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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第三部 重賞戦線編
24/53

第12話 中日新聞杯②

 橘はいまだに、ミスティモーニングという馬を忘れられないでいる。

 血統は良く、新馬戦こそ有力騎手が騎乗して、目のさめるような末脚を発揮して快勝したが、それ以降は、勝ち進むのに手間取っていた。二歳、三歳と条件戦をうろうろし続けるありふれた馬の一頭になるうち、騎乗する騎手もリーディング上位ジョッキーから中堅、若手と変化していき、二戦、三戦継続してコンビを組む騎手もいなくなっていった。

 水野がミスティモーニングに初騎乗したのは三歳秋の一〇〇〇万下のレースで、それまで差しか追い込みの競馬をしてきたこの馬を、初めて逃げさせたのが水野だった。

 はたして脚質転換は成功し、クラシック戦線にこそ間に合わなかったものの、ミスティモーニングと水野のコンビはとんとんと勝ち上がって、明くる年の一月、ついに日経新春杯まで駒を進めたのだった。

 水野がその日経新春杯を勝たせた次のレース、阪神大賞典で、ミスティモーニングの鞍上は外国出身の名手に替わっていた。ミスティモーニングは春の天皇賞や京都大賞典、ステイヤーズステークスなど、距離の長いレース中心に数年走ったあと、一勝もすることなく引退し、結局種牡馬入りもしていない。

 その間、鞍上は点々としたが、最後まで、ミスティモーニングが水野騎手のもとに戻ることはなかった。

 

 日曜、約束の十四時半になったころ、橘はいつもの焼鳥屋に足を踏みいれた。

 一昨日と同じく、シンと一朗が少し早く来ていた。昼時を過ぎ、酒を飲むには早いこの時間帯は、いつもの平日の夜に比べると空席が目立つ。

 橘がカウンター席に着くと、隣になったシンは笑った。

「スーツじゃないの、変な感じですね、お互いに」

「そうやな。……一朗が意外とチャラくない」

 橘の一朗評に、シンが「わかる」と応じると、なんの変哲もないトレーナーにジーンズといった服装の一朗は、ええっと口をとがらせた。

「ぼく、チャラいイメージやったんですか」

「チャラいというか、もうちょっとイケイケかなって思ってたけど、案外素朴やなって」

「そもそもチャラくはないですけど、焼鳥屋にイケイケな格好してきたとして、においつくの嫌じゃないですか」

「それもそうやな」

 そこでいったん軽口を止めて、三人はさっそくビールとつまみを頼み、競馬中継が始まるまで飲み食いをしはじめた。

 パドック中継が始まる頃には三人ともすでにほろ酔い、それぞれ目をつけていた馬たちを見ながらああでもないこうでもない、と言い合うだけでも、橘にとってはひどく楽しいものだった。

「やっぱりリングコンダクターやな。毛ヅヤ、ピッカピカや」

 その橘の言葉には、シンも一朗もうなずいた。素人目にも、十六番のリングコンダクターが目立ってよい姿をしているという印象だった。気が立っているわけでもないが、二人の厩務員に引かれるままという様子でもなく、しっかりとした足取りで自ら前へ前へ歩いているように見えた。

 続いて映しだされたのは十七番のナギノシーグラスだ。リングコンダクターも似たような、他に目立った特徴のない鹿毛馬だから、並べて見るとどうしても平凡な印象を受けてしまう。何しろ歩く姿がおとなしすぎる。

「元気なさそうですね、なんだか首が低くて。ずっと内側歩いてるし」

 シンが感想を述べる。橘もおおむね同じ思いだったが、それでも水野騎手が重賞で乗る以上はどうにも見捨てがたく、うーん、と曖昧な返事をかえして、ビールをあおった。そこで口をはさんだのは一朗だった。

「パドック、外を歩いてるのは良いって聞きますけど、ぼく、あんまり信用してないんですよね。競馬はじめたばっかりのころにそれ聞いて馬券買ってたんですけど、結局それで当たるイメージ、ないんですよ」

 ああ、とシンはうなずいた。

「絶対ではないやんな。おれは、内外の問題というより、パドックを囲む人垣に物怖じしてるかどうか、は見るようにしてる。首を上げ下げしてるわけでもないのに、品定めしてくる人間どもをにらみ返す! みたいなでかい態度で歩いてる馬は、結構当たる……かもしれへん。知らんけど」

「そこは断言してくださいよ」

「印象でしかないからな」

「まあ、パドックなんてそんなもんですよね。でも、リングコンダクターはこの中やとやっぱり違いますよ。首の動きも柔らかくて、リラックスしてる感じ」

 三人はそろってうなずいた。それを皮切りに、橘は自分の携帯電話をとりだした。

「決まりやわ。おれ、もう買うわ」

 シンも一朗もそれに続いた。

 中日新聞杯と、それぞれ狙い目としていたいくつかのレースの馬券をインターネットで購入して、三人は発走時刻を待った。待っているうちに、シンがぽつりとこう言った。

「競馬場行きたくなってきたな。しばらく行ってないんですよ、こういうのはやっぱり、現地で紙の馬券買ってやったほうが面白くないですか」

 橘は力強く頷いた。

「それはそうやな」

「でも、なかなか時間もないし、時間ある土日でも仕事で疲れてて、さあ行こう、ってならんのですよね」

 でも近いうち久しぶりに行くかなあ……とぶつぶつ言うシンを見ながら、三人のうち誰かが、行こうぜと声を上げたらそういうことになるのではないか、と橘は思いはじめていた。

