探っているのがわかる。

 一方、サフランボルは少しずつ逃げ馬との距離を詰めていて、コバルトキャンディは、サフランボルに置いていかれず三番手をキープしている。

 卓也はひどくやきもきしたが、三コーナーが近づいたとき、ナギノシーグラスの位置が思いのほか後方ではないことに気がついた。向こう正面を通過しているあいだ、後方の馬たちがじわじわと位置を上げ、中団馬群がごちゃつきはじめるなか、水野騎手は、あえて馬群の外側を進路に選び、真ん中からわずかに前寄りの位置を保っていた。

 逃げ馬が三コーナーを通過する。サフランボル、コバルトキャンディがさらに距離を詰める。コーナーを回りながら後方集団もさらに追い上げはじめ、六〇〇メートル地点を通過するころには馬群は凝縮していて、直線に向かいながら徐々に横に広がりはじめた。

 ナギノシーグラスの鹿毛の馬体、水野騎手の青い勝負服はやはり馬群の外を行く。その内側にマイジーニアスと原騎手が並び、どちらがどちらをマークしているともつかず、同じように進んでいく。

 そして四〇〇メートル地点通過、ずっと手綱をおさえていた水野騎手の手が、ナギノシーグラスの首を押した。ワンテンポ遅れてマイジーニアスもスパートをかけはじめ、二頭が馬体を併せて直線に入った。

 五〇メートルほど先ではサフランボル、コバルトキャンディがついに逃げ馬をとらえたところだった。刃物のような切れ味こそないながら、ナギノシーグラスは雄大なストライドで前進を続け、先行勢を一頭ずつ確実にとらえていく。前方の馬たちとの距離を詰めていく。

 残り三〇〇メートル、先頭ではサフランボルがコバルトキャンディに置いていかれだしていた。そのまま追い上げてきたナギノシーグラス、マイジーニアスとすれ違い、あっけなく馬群の果てへ消えていった。

 同じころ、後方で雌伏していたサンドリヨンに、ついに鞭が入った。


 北海道、テレビの前で、菅原は腰を浮かせかけながら、テーブルに拳をおしあてていた。

「よし、よし、行け、ふりきれ」

 画面の向こうでは、ナギノシーグラスとずっと馬首を並べていたマイジーニアスが、ついにアタマ差、クビ差、ナギノシーグラスに遅れをとりはじめていた。それでも伸びている、まだ伸びて先行勢はとらえきったが、ナギノシーグラスにはもう再び並びかけられそうもない。

 前方残るはコバルトキャンディだけ、ナギノシーグラスの脚色にはまだまだ余裕があり、一完歩ごとに先頭へと近づいていた。

 残り一〇〇メートル、ナギノシーグラスは、ついにコバルトキャンディをとらえた。半馬身差遅れて、マイジーニアスがまだ食らいついてくる。

 そして気がつけばサンドリヨンが、ときはなたれた芦毛の馬体が接近していた。


 大阪では藤野優衣も兄と共にテレビ観戦していた。

 ナギノシーグラスがやっと先頭に立ったところで優衣の顔に浮かびかけた笑みは、両腕の鳥肌と交代で消えた。

 ゴーリー騎手が出したゴーサインに対しサンドリヨンの見せた瞬発力は、まさに爆発のようだった。ようやく先頭に立ったナギノシーグラス、マイジーニアスの二頭をけんめいに追いかける他馬が止まって見えるような、目にも鮮やかな切れ味でまとめて抜き去り、一気に襲いかかってきた。

 優衣は胸の前で、関節が白くなるほど両手を握りしめた。

「あとちょっと……あとちょっとやから……!」

 それしか言えなかった。サンドリヨンは見る見るうちにまだ三番手で粘るコバルトキャンディをも切りすてた。サンドリヨンから見て二番手のマイジーニアスはもうすぐそこ、だが、その一馬身前のナギノシーグラスから見てもゴールまでもうあとわずかだ。

