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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
21/53

第11話 1000万下Ⅲ①

 阪神競馬場、ゴール前で愛用のカメラのシャッターを切って、ゴール板に次々飛びこんでいく馬たちを見送りながら、藤野優衣はがっくりと柵にもたれかかった。

「また負け……」

 一人呟いて、すでに遠くなった馬群の中に青い勝負服を探す。マーメイドステークス、重賞初出走のナギノシーグラスは六着。撮ったばかりの写真を確認して、優衣はため息をついた。

 馬の姿はきれいに映っているが、これは撮りたい画ではなかった。

 競馬場に行くようになり、ナギノシーグラスという馬を追いかけるようになって、一年以上が経つ。去年の九月から今年の六月までに、ナギノシーグラスは六戦していて、そのうち四度も二着に惜敗していたが、五月の白川特別でようやく三勝目を挙げた。

 大学の写真部で動物写真をテーマに活動している優衣が、初めて競馬場に行きはじめたころ、一、二ヶ月に一度くらいのペースで馬の写真を撮りに通っていて、未勝利時代のナギノシーグラスの出走に、意図せず相次いで出くわしたのがはじまりだった。行くたびに登場するこの馬に縁を感じて親しみがわいて、そのうち、この馬めあてに競馬場に行く日を設定するようにもなった。

 二十歳を超えて馬券購入ができるようになった今も、賭け事の側面にはあまり興味がない。レースの大小やルールは少しずつわかってきて、それでも優衣にとって競馬で一番楽しいのは、気に入った馬を追いかけて応援したり、写真を撮ったりすることだった。

 ナギノシーグラスは最初にお気に入りになった馬で、未勝利時代から継続して写真を撮り続けることになった馬だ。

 最後にナギノシーグラスの勝利の瞬間をカメラでとらえられたのは、去年の四月、未勝利脱出の瞬間だった。二勝目は九州のレースで観に行けなかったし、三勝目は別用があって競馬場に行けなかった。

 大学三回生、写真部副部長になっていた優衣は、今の自分の技術で、今のナギノシーグラスの勝利の瞬間を、もう一度撮りたいと強く思っていた。

 そして、できることなら、今年、十一月下旬の学祭で、その一枚を展示作品として出したいと思っていた。

「ナギノシーグラスが一着になった瞬間をまた撮りたい」

「ピンポイントでそれはなかなか難しいやろ」

 マーメイドステークスから数日後、ナギノシーグラスの休養情報をインターネットで知った日の夜、リビングでくつろぎながら、優衣は兄の孝道とそんなやり取りをしていた。難しいやろ、と言った兄に、なんで、と返すと、孝道は渋い顔をした。

「だって、おまえもこれから就活とか卒論とかはじまるし、ナギノシーグラスが出てるときに競馬場行けるとは限らんし、おまえが競馬場行けるときにナギノシーグラスが関西で走るとも限らんし」

「まあ、そっか……」

「こないだあの馬が勝ったときに、行ってなかったっけ? 関西で勝っとったやろ」

「白川特別な、ちょうどわたしが行かれへんときに限って勝つんや。わたしが現地行ったら、いっつも二着や」

 兄は笑った。

「おまえの呪いとちがうか」

 そんなわけあるか、と返しながらも、優衣は、そうだったらどうしよう、と少し考えてしまった。

「あー、シーグラスの勝ち写真撮りたい。できれば重賞がいい。重賞勝ってほしい」

「よけい難しいわ」

「無理ではないやろ。シーグラスはこんなところで終わる馬やない」

「こんなところって言うなよ。競走馬は一勝するだけでも大変なんやぞ。一〇〇〇万下いるだけでもたいしたもんやぞ」

 わかってるけどさ、と言いながら、優衣は頬杖をついて携帯電話をいじりはじめた。

 わかっているが、好きな馬には大レースを勝ってほしいし、カメラが競馬を知るきっかけだった優衣にすれば、好きな馬が大レースを勝つ瞬間をこそ、写真に残したかった。

 優衣はこの年明け頃から、競馬写真を投稿するためにSNSを始めていた。三月にナギノシーグラスを撮るために阪神競馬場に行った日、メインレースがGⅡのフィリーズレビューで、そのときに撮った勝ち馬の写真は自分でも自信の一枚となったのだが、投稿してみると今までになく反響があった。そこから、少しずつ顔や本名を知らない競馬好きたちとも交流するようになっている。

