第13話 愛知杯①
フユイ、というハンドルネームの人物が投稿したその写真をSNSで見つけて、卓也は微笑んだ。
『中日新聞杯、現地には行けなくて残念ですが、今回もナギノシーグラスを応援しています。写真は馬フォルダから発掘した、三歳になったばかりのナギノシーグラス』
わずかにうつむくようにパドックを歩く姿は、今もそれほど変わっていない。この写真はもう二年ほど前のもの、未勝利時代のナギノシーグラスが懐かしくて、卓也はその写真をお気に入り登録した。
予想の参考になる情報を集めたり、古い友人とやりとりしたりするために、学生の頃からSNSを活用していたが、フユイという人物を見かけるようになったのはここ一年のことだ。
卓也にとっても好きな馬だけに「ナギノシーグラス」という馬名で検索をかけることはときどきあって、現地で撮った写真を投稿している人は今までもゼロではなかったが、この人物の投稿は他とは熱が違った。プロフィール欄にまでナギノシーグラス追いかけてます、などという一言があって、関西で走るたびに、行ける限りこの馬を見に行っているらしいことが、他の投稿からも読み取れる。
こんなマイナー血統でルックスも目立たない条件馬を追いかけるなんて物好きな、と思う反面、自分も似たようなもので卓也は苦笑してしまうのだった。
フユイ氏は、動物写真をテーマに大学の写真部で活動しているらしく、競走馬の他にも秀逸な写真をいくつも投稿していて、初めて目にしたときからじわじわとフォロワーを増やしているユーザーではある。学生でしかも女性ということもあり、あまり踏みこむと怖がらせそうな気がして、卓也からは交流はせず、時折投稿されるナギノシーグラスの写真をお気に入り登録するにとどめている。
今の時点で特別大きな実績をうち立てているわけでもなく、血統も見た目も目立ったものではない、そんな馬を熱心に追いかけているファンが自分の他にもいるという事実はほっこりと嬉しく、親しみのわくものだった。
結局、中日新聞杯のナギノシーグラスは掲示板にも載らない七着に終わった。前崩れといっていい展開の中、先行勢の中ではがんばっていたこともあり、卓也はあまり落胆しなかった。
ナギノシーグラスが出走するたび、レース後に東京の父と通話するのはもはや習慣になっている。その日も携帯電話を手近に置いて待っていると、すぐに電話がかかってきた。
「もしもし。ナギノシーグラスは残念だったな」
通話画面を開いてすぐ、前置きもせずそう言うと、そうだよー、と嘆く声が聞こえてきた。
「今度こそ、って思ったんだけどなあ。やっぱり、重賞となると、苦手な二〇〇〇メートルじゃ太刀打ちできないんじゃないかなあ」
「今回は先行馬にはきつかったよ、勝ち馬も強かったし。おれはむしろ、二〇〇〇でも見どころあると思ったよ」
そうかなあ、と父がため息をつく。
「この次は、どこに出てくるかな。重賞に挑戦するとしたら」
「そんなもん今から予想してもしょうがないだろ、条件戦選ぶかもしれないし。まあ重賞だとしたら、愛知杯あたりが妥当なんじゃないの」
卓也がそう言うと、愛知杯? と父が意外そうな声を出すので、卓也のほうが少し驚いた。
「おかしいか? 中日新聞杯とほぼ条件同じで、ちょうどいい感じに間隔空いてて、実際、そのローテで結果出してる馬も過去にいたじゃん。牝馬限定のハンデ戦、ナギノシーグラスくらいの馬が、とにかく重賞勝ちの実績獲りに行くにはぴったりだと思ったんだけど」
「同じ間隔なら、日経新春杯のほうが合ってそうじゃないか? 京都で二四〇〇なんて得意だろ、この馬」
何より、と、そこで父の声が少し大きくなった。
「父のナギノポセイドンは、ここで初めて重賞を勝ったんだよ。ハンデでいえば愛知杯とそう変わらないと思うしさ」
「それはロマンだけど、あそこはやっぱり強い牡馬もけっこう来るじゃないか。いくらハンデがあったって、菊花賞とか、三歳重賞路線から来る男馬相手に一着までとれるかな?」
