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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
20/53

第10話 マーメイドステークス②

 分析部門に異動してから一年、真面目一辺倒だった菅原は、目に見えて明るくなったと山田は思う。初めて出会ったときの第一印象など、暗いやつだな営業でやっていけるのか、などと心配したくらいだったのに。

 話してみると、ちょっとおとなしいだけの感じのいい男であることがわかって、同じ札幌本社に配属されてからは、対照的な気質がかえって幸いして、親友の一人といえるまで親しくなった。

 菅原が、自分が遊び慣れていないこと、人付き合いが得意でないことを気にしていて、それを愚痴ってきたから競馬に誘ったことはよく覚えている。ここまで気に入るとは思っていなくて、遊び慣れないと言っていた人間が、自分が教えたせいでギャンブルに入れこみ過ぎたらどうしようかとヒヤッとしたこともある。結局、競馬の推理ゲーム的な要素が、菅原の分析好きな部分をとらえただけだったようで、ひとまず安心したものだ。

 話せることが増えていくなかで、菅原が自分に対して羨望のような感情を抱えているらしいことは知っていた。

(うらやましいのは、おれのほうだと思ってたんだけどな)

 山田は密かにそう感じているが、それは、この先もずっと思い続けることだと思う。山田は、絶対に菅原のようにはなれない。

 山田は、自分のことを、ちょっと器用なだけだと思っている。強いていえば小さいことを引きずりにくく、飲み込みが早い自負はあるが、突出して得意なこともないのだ。

 器用さと切りかえの早さでやってきた山田にとって、何か一つでも目立った長所を持っている人間が一番眩しい。

 菅原はその典型だった。

 しかも菅原は、どちらかといえば人見知りで交渉事が得意でもない、そういった性質を持ちながらも、四年間、山田と共に営業をやりぬいた。得意ではないと言っていた場所で、それでも数字の扱いが巧みであることを示して、ついに、一番自分に合った場所を勝ち取った。

 山田自身は、このまま営業の道を極めていくことになんの抵抗もなく、むしろこの分野が好きだから今のままでいいと思っているが、菅原のような人間になりたい思いも、ないと言えば噓になる。

 道を分かった今、菅原との勝ち負けにこだわっているのは、むしろ自分のほうかもしれない。心のどこかで山田は、そう自覚している。

 山田は、菅原が山田に対してそうしたように、相手への羨望を明かすことはするまい、と思っている。菅原と同じ武器は決して持てない山田の、それはささやかな意地だった。

 競馬くらいあいつより儲けてやる、と頭をきりかえて、山田は再び競馬に集中することにした。

 結局山田が十レースを観戦することはなかった。山田と同じような観客が大勢留まっていたパドックに、やがて、マーメイドステークス出走馬が入ってきた。

 ナギノシーグラスの姿を見ても、正直、以前に見たレースまでは思い出せなかった。

 少し首を低くして歩く馬で、山田のいる位置からだと阪神競馬場のパドックの柵がちょうどその顔にかかって、まともな写真が撮れそうになかった。山田は内心苦笑いして、後で場所を変えるか……と思って携帯電話をしまい、予想の仕上げに入った。

(ナギノシーグラス、やっぱり難しいと思うぜ)

 心の中で、そう菅原に話しかける。ついている厩務員は一人、自分から手綱を引っ張る様子は全くなく、首を低くしてゆったり歩く姿は散歩でもしているかのような穏やかさだ。発汗もなく、落ち着いてもいるが、山田はどうにも気に入らなかった。もう少しやる気が伝わってこないと、馬券を買う気が失せてしまいそうだ。

 ただしもう一頭、菅原が良いと言った六歳馬アドリアーナは、確かに良さそうに見えた。栗色の毛並みの艶は輝くばかりで、金色めいている。歩様に合わせた首の動きはなめらかで、全身のバランスも良さそうだった。

 山田が注目している人気の二頭のうちだと、意外にも、五歳のサフランボルのほうがよく見えた。腹回りがほっそりしているように思えたが、尻の筋肉は力強く盛り上がっていて、電光掲示板に示された馬体重はわずかに増えている。

 レディガーネットも馬体のほうは悪くないが、ナギノシーグラスとは反対に首が高い。体に力が入った、ぎこちない歩き方に見えて、緊張が伝わってくる。

 馬体だけ見て買うなら、アドリアーナを軸に選んだかもしれない。ただ、近走成績を見ると、軸にするには不安が残ったし、何より、菅原いち押しの馬を本命にするのは少し癪だった。

 最終的に山田は、レディガーネットを馬連の軸にして、千円ずつ流すことに決めた。アドリアーナと、サフランボルと、迷った末、ナギノシーグラスにも。

 心を決めると、山田は混み合うパドックからさっさと立ち去った。ここに固まっている観衆がなだれ込む前に、馬券を買って、コースのほうへ出ていかなければ。菅原に送る写真の件はすっかり忘れていた。


