第12話 中日新聞杯①
冬の淀、芝コースを、他馬を引きつれて芦毛の馬体が逃げていく。
スタートしたところで出鞭を一発、強引にも見える動きで乗り馬を逃げさせた鞍上は、レース終わりに、これしかないと思った、と語った。
最後の直線、二番手、三番手が追いすがるも、芦毛馬は止まらない。
二四〇〇メートルの旅路を、最初から最後まで先頭を譲らないまま、その馬は一着でゴールした。
三年前、二十五歳だった水野騎手は、十番人気で出走した四歳牡馬、ミスティモーニングと共に日経新春杯を勝利した。
そのとき現地にいた橘が購入していた、ミスティモーニングを紐に入れた三連複は、見事万馬券となった。コース沿いで一人、橘は周囲もかえりみず、歓声を上げたのだった。
『今回のメンバーでは力が上でした。切れるタイプではありませんが、スタミナがあって長く脚を使える馬だと聞いていたので、自信をもって早めに動いていこうと思っていました。馬の気持ちも前向きで、二着馬が来たら自分からもうひと伸びしてくれました』
十月の北野特別で、ナギノシーグラスという牝馬に騎乗し勝利した水野騎手は、そんなレース後コメントを出していた。
「水野、次も乗れたらええなあ……」
ラジオでレースの模様を確認していた橘は一人呟いた。
数年前、水野騎手が日経新春杯で穴馬を勝たせて以来、この騎手には注目している。人気薄の馬でレースに出ているときに、紐に入れたり、複勝を買ったりしているのだが、馬券の相性が良いようで、水野騎手で当てた日は収支がプラスになることが多い。
ナギノシーグラスのほうは前走、降級直後にマーメイドステークスに挑戦し敗れている。六着とはいえ、先行勢が上位に残る展開で、後方馬群からただ一頭伸びてきた内容は悪くなかったように思うし、近いうちにまた、重賞戦線に向いてきそうな様子だ。
重賞に乗ることも少ない騎手を追いかけていると、条件戦を一勝しただけで嬉しくなるものだ。水野騎手は、橘からすれば一回りほど年下だが、実績を積んだベテラン騎手や、海外経験豊富な外国人騎手に有力馬が偏りがちな現代競馬の中で、二十代の若い騎手にチャンスが回ってくると応援したくなってくる。
水野騎手はもともと一般家庭出身で、所属している厩舎の縁で乗る馬の傾向も、個人馬主の所有馬やマイナー血統の馬が多い。同じ年代の他の騎手と比べても騎乗数は少ないほうで、乗り馬の傾向も地味だった。リーディング上位種牡馬の産駒に乗っているだけでも珍しいと感じるくらいで、人脈の少なさは影響しているだろう、などと推測する競馬ファンは多い。
お世辞にも一流騎手といえる立場ではないが、穴馬を持ってくるイメージがあって、橘のような一部の穴党はこの騎手を評価している。もう少し力のある馬が回ってくるようになったら、もっと勝てるんじゃないか、と橘などは思っているのだった。
まず、このナギノシーグラスという馬に、水野騎手が次に乗れる可能性があるのかどうかもわからない。
「徳増、藤木、小久保、原……」
ナギノシーグラスという馬の戦績をインターネットで調べ、今までに騎乗してきた騎手たちを確認する。なんとも華のない面子だ、というのが正直な感想だった。この中だとかろうじて、原騎手だけは、GⅠレースの常連で何勝もしているベテランだが、あとは、重賞で姿を目にするのも水野並に少ない中堅クラスの徳増と小久保に、水野よりさらに若い藤木。
前走北野特別で原から水野に乗り替わったのは、原が同じレースの他馬に先約があったからだろう。結果的に勝利したのはナギノシーグラスだが、馬主からすれば、実績的に見て、原と水野の両方が空いているのであれば、原を乗せたいと考えるのが自然ではないか。
だが、それから一ヶ月が経ち、橘の期待どおり、十一月の末、ナギノシーグラスの次走が中日新聞杯で、鞍上は水野騎手であることが判明した。原騎手はマイジーニアスという別の牝馬に乗ることになったらしい。