「そうか……」
電話の向こうで父がしょんぼりと黙ってしまった。愛してやまないナギノポセイドンの産駒のうち、父と同じ芝の舞台で重賞路線に乗りはじめている馬は、現在のところナギノシーグラスしかいないから、思い入れもひとしおだろう。
ちょっとぶった切りすぎたかな、と悪いような気持ちになりながら、まあ、と卓也は口を開いた。
「おれも来るなら京都に来てほしいかな。そうしたら観に行けるし」
「ナギノシーグラスは京都阪神よく出てくるからいいよな、そのうち中山とか東京でも走ってくれたらいいんだが」
ぶつぶつ言う父に、卓也は笑った。卓也が実家を出てからもうすぐ四年、父と母が東京に遊びに来たことはあるが、両親そろって泊まるスペースは卓也の今の住まいにはないから、日帰りになる。ナギノシーグラスの出走日に合わせて父だけでも泊まり来るようなことは、互いの仕事の都合などもあって実現していなかった。
「またこっち来いよ。おれもいつ転勤あったっておかしくないし、宿代浮くの今のうちだぞ。今度こそナギノシーグラスの出てくる日空けてさ」
「それはいいな。それじゃ、また連絡する」
それじゃ、と返して、卓也は通話を切った。
「ナギノシーグラスの次走、どっちになると思う?」
菅原が身を乗り出すようにして聞くと、卓の向こうで山田がくつくつと笑った。
正月休み、菅原は、北海道の実家に帰ってきていた山田と、チェーンの安居酒屋で久しぶりに対面していた。
中日新聞杯が終わってまもなく、ナギノシーグラスの次走が日経新春杯と愛知杯の両にらみであるという発表があった。両レースまであと二週間ほどという今も、いまだ結論は出ていない。
菅原のほうは、もう二年以上前になる二歳未勝利戦で、ナギノシーグラスという牝馬が印象に残ってしまって以来、ずっと応戦し続けている。血統も鹿毛一色の馬体もたいそう地味で、生産牧場や所属厩舎も大手とはいえない牝馬だが、堅実に走り続けてじわじわ賞金を稼ぎ、とうとう重賞路線に乗り出してきた。
去年六月のマーメイドステークスあたりからは、職場の同期で競馬仲間である山田のほうまで、菅原と一緒になってナギノシーグラスを応援しているふしがある。どういう心境の変化か菅原にはわからなかったが、気の合う友人と同じ馬を応援するのは楽しいものだ。こうして酒に酔うと、多少べらべらと馬のことばかり語っても許されるのではないか、という気分になる。
さっきからナギノシーグラスについて熱っぽく語る菅原を前に、山田のほうは冷静な口調で応じる。
「日経新春杯に来る牡馬によっては愛知杯に移る、とおれは思うかなあ。おれ的には愛知杯」
「なるほどなあ……日経新春杯、なんか強そうなの出走表明してたっけ」
「休み明けになるけど、シュヴァンが出る予定だと。京都新聞杯勝ち馬、ダービーはぼろ負けしたけど、神戸新聞杯は三着、菊花賞は五着。それ以外は関西じゃ全部馬券圏内」
馬名を聞いて、菅原はああ、と頷いた。去年の牡馬クラシック路線を賑わせた、芦毛の一頭だ。
「そりゃ強敵だ」
「ハンデ戦だが、春天意識してる牡馬が何頭も来るからな、あのレース」
「でも愛知杯は愛知杯で、中日新聞杯で先着されたサフランボルとマイジーニアスとまたやりあうことになるみたいだ。中距離は圧倒的にあのへんの牝馬のほうが得意だろうし。二〇〇〇で切れ味自慢相手にするより、長いところで軽ハンデとスタミナ生かすほうが、可能性あると思わないか」
「まあ、そうだなあ。それに、愛知杯は明け四歳馬から厄介なのも出てくるし」
なんだそれ、と菅原が反応すると、山田は携帯電話の画面で競馬サイトからある馬のページを開いて見せてきた。
「次走愛知杯」の記載のあるその競走馬の名前を、菅原も知っていた。
「サンドリヨン! ああ、いたいた。二歳でアルテミスステークス勝ってて、オークス三着だったっけ。そういやしばらく見なかったな」
