第11話 1000万下Ⅲ②
トリアイナの一件は、優衣にとって少しばかり心痛い体験ではあったが、それからしばらく競馬と距離を置く生活に入ったから、そこまで思い悩まずに済んだ部分はあるかもしれなかった。夏の間、観に行ける競馬場でのレースもなく、ナギノシーグラスも休養しているうえ、長期インターンやアルバイトに励んだり、写真部の撮影合宿へ行ったりしていて、競馬に割ける時間は多くなかったのだ。
やがて九月に入り、また関西での競馬が開催される時期がやってきた。ナギノシーグラスの情報は未だ出てきておらず、優衣の学生としての日々も忙しいものだったから、九月の時点では競馬場に行く気が起きなかった。
それでも十月に入ったころ、立て込んでいた予定も落ち着いて、やっと、久しぶりに競馬場に行きたいな、という気持ちになりはじめた。
定期的にチェックしていたナギノシーグラスの情報を確認すると、ついに次走予定も更新されていた。北野特別。京都二〇〇〇メートル、一〇〇〇万下のレースだ。
競走馬をクラス分けする数字である賞金を、収得賞金という。ナギノシーグラスは、一〇〇〇万下のレースはすでに一度勝ち上がっていたから、一時は一六〇〇万下クラスの額の収得賞金を獲得していた。
ただしナギノシーグラスは四歳馬。降級制度のため、マーメイドステークス直前の時点で収得賞金が半分になり、再び一〇〇〇万下クラスとなっていた。重賞であり、すべての馬が出走できるオープンクラスのレースでもあるマーメイドステークスはフルゲートにならなかったから、収得賞金が少なくても出走はできた。だが、これから現三歳世代が古馬に合流すれば、このままの収得賞金額では、格上のレースには出走するのも難しくなってくるだろう。
ナギノシーグラスは一度、再び自己条件のレースで賞金を稼ぎなおすことになる。
優衣はというと、十一月下旬に開催される学祭での写真部展示会で、優衣が展示する作品も何枚かはすでに選んでいたが、ナギノシーグラスの写真だけはどれにするか決めあぐねていた。
「条件戦の勝ち写真にするか、負けてても重賞初出走の姿にするか……」
展示写真の選定期限も間近で、うんうん唸って迷っている優衣に、真奈美も兄も苦笑を向けてくるものだった。
選定期限は来週の火曜日、十月最後のミーティングだ。ナギノシーグラスが勝つかどうかもわからないが、優衣は、この北野特別で撮れる一枚次第で心を決めることにした。
そういうわけで北野特別当日、優衣は一人京阪電車に乗り込んだ。
この日の京都メインレースはGⅠの菊花賞。朝から小雨が降ったり止んだりの天候だというのに、十三時過ぎの時点で、淀駅は相当な人の多さだ。
今日は兄の孝道も、学生時代の競馬仲間と一緒に、朝から現地に来ているはずだ。収支は勝っているだろうか負けているだろうか、と思いながら、優衣は、いつにも増してハイペースな人の流れの中を入場口に向かって速足に歩いた。
パドックにたどり着いて、優衣は足をすくませた。GⅠの日だから当然だが、想定していた以上に人が多い。いま周回しているのは、八レースのなでしこ賞に出走する二歳馬たちだが、それでもパドックを取り囲む観衆の熱視線は、薄暗い空の下、湿った秋の空気すら炙るようだ。
優衣は階段を降りたところで、パドックを見下ろしながらしばらく逡巡した。そして、ついにその場を諦め、方向転換してコースのほうへ歩きはじめた。
北野特別は第九レース。菊花賞出走馬をじっくり観るために、コースへ行かずパドックに居座る観客も多いタイミングだ。
ナギノシーグラスの勝ち写真が撮りたい。そのために、人の溢れかえるGⅠ開催日のコース周辺でも、少しでも好きな馬を見やすい、応援しやすい場所を。そう思うと、パドックも惜しくない気がした。