その中日新聞杯の二日前の金曜になって、仕事終わりの橘は、梅田のはずれにある焼鳥屋に足を運んだ。
カウンター席に通されると、この店でよく会う常連仲間の男が二人、すぐに気づいて笑顔で手を上げてきた。橘はよう、と応じた。
「橘さん、久しぶりじゃないですか? 最近は馬券どうですか」
さっそく声をかけてきた若いほう、一朗は二十代半ばで、大の原騎手びいきだ。淀屋橋で働いていて、高槻の家に帰る途中、ここに寄ることが多いらしい。
隣のもう一人、シンという男は今年で三十三歳、こちらは尼崎で暮らしているそうだが、職場が中津で、やはりこの店が仕事帰りの行きつけになっているという。
狭い店だが、カウンターのすぐ横にテレビが備えつけてある。どの番組を流しているかは基本的に店主の気分次第だが、野球やらラグビーやら、スポーツ中継を観ながら店主や他の客と盛り上がって帰ることはしょっちゅうあった。
シンも一朗も、四十歳の橘と仕事も年代も違うが、ここで話すようになってそろそろ一年、会うたび競馬談義に興じるくらいには親しくなった。
そのうち、三人で競馬場に行けたらいいなあ、と橘などは思っている。だが、一番年長の自分がそんなことを言っても断りにくいだろうし、約束などせず、ここでふらっと会って話す程度の距離感だからこそ良いのかもしれない、とも思う。だから、橘から提案するのはためらっている。
店主にビールとつまみ、焼鳥の串を何本か頼んでから、三人はさっそく中日新聞杯の予想を披露しあった。
まず、リングコンダクターという馬が固い、という点で三人の意見は一致した。一朗が早口に語る。
「出走馬の中じゃ安定感ダンチですよね。一月の日経新春杯以来勝ててはないけど、春天でも宝塚記念でも五着」
「前走の秋天は七着か。まあ、あれだけメンバー揃えばな」
「その前の京都大賞典なんかは惜しかったですけど、一着のヤマオロシが強すぎましたよ。でも、その天皇賞馬のヤマオロシにクビ差まで迫ったわけですから」
うんうんとシンが頷く。
「この実績で、鞍上ゴーリーってだけで買える」
「シンさんはゴーリー好きですしね」
「実際勝つやん。ゴーリー乗ってたらとりあえず買うやろ」
「まあ、買いますけど」
ゴーリーはイギリス出身だが、一昨年から通年免許を取得して日本のレースで活躍している騎手だ。文句なしに名手であり、日本で乗りはじめてすぐに次々に勝ち星を挙げ、数多くの有力馬の主戦を務めるようになった。
穴党で、あまり目立たない騎手を応援しがちな橘はちょっと苦笑いした。
「ゴーリーばっかり勝っても、なあ」
「ちょっとおもしろくないですよねー」
日本人騎手がひいきという点で、ここでは、橘と一朗の好みが一致する。シンが抗議めいた声を上げた。
「勝ちすぎてつまらん、みたいなことたまに言われてますけど、あいつのおかげで日の目見た馬もいますやんか」
「あ、またシンさんが一口やってた馬の話だ」
「そうそう。おれも昔はコンビ継続好きでしたけど、初めて出資した馬が、ずーっと未勝利戦うろうろしてて、もう、一勝するのも無理やと思ったんですよね。でも、短期免許で来てたゴーリーが乗った瞬間勝ち上がって、おかげで、重賞勝ちはないまでも結構長いこと楽しませてくれて。さすがに考え方変わったんですよね、やっぱりうまいやつが乗って、力のある馬を勝たせるべきやって。ゴーリーも好きになった」
一口馬主経験のあるシンは、酔うと毎回この話をする。
リングコンダクターとゴーリーの話をしているうちに、注文していたつまみのうち、時間のかからないメニューが次々にできあがってきた。そこで話がひと区切りして、橘が、他はどう思うよ、と問いかけると、これにはまたシンが答えた。
「牝馬はちょっと注目しといたほうがいいと思うんですよ、このレース」
橘はうん、と頷いた。