 サンドリヨンはマイジーニアスをやすやすと差しきった。目を覆いそうになりながら、優衣はそれでも見届けた。

 サンドリヨンの末脚が迫る。だが、ナギノシーグラスもしぶとく伸びている。

ゴールまでのわずか三秒かそこらで、芦毛の馬体は鹿毛の馬体に半馬身差まで食らいつき、クビ差まで食らいついた。


 クビ差まで追いつめられたところがゴール地点だった。

『ナギノシーグラス、先頭でゴールイン――!』

 実況のアナウンサーがそう言いきった。

 ゴール板を過ぎ、スピードをゆるめながら、水野騎手はナギノシーグラスの首をやさしくたたき、その手で何度も、何度もたてがみを撫でた。


 卓也は吠えるような歓声を上げた。歓声を上げてから、思わず手で口をふさぎ、一瞬ご近所の様子をうかがってから、それから両腕を上げ、何度もよっしゃ、よっしゃとくり返した。


 菅原は眼鏡を外し、目頭をぬぐった。まさかこうなって涙が出るほどこの馬を応援していたなんてな、そう思って自分に苦笑した。ナギノシーグラスが勝ったら、山田に電話をかけて喜びの声を無理やり聞かせてやろうと思っていたが、今はやめておいた。


 藤野優衣は叫び、その場で立ち上がってぴょんぴょん跳ねた。兄が冷たい視線を向けてきたが、気にもとめなかった。携帯電話の通知ランプがさっそく点滅して、SNSやメッセージアプリで良かったね、などと声をかけてくる者が数人いることだけちらっと確認したが、返信などしている場合ではなかった。


 電光掲示板は七、五、一四、二、六と着順を示して、時間をかけず確定の文字を光らせた。

 テレビ越しでも、中京競馬場では悲鳴に近い声が上がっているのが聞こえて、卓也は意地の悪い笑みを浮かべた。ナギノシーグラスにやられたと感じる馬券購入者は多いだろう、二着のサンドリヨンは言うまでもなく、三着のマイジーニアスもそれなりに支持を集めていたが、ナギノシーグラスを本命にまでしている人間はそう多くないはずだ。

『ナギノポセイドン産駒、芝重賞初制覇!』

 そんな実況が聞こえ、卓也がはっとしたとき、携帯電話が震動した。あわてて手にとると、父の鼻声が耳にとびこんできた。

「やっとやったよ、シーグラスが、ポセイドンの娘がやりやがったよ!」

 卓也自身この勝利には感動していたというのに、父の鼻声と、さらにその向こうからうっすら母の笑い声が聞こえて、少し笑ってしまった。

「泣くほどなんだ」

「うるさいなあ。十年だぞ。十年ナギノポセイドンを追いかけて、やっと芝重賞で勝てる産駒が出てきたんだよ。おまえにこの気持ちがわかるか」

 そう言うと、鼻をかむ音が聞こえてきた。ややあって父は、いやあ、と息をついた。

「応援し続けてよかった。この先も楽しみだよ」

 意外にも父は、それだけ話すと早々に電話を切ってしまった。胸がつまって言葉にならないような様子だったから、かえって会話を続けることもなかったのだろう。

 卓也のほうは、むしろ今日くらい誰かと喜び合いたかった。胸の中で跳ねまわる感情の行き場のなさを抱えて、しばらくぼんやりしていた。

 ふと思いついて、卓也は携帯電話を手に取った。アルバムから二年前のデータを選びだす。

『今日まで長かった。おめでとう、ナギノシーグラス』

 短い文面に思いをこめて、新馬戦パドックのナギノシーグラスの写真と共に、迷うことなく投稿した。

 それからいったん携帯電話を手ばなして、ため息をついたり、よかったよかったと呟いたりしながら、競馬中継の終わりまで見届けた。

 競馬中継が終わってからもしばらく、卓也はその場に横になってレースの余韻をかみしめていた。

やっと起き上がり、再び携帯電話を手に取った卓也は、画面を見て思わず微笑んだ。

 さっき投稿したナギノシーグラスの写真、何人かのお気に入り登録者の中に、フユイ氏の名前もあった。

過去の登場回

卓也 第1話、第4話

藤野優衣 第5話、第11話

菅原と山田 第2話、第10話

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