ずっと応援してきたナギノシーグラスという馬の、走る姿をこそ見たい。そして、できることなら勝つ瞬間を目撃したいのだ。その思いで胸が高鳴り、必要もなく駆けだしてしまいそうだった。
駅を出てから少しの間止んでいた雨がまたぽつぽつと降りだした。しばらくして場内アナウンスが、芝コースの馬場状態が稍重から重馬場に変更されたことを伝えた。
北野特別は十三頭立て、ナギノシーグラスは七枠十番、騎手はオレンジの帽子をかぶっている。
今回の鞍上は水野騎手、ナギノシーグラスとは初コンビだった。ここ最近でナギノシーグラスとコンビを組んだ、小久保や原といった騎手はそれぞれ別の競馬場にいたり、別の馬を優先したりしている。なかなか条件戦を抜け出せないナギノシーグラスと続けてコンビを組める騎手となると、難しいのかもしれない。
水野騎手は二十八、デビューからちょうど十年目だが、重賞を勝った経験が数度あるくらいで、GⅠとなると、出走する機会さえ少ない層のジョッキーだった。
返し馬で目の前を駆け去る姿を目で追う優衣の中に、いつになく、勝利よりも無事を祈る自分がいることに気づく。
トリアイナのことを思い出すと、怪我をするくらいなら走らないでくれ、無理しないでくれ、という思いがよぎりそうになる。だが、優衣は頭を振ってその考えを追い払った。
走ることが、勝ちに向かっていくことこそが、競走馬の生命だからだ。走ることで己の価値を高め、命をつなぎ、血を広げていくことが競走馬の輝きだからだ。
その輝きは、競馬という娯楽の暗い一面を目の当たりにしてしまった悲しみさえ、人によっては押し流してしまう。心臓をしめつけられながら、祈りながら、それでも優衣は、ナギノシーグラスに魅せられていた。スターターが台に上がり、旗をかかげる、ファンファーレが鳴り響く。静かにゲートにおさまる姿を、優衣はひたすら目で追っていた。何を祈ろうが、心配してみようが、結局、その馬の走る姿をこそ待ち望んでいた。
『スタートしました――』
ゲートが音をたてて開き、馬たちが飛びだした。ゴールまで約一〇〇メートルの地点、他の観客何人か分後ろにいる優衣の前を、馬群はすぐに通りすぎていった。
揃ったスタート、内側の馬が二、三頭どんどん前へ出ていくなか、ナギノシーグラスも外から位置を押し上げていっている。最初のコーナーを回りながら、逃げ馬と、二番手の馬が一馬身ずつ離してレースを引っぱり、ナギノシーグラスは三番手の馬のすぐ後にぴたりとつけるポジションでいったん落ちつき、そのまま向こう正面へ入っていった。
騎手が変わった影響がさっそく現れたか、久しぶりの積極策だった。長らく、ナギノシーグラスを先行させる騎手はいなかったことを思うと、優衣の胸は期待に熱くなった。
向こう正面を半ば過ぎたあたりで、水野騎手の手が動いたことに、ターフビジョンを見つめていた優衣は気づいた。実況は後方馬群の解説をしているところで、それに紛れてひっそりと動いたような印象さえあるが、そのとき、ナギノシーグラスは四番手から二番手へいっきに位置を上げた。逃げ馬にじわりと並びかけていきながら、三コーナーへ進出する。
優衣は、このレースが始まってから周囲の物音をほとんど無視していたが、それでも、四コーナーを回りきらないうちに、ナギノシーグラスが先頭に立とうとしたところで周囲がざわついたのは感じとった。物音が急に戻ってきたような、優衣の心と他の観衆の心が呼応したような、そんな一体感じみたものをおぼえた。
最後の直線に入りかけたところで、ナギノシーグラスは先頭に躍りでてきた。早すぎるのではないかと案じてしまうくらいの積極策。だが、騎手はいっさいためらいのない様子で馬首を押し、鞭を入れる。鹿毛の馬体も応えて伸びる。