「おれ、今回はナギノシーグラス買うで。前走の内容良かったし」
「水野騎手乗るし?」
「それだけやないって。条件戦上がりとはいえ、牡馬相手に二四〇〇やら二六〇〇やらで好走してきてて気になる牝馬や、穴党としては、重賞でもしばらく警戒しといたほうがいいんちゃうかな、と」
そこで一朗がにやっと笑った。
「でも水野騎手の重賞騎乗は、橘さん、チェックするでしょ?」
「まあそうやけど。水野乗ってたから前走もちゃんと見たんやけど、あれはいい馬やと思う。牝馬で、長いとこでも最後までいい脚使える、しぶとい走りするやつはどっかで儲けさせてくれる気がする」
そのとき、シンが口をはさんだ。
「おれが話したかったのは、サフランボルとマイジーニアスのことなんですけど……」
「ごめんごめん、話とってしもて。話してくれ」
シンはいえいえと笑った。
「じゃあ話します。マイジーニアスは去年の愛知杯勝ってて条件は合ってそうで。愛知杯以来負け続きですけど大崩れはしてなくて、前走のエリ女は人気薄でも粘って五着。あの掲示板がまぐれかどうかはこのレースでわかるやろうな、ってところで、まあ今回買うならそれこそ賭けですけど」
「マイジーニアスは人気しそうやんな」
橘が応じると、続いて一郎が頷く。
「穴にはならないないですよねえ。ぼくは今回、安心して原騎手買えます」
シンがそうやな、と言って顎に手を当てた。
「どっちかっていうと、サフランボルのほうが当たったら美味しそうな……。こっちは逆に、重賞勝ちはないけど、府中牝馬まで好走続きで、前走のエリ女も五番人気くらいでしたっけ? それを裏切る十二着。でもおれ、GⅢクラスだったらまだやれると思うんすよね、この馬」
そのとき、携帯電話で何やら調べていた一郎が、あ、と声を上げた。
「マイジーニアスはこの次の愛知杯で引退することが確定みたいですね」
シンがへえ、と腕を組んだ。
「マイジーニアスに限らず、ここに来る牝馬、結果にもよるけど次は愛知杯狙ってきそうやな。あれっ、じゃあ、メイチはここじゃなくて次か? やっぱり牡馬買うべきか……?」
ちょっと考えこんだシンの様子に、橘と一郎は笑った。そのとき、次々焼きあがってきた焼鳥を皿に並べながら、店主が口をはさんできた。
「お客さんたち、競馬場にも一緒に行くことあるんですか?」
三人は顔を見合わせた。一瞬の間があったが、最初にシンが口を開いた。
「いや、それはないっすね。ここで会って競馬の話する以外はあんまり」
「あんまりお互いの話もしませんもんね」
一郎もそういえば、とつぶやいて、橘は少しばかり残念なような気持ちをかみ殺しながら、そうそう、と当たり前のように頷いた。二人とも、今までその発想をしてこなかったように見える反応だ。
意外ですわ、と言って、店主がこう提案した。
「よかったら、一回三人で土日来てくださいよ。そこのテレビで競馬流しますよ、絶対盛り上がるでしょ」
「あれ、この店、何時からやってるんでしたっけ?」
「基本的に、十四時からやってますよ。仕事休みの日に梅田まで出てくるのも面倒かもしれへんし、無理にとは言いませんけど」
押しつけがましくないにせよ、それは店主の営業ではあるだろうが、橘は面白そうやな、と思った。まずは黙って二人の様子をうかがうと、シンが乗り気な様子で応じた。
「せっかくやし、おれはこの日曜行こうかな。ついでに買い物もできるし」
「じゃあ、おれも。彼女をドライブに誘ってたんですけど、その日はふられたんで」
シンと一郎、それから店主がいっせいに橘のほうを見た。答えはひとつだった。
「そりゃ、行くしかないなあ」
「日曜ですけど、家族サービスは大丈夫ですか?」
「その日は嫁さんと娘がおれを仲間外れにして出かけてるから、家にいても寝るしかないし、ちょうどいいわ」
やりとりを前に、店主はにやりと笑った。
「ほな、カウンター席とテレビ、予約済みにしときます」