 SNSを始めて実感したのは、重賞馬でもなければ、重賞に出たこともない馬さえ、応援する競馬好きは少なくないということ。それどころか、勝ったこともない、デビューしていない馬にさえ、その親やきょうだいが好きだったから、といった理由で注目する人間もいるということだった。

 優衣にとって嬉しかったのは、ナギノシーグラスにもそんなファンがいくらかついているらしいとわかったことだった。

 ナギノシーグラスが一番好きだということは、SNSのプロフィール欄にも記載していて、レースを観に行くたびに何枚かの写真を投稿している。賭け事は下手なりに予想内容を投稿してみることもあって、ナギノシーグラスについて書きこむこともある。

 そのたびに、ナギノシーグラスに関する投稿を必ずお気に入り登録してくるユーザーが、二、三人はいる。そのうち誰ともやりとりをしたことまではなかったが、彼らの投稿を見てみると、ナギノシーグラスを応援していることが伝わる内容がちらほらあって、親しみをおぼえるのだった。

 重賞に出走したということもあって、自分以外にナギノシーグラスの写真を投稿している人がいつもより多かった。好ましい写真をいくつかチェックすると、優衣はSNSを閉じた。

 そんな妹の様子を見るともなく見ていた孝道が、また口を開く。

「秋まで競馬場はお休みか。今月末にはもう関西での開催なくなるやろ」

「実は再来週、もう一回阪神行くで。宝塚記念の前の日」

「何回行くねん」

「写真部の友達がずっと一緒に行きたいって言ってたんやけど、予定合うのがもうその日しかなかったから」

 なるほど、と孝道は苦笑まじりにうなずいた。


 そういうわけで、六月第三週の土曜日、優衣は真奈美を伴って再び仁川にやってきていた。

「今日はナギノシーグラス、出ないの?」

 仁川駅から競馬場へ向かう道すがら、そう聞いた真奈美に、優衣は笑い返した。

「シーグラスはこないだ出たばっかりやねん。しばらくお休み」

「そうなんや。じゃあ、他に注目してる馬、いる?」

 そうやな、と言って、優衣はレーシングプログラムをめくった。

「四レース、ダートの未勝利戦。ナギノシーグラスと父が同じ馬が出てる」

「きょうだいってこと?」

「ええっとね、競走馬の世界だと、父親が同じだと、血縁関係はともかく、あんまりきょうだいって扱いにはならないんやけど、ナギノポセイドン産駒ってマイナーやから。ナギノシーグラス応援してると、同じ一族の馬やと思うとそっちも応援したくなっちゃって」

 真奈美は、わかっているのかわかっていないのか、微妙な様子で頷く。

「とりあえず、行こか!」

 そのあとは写真を撮ったり、ときどき馬券を買ったり、のんびりと競馬場を楽しんでいた。

 時間が経つのは早くて、気がつけば、優衣が楽しみにしていた新馬戦にさしかかっていた。

「どれ?」

「あれ、あれ」

 優衣がパドックで指さしたのは、大柄な栗毛の牡馬だ。額に丸い大きな星があって、ナギノシーグラスとは対照的に、印象に残りやすい顔立ちをしている。真奈美がくすっと笑った。

「おでこのマーク、かわいいな」

「ほんまや。ナギノシーグラスは見た目地味やのに」

 そのトリアイナという馬は、十四頭立ての十四番人気だった。そんなことは気にもせず、二人は「がんばれ」と印字された単複馬券を買い、パドックの写真を撮ってから、コースのほうへ向かった。