(ひとまずは、今日が終わるまで様子見やな……)

 シンもその先を何か言う様子はないし、一朗もうんうん頷くばかりで真意は読みとれない。

 いくつかのレース中継が終わり、十五時半にさしかかる。カメラは中日新聞杯のスタート地点を映していた。レースは十八頭立て、一昨日議論に上がっていたサフランボルは十番、マイジーニアスは十一番と、三人の注目馬たちは、どちらかというと外枠に固まっている。

 スタートしました、十五時半、遅れもなく発走時刻どおりにレースは開始した。出走馬が一直線に飛びだして、お手本のようなそろったスタートだったが、まもなく内枠の二番がぐいぐいと逃げはじめ、ワンテンポ置いて四番もそれに続き、最初のコーナーを回るまでに隊列は定まった。

「四番、いい位置やな。こいつが残ってくれたらおいしい」

 そう言うシンが買った馬券は馬連で、十六番リングコンダクターを軸に、四、十、十一番に千円ずつ流している。

「牝馬はナギノシーグラス以外、後方に潜んでますねえ。マイジーニアスはどこで上がってくるかな」

 一朗はリングコンダクターの単複と、マイジーニアスの複勝に百円ずつ賭けている。千円単位で賭けるのにはまだためらいがあるらしい。

 橘は三連複、二番人気の牡馬を二頭軸にして、サフランボル、マイジーニアス、ナギノシーグラスと牝馬三頭に加え、さらに穴馬をもう二頭選んで千円ずつ流してみた。

 橘も、普段は百円単位でしか賭けないが、ダービーと有馬記念と、こういうときは別だと思っている。普段から無駄遣いをするわけではないから、家族もそれくらいならなんとも言わないでいてくれる。

 水野騎手が騎乗するナギノシーグラスは今回も前目、前から六番目のあたりで第二コーナーを通過しつつあった。ペースは平均的で隊列はさしてばらついていない。このまま逃げ先行勢が最後まで先頭を譲らないか、どこかで差し追い込み勢が追い上げてくるか、いずれの展開になったとしても、今の時点では驚かない。

 マイジーニアスはナギノシーグラスから二、三頭分あとの馬群真ん中あたりで、リングコンダクターは後方、サフランボルがその真後ろにつけて、人気馬をマークしているらしいことが窺われる。

 最初に動いたのはナギノシーグラスだった。向こう正面の半ば過ぎで鞍上の手が動き、四番手、三番手と位置を上げていく。前走を思い出す早め仕掛け、期待が橘の口から「おぉ」という声になって漏れた。

「水野、攻めますねえ」

 一朗がそわそわした様子で言う。シンも落ち着かない様子だ。無理もない、この二人はナギノシーグラスを馬券に絡めていないのだから。

 しかし、前走通りにはいかなかった。ナギノシーグラスに並ばれた逃げ馬の二番が思わぬ抵抗を見せ、先頭を譲るまいとペースを上げる。先行勢の何頭かもつられたか、四コーナーに入る前から鞍上の手が動きはじめ、逃げ馬とナギノシーグラスについていく。

「おいおい、まだ直線の坂残ってんぞ……」

 シンがあきれた様子で呟く。中京二〇〇〇メートルの最後の直線は長い。途中で力尽きたら、後方集団に飲みこまれることになる。

 最初に脱落したのは逃げていた二番馬だった。直線序盤でついに、ナギノシーグラスから半馬身、一馬身、ふり落とされていった。だが、そこで一度は先頭に立ちかけたナギノシーグラスのほうもたいしてもたなかった。

 息が上がった、というほど余力をなくしたふうではない。後方にいた馬たちのほうも充分に脚を残していたのだ。この展開になって、ナギノシーグラスが持ち前のスタミナで押しきるには、二〇〇〇メートルという距離もまた短すぎた。

 最初にナギノシーグラスをかわしたのは、中団位置をキープしていたマイジーニアスだった。

 橘が静かにうめき、シンが拳をにぎる。

「ああ、ゴーリーもはよ来てくれ……!」

 一朗の呟きに応えるかのように、直線半ばまできて、リングコンダクターの鞍上ゴーリーが動いた。馬群の外に持ち出し、進路を確保した瞬間、騎手が鞭を入れ、応えて鹿毛の馬体ははじけるように伸びた。サフランボルがワンテンポ置いてそれに続く。

 残りの百メートルは、追い込んできた馬たちでごったがえすようなありさまだった。リングコンダクターが、サフランボルが、続けざまにナギノシーグラスを、マイジーニアスをかわし去る。シンがにぎっていた拳を突きあげ、小さく歓声を上げると、テーブル席のほうにいた少ない人々がちらちらこちらを見てきた。