「そうそう。怪我で休養してたんだよ。えげつない追い込みするけど体質弱いやつ。ジュベナイルと桜はあえて見送って、オークスと秋華賞狙いでじっくり調整してたのに、結局、ローズステークス終わったところで骨折見つかって」
それから、と山田はもう一頭のページを見せてきた。
「こいつも気になる。サンドリヨンと同期のコバルトキャンディ。三歳春はパッとしなかったけど、紫苑ステークス勝って秋華賞出て、エリザベス女王杯は六着。愛知杯に来るんだな」
「こうなると、どっちのレースも手ごわいな……」
そこでちょっと黙り込んで、菅原は早くも赤くなった顔を手で覆った。
「長いとこで牡馬を蹴散らすナギノシーグラスが見たい。得意でもなかった中距離克服して勝つナギノシーグラスも見たい……」
山田が宅に肘をついて、声を上げて笑った。
「ほんと熱烈だよね、おまえ」
「ほっとけよ。いいよなー、おまえは大阪住んでて、京都も阪神も行き放題だろ」
「遠征すればいいっしょ」
「そうそう行けるか、北海道大阪間高いわ。ああ、だけどナギノシーグラスに会いたい……」
普段おとなしく気配り上手の友人が、贔屓の馬の話題では酒の力も手伝って饒舌になり、自分の世界に入りかかってしまう。菅原のこういうところがおもしろいし、山田としては不快ではないが、言われたとおり放っておくと、終わらなくなりそうだ。
「おい、菅原。ナギノシーグラスの前に、まずは金杯だ。どれ買うよ」
「そうだな……」
菅原はしぶしぶ、次の話題に移った。飲み放題の時間は、まだ一時間以上残っている。
一月半ば、フェアリーステークスのテレビ中継を観終えた藤野優衣は、机の上に置いていた携帯電話を手に取った。
来週、日経新春杯にナギノシーグラスが出てきたら、競馬場へ行こうと思う。
学業も就活の準備もやることがどんどん増えてきて、これから好きな馬が関西に出走しても、現地観戦どころではなくなっていくかもしれない。だから、まだ時間のあるうちに好きなことをたくさんやっておきたかった。
優衣がフユイという名前でSNSを活用するようになって、ちょうど一年ほどが経った。
最初は少し怖いような気もしていたが、知らない人からお気に入り登録があったり、ときにはコメントがついたりするのも、最近はさすがに慣れてきた。
「……プロフィールにナギノシーグラスが好きですって書いて、積極的にコメントもしてるんやけど、仲間が見つかれへん」
リビングのソファに腰かけた優衣が、携帯電話をいじりながらぶつぶつ言うと、ソファの足元に座っていた兄の孝道があきれたように笑った。
「血統も実績も渋すぎるわ。おまえレベルのファンがそんなにおるわけないやろ」
「いや、わたしがいてるんやから他にもいてるはずや」
ないわ、という兄を無視して、優衣は、過去のナギノシーグラスの写真に関する反応を遡って眺め、笑みを浮かべた。
ナギノシーグラスが一番好きな馬だなんて、マニアックもいいところだということはわかっている。
それでも、写真を投稿すれば一定の反応はある。先月、中日新聞杯の直前に、未勝利時代のナギノシーグラスの写真を投稿したときなど、いつになくお気に入り登録が増え、コメントまでつけて喜ぶファンも現れた。
そういうわけで、近頃は就活のあいまに、競馬場通いをはじめた頃のデータ整理をしながら、SNSを始める以前に撮影した過去写真を投稿する準備をはじめている。その作業は、兄や写真部の友人の真奈美と一緒に競馬場に行ったときや、ナギノシーグラスを初めて応援したときのことが思い出されて、忙しさの増す日々の中でも、いい気晴らしになっていた。
その一日の終わり、優衣はベッドにもぐりこんでから、携帯電話で競馬サイトを開いて、来週のメインレースの出走予定を確認した。
「……あ、ない」
優衣は小さく声を出した。そして、ため息をついて携帯電話を胸の上に伏せた。
「残念、会いに行かれへんわ。でも楽しみ……」
ナギノシーグラスの名は、日経新春杯の出走予定表にはなく、愛知杯のほうにだけ記載されていた。