早仕掛けにバテる気配もなく、ナギノシーグラスはぐんぐん前進した。残り三〇〇メートル、独走態勢に入るかと思いきや、内ラチ寄りをずるずる下がっていく馬の脇をこじあけて、最内にひそんでいた馬が一頭、末脚を伸ばしてきた。優衣はカメラを構えながら息をのんだ。
追い込んできたその馬が、内からナギノシーグラスに追いすがる。並びかける。もうだめだ、また先頭を奪われる、優衣はそう思ったが、そうはならなかった。
追い込み馬がアタマ差まで食らいついたとき、ナギノシーグラスがまたひと伸びした。残り二〇〇メートル、差し返したナギノシーグラスに、追い込み馬が再び食い下がる気配はなかった。優衣はカメラをかまえた。
鹿毛の馬体がさらに前進し、追い込んできた馬をまたひき離す。三番手以下の馬はさらに二、三馬身離れている。追い込み馬も、もはや追いつく様子はない。
ナギノシーグラスが勝つ。
優衣の視界の、人の頭と頭の間に隙間はあり、カメラはズームを調整済み、連写モードも準備できている。
ナギノシーグラスの馬体が残り一〇〇メートル地点にさしかかった瞬間、優衣はシャッターを押した。
連続するシャッター音は、スタンドに沸く歓声に溶けこんで、よく聴こえなかった。
北野特別が終わった後、移動しない観客は優衣の他にも多く見られた。パドックに執着せず、ここで少しでもいい場所を確保しておきたい連中だろう。
優衣はそこまで考えていたわけではなく、動くのが億劫な心持ちでそこにいた。メインのGⅠ、菊花賞はこれからだというのに、もう目的は果たしてしまって、力が抜けていた。
しばらく降り続いていた小雨は、いつの間にかまた止んでいた。広い空には厚い雲がたれこめて、相変わらずどんよりとした色をしている。
撮影データを確認すると、勝利の瞬間までの数秒分、ナギノシーグラスが駆けていく姿がいくつも残されている。ゴールにはまだ少し遠かったり、人の動きに遮られたりしている写真もあるなかで、ある一枚に、その瞬間は見事におさまっていた。
その光景に映しだされたナギノシーグラスは、ほとんど顔の見えない後ろ姿ではあった。伸ばした全身、視線の先にはゴール板、その背後には追いすがる二着馬の首から先までが奇跡的に、優衣の前にいた人々の頭やカメラに邪魔されることなく、勝利の瞬間が見てとれる一瞬として切り取られている。
この瞬間があるから、競馬を観に行かずにはいられない。
もう何も迷うことはなかった。学祭展示に提出するナギノシーグラスの一枚は、これだ。
重賞でないことなどもはや関係ない。思い入れの強い馬が一勝を挙げたということ、それが目の前で果たされたということ、それがどれだけ心震えることかということをいま、優衣は久しぶりに感じていた。
他のデータを確認しはじめても、何度もその一枚に戻ってきてしまう。そのうち、周囲に人が増えてきた。第十レースの出走馬たちがコースに出てきている。
へとへとだったが、少し考えて、優衣は菊花賞まで観戦していくことに決めた。GⅠまで勝ち進んできた偉大な若駒たちの走りをこの目で見て、その姿を称え、興奮する他の観衆と一体化したいと思ったのだ。
(いつか……)
ナギノシーグラスが、こんなふうに熱狂する舞台に出てくることはできるだろうか。
それとも、それまでに走りをやめてしまうだろうか。
もしそうなっても、競馬を楽しみ、ナギノシーグラスに魅せられた時間を後悔することはないだろう、と優衣は確信していた。勝利の瞬間のデータをまた再生して、じっと見つめる。
この馬は、競走馬としての終わりまで見届けよう。
たとえどんな幕引きになろうとも。
第十レースの出走馬たちが次々とゲートインしていく。菊花賞まであと一レース。観衆のざわめきは順調に最高潮へと向かっていた。
過去の藤野優衣登場回
第5話 500万下