「わたしたち、ろくに予想せずに買ったけど、これ当たったら大儲けやで」

 ゴール付近までやってきて、優衣はにやっとした。

 そうしてレースが始まると、トリアイナは好スタートをきり、先頭に立った。優衣と真奈美は歓声を上げて、逃げるトリアイナに声援を送った。

 二〇〇〇メートルのダート戦、馬群が四コーナーにさしかかったとき、異変は起きた。

 二番手から二馬身ほど離したまま、先頭で直線に入ろうとしていたトリアイナが、がくんとスピードを落とし、位置を下げはじめた。

「なに……なに?」

 真奈美が不安そうな声を上げる。

 故障だ。スタミナ切れなどでは断じてない、急ブレーキをかけたような下がり方。後から来る馬たちがぶつからないよう回避していく。

 優衣はすでに二、三度見たことがある光景だ。それでも、よりによって応援馬券を買って注目していた馬がこうなったのは、初めてのことだった。

 ターフビジョンはすでに故障馬を映しておらず、駆け去っていった他馬たちだけを追っている。遠目に見てもトリアイナの歩様が乱れていて、脚のどれかを引きずっているらしいことだけはわかる。

 優衣は内心、ゴール付近にいたことを感謝した。ここからだと、馬の状態の詳細までは、優衣にも真奈美にもわからない。三〇〇メートルくらい先、直線の半ばで、騎手が下馬している。

「……真奈美、行こう」

 優衣は友人の肩をたたき、人波に乗ってパドックのほうへ歩きだした。真奈美は心配そうに、ちらちらコースのほうを振り返った。

「あれ、大丈夫なん? どうなるん?」

「わからん……」

 それが正直なところだった。

 優衣はすでに、レース中に最悪の事態が起こることがあることは知っている。一方、普段テレビで観戦するほども競馬が好きなわけではなく、競馬場もまだ二度目の真奈美は、そういった事例をよく知っているわけではない。優衣はひとまず笑顔を向けた。

「自分で立ってたし、騎手も早めに気づいたみたいやし、たぶん大丈夫やと思う……」

「ほんまに? それならいいけど……」

 うかない表情ながらも口もとで笑みを返して、真奈美は優衣の横に並んだ。それから、何事もなかったかのように、残りの一日を二人で楽しんだ。

 一日を終え、真奈美と別れて帰宅してから、インターネットでトリアイナのことを調べると、命に別状はなかったらしいことがわかった。「右前肢跛行」の文字はあっても、絶望的な表現はどこにも見当たらない。優衣はほっと息を吐いた。

 競馬を楽しむ以上、こういう出来事があるということは覚悟していたつもりだった。だが、自分が注目していた馬もそうなる可能性があるということを、知っているつもりで、今日初めてそれを突きつけられたような思いがした。

(もしかしたら、ナギノシーグラスだって……)

 競争生活を続ける以上、その可能性はゼロではないのだ。今日のトリアイナには、まだそこまでの思い入れがあったわけではない。それでも、現地で応援してみようと思ってスタートから見ていた馬が、いきなり急ブレーキをかけたように下がっていく姿は、優衣の心のどこかを冷たく縮みあがらせた。

 それからしばらくはトリアイナのことが忘れられず、故障の度合いや競走能力への影響が気になった優衣は、ときどき競馬サイトで検索をかけていた。だが、自ら情報を発信することのほとんどない牧場生産で、同じように情報発信をしない個人馬主の所有馬となると、誰もが注目する良血というわけでもない未勝利馬の近況など、優衣がちょっと調べたくらいでは詳細が出てこない。

 七月が終わりかけたころ、またトリアイナのことを思い出して競馬サイトを調べると「抹消」の文字が目に入ってきた。中央での競走馬登録が抹消されたのだということ以外は、結局、どうなったのかわからない。優衣は静かに肩を落とし、ホームページを閉じた。

 未勝利馬にあんまり入れこみすぎたら、勝ち上がらへんかったときにへこむで。ずっと忘れていたのに、ずいぶん前の兄の言葉がよみがえる。入れこむ、というほど気にしていた馬でもなかったが、あの言葉の意味の表面だけでも理解させられた気がした。

 競走馬という生き物は、たった一勝するだけでも奇跡なのだと、わかっていたつもりでわかっていなかったのかもしれない、と思った。

 もしもナギノシーグラスが、なんてことは考えたくもない。大丈夫、すごくタフな馬だから。そう自分に言い聞かせても、こんな経験をしてしまうと、ナギノシーグラスを現地まで見にいくとき、その可能性が頭の隅にちらつき続けそうだった。

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