 一着、二着はそのまま決着した。一馬身程度開けて、二頭に続けて追い込んだ二頭が並んで入着し、マイジーニアスは五着、ナギノシーグラスはそこから半馬身差ほど、六着か七着でゴールしたように見える。

 シンがビールのおかわりを注文しながら店主に自慢している。橘の馬券はおそらく写真判定次第で、二番人気の馬が三着に入れば的中だが、肉眼では判別できなかった。

「いいなあ、シンさんばっちりですね。おれはリングの単複だけです。橘さんは……」

 一朗に聞かれて、橘は顔をしかめ、首をひねった。

「まだわからんな……」

 テレビには、三着、四着のところだけ数字が示されていない電光掲示板が少しのあいだ映しだされ、それから、勝ち馬リングコンダクターの姿が映った。こうなると確定するまで待つしかなく、橘と一朗もビールと焼き鳥を追加で注文しながら、口々にシンにおめでとうと言った。

「シンさん、お見事。二着にサフランボルなら結構つくやろ」

「やっぱりゴーリーは上手かったです。ほな、今日はシンさんの奢りですね! ごちそうさま!」

「一朗は調子乗んな、おまえ当てたやろ」

 軽口をたたきあいながら、店主がついでくれたビールを各自受け取ったとき、再びテレビから確定しました、という音声が聞こえて、三人は一瞬静かになり、モニターに注目した。

 結果は、三着が二番人気の馬だった。橘の馬券も的中だ。三人は歓声を上げ、さわがしく二度目の乾杯をかわした。

「店主、今日、ありがとう! めっちゃ盛り上がったわ」

 シンが真っ赤な顔に満面の笑みを浮かべ、カウンター越しに礼を言うと、店主はにやっとして応じた。

「いえいえこちらこそおおきに。また土日もお願いしますよ」

「また絶対来るわ。ここで競馬やったら当たるって宣伝しとくわ」

 調子よさそうなシンに、一朗が、その前に、と声を上げた。

「次は、三人で競馬場行きましょうよ!」

 橘は、よく言った一朗! と言って、思わずシン越しに腕を伸ばして握手を求めた。

「おまえがそう言いだすのを、おれは待ってたんや」

「えっ、なんでぼくなんですか。ぼくはぼくで、年長者のどちらかが行こうぜって言わへんかなーって思ってたんですよ」

「一番おっさんのおれが言って断りにくかったら、悪いやんか」

 勢いで握手に応じた一朗の体をのけぞってよけながら、ええ、と声を上げたのはシンだった。

「むしろ橘さんのほうがご家庭もあるし、こちらからは誘いにくかったですよ。一朗もそうやろ?」

「そうです。会社の上司先輩と休日にバーベキューとか、そういうのは苦手なんですけど、おれもこの三人でなら、土日に競馬行ってみても楽しいやろうなあって考えてましたよ」

 橘はなんやねん、と笑った。自分だけではなかったのか、もっと早く声を上げればよかった。

「まあ、馬券度外視で応援してる馬とか騎手が三人とも別々で、それが同じ重賞に揃うっていうのは盛り上がるけど、考えたら初めてかもしれへんな。こうやって話すようになってからは」

「それは水野騎手の難易度が高いんですよ、あんまり重賞で乗らないんですから」

「そうやなあ。しばらくナギノシーグラスに乗り続けるならまた望みはあると思うけど。今回負けたし、どうやろうな」

 橘とシンのそんなやりとりを聞いて、一朗は、じゃあ、と口を開き、カウンターをぽんとたたいた。

「とりあえず次、関西で原、ゴーリー、水野がそろって出るレースがあったら行く、ということでどうですか? できれば重賞がいいですけど」

「賛成」

「乗った」

 そうして、三人は初めて携帯電話を突き合わせ、互いの電話番号やメッセージアプリのアカウントを登録しあった。三人の様子をずっと楽しそうに見ていた店主が、「お客さんら、まだ連絡先も交換してなかったんですか」と、あきれた声で言った。


 電車に揺られながら、橘は心地良い酔いの残る頭で、楽しかった時間をふりかえっていた。

 競馬は、やはり好きな馬や騎手が出ているときこそおもしろい。そのおもしろさを、気の合う友人たちと共有しているときは一層楽しい。こんなに楽しい時間を与えてくれて、年の離れた友人たちと現地入りするきっかけを橘にくれたのは、水野騎手の貴重な重賞騎乗の一鞍となった、ナギノシーグラスという馬だという気がしてならなかった。

 ずっと鞍上が転々としている馬ではあるし、あのミスティモーニングのことを思うと、水野とのコンビ継続を過剰に期待することなどできないが、乗り続けてくれたら……と、橘は思う。

 ナギノシーグラスという馬が、自分の楽しみを少し大きなものにする足掛かりとなってくれたように、あの若い騎手にとっても、飛躍の一歩となればいい。橘は、静かにそう願った。

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