 返し馬が終わり、レース開始に向けて盛り上がりも高まっていくなかで、山田は、時間つぶしに新聞や競馬サイトの戦績を見ていた。妙に気になってしまったナギノシーグラスの情報をあれこれ見ているうち、ほんとうにここなのか、という思いが強くなってきた。

(マーメイドステークスがほんとうに合ってるレースなのかね……)

 条件戦時代の戦績を見ていれば、二二〇〇メートル以上の距離が得意なことは一目瞭然だ。その距離なら、条件戦クラスであれば、牡馬にもひけをとっていない。三歳時代に二六〇〇メートルで勝利して、四歳になってからも安定して連対しているあたり、力のない牝馬だとは思わないが、重賞路線で苦労するタイプの牝馬だ、という印象はあった。

 芝二二〇〇メートル以上の重賞はほとんどが牡馬牝馬混合で、その距離の重賞となると、実力派の牝馬どころか、三歳の頃からクラシック戦線でしのぎを削ってきたような一線級の牡馬も、何頭も名乗りを上げる。いくら距離が合っているとはいえ、四歳になっても条件戦をうろうろしているような牝馬には荷が重い可能性が高い。

 武器は長く良い脚を使えるスタミナと従順な気性。ただし、闘争心と瞬発力はいまひとつ。

 二四〇〇メートル以上の牝馬限定重賞があれば、と思わされるタイプの馬だった。

(でも、もしかしたら……)

 ターフビジョンに映し出された馬たちの姿を見ながら、山田はそう思った。こういう馬について、重賞は勝てない、と断定するのはなんとなく嫌だった。武器があって、地道に堅実に好走を重ねて、重賞戦線にやっと顔を出すことができた馬だ。

 菅原が応援してしまうのもわかる気がした。

 山田にしては珍しく、馬券以上に気になることのあるレースになってしまった。見守るような思いでコースを眺める山田の前で、姿を現したスターターが旗を振り、ファンファーレが鳴り響いて、ゲート入りが始まった。


 ナギノシーグラスのスタートは悪いものではなかったが、騎手はすぐに手綱をおさえ、最後方から数えて七、八頭目あたりにポジションをとった。

 先頭のほうでは一頭の芦毛馬が逃げ、五、六頭もそれに続いている。隊列は早くも縦長になって、山田はああ、とうめいた。

「前、行かないのか……」

 当然、行くだろうと山田は思っていた。もう少し長い距離のレースでは中団からの差しでの好走実績があるから、脚を溜めることもできるのはできるのだろうが、下げても中団までだろうと予想したのに。

 瞬発力に優れているわけでもなく、どちらかというと長く良い脚を使える馬だという認識があると、こんなに下げたら、かえって最後、先頭に届かないのではないかと思われた。

 山田が買い目に入れた他の三頭は先行集団にいる。逃げる芦毛に続くのはサフランボル、間に一頭はさんで、四番手にアドリアーナ、それから一馬身離してレディガーネットが追走している。

 そのあとは相変わらず隊列が縦長なまま、第一コーナーを回り、向こう正面に入っていく。流れはスローで、ずっと後方に控えたままの馬に注目していると歯がゆいレースだ。ナギノシーグラスに限らず、ここから位置を上げようとする馬もまだ現れない。

 向こう正面を通過しながら、一つの長い列にも見えていた馬群が二つに分かれだした。ナギノシーグラスは前組の最後方、そこから二馬身ほど空いて、六頭が追走している。残り八〇〇メートル通過。

 やがて第三コーナーに差し掛かると、徐々に縦長だった隊列もごちゃつきはじめる。中団にいた馬たちが位置を押し上げ、先行馬たちに追いつきはじめると、それぞれに進路を求めて前方の馬群が横に広がっていく。

 第四コーナーを回りきり直線に入ったところで、ずっと逃げていた芦毛馬がずるずると下がっていった。

 そこで最も目を引く手ごたえを見せたのはアドリアーナだった。すでに騎手の手は動き、先頭に立とうとしている。

 先頭争いから振り落とされていく馬が一頭、また一頭出てくるなかで、アドリアーナを先頭に、最内からはサフランボルが、アドリアーナの外からはレディガーネットが、それぞれ脚を伸ばして食らいつこうとし、そのあとを二頭ほど、先行勢だった馬がそのまま続いていく。

 あちこちから悲鳴が上がる。

「レディガーネット残せー!」

「差せ! 差せええ!」

 アドリアーナを軸にしている人間は少ないだろう、この馬が勝てば大荒れだ。そりゃそうだな、と思いながら、山田がターフビジョンにナギノシーグラスの姿を探すと。

 山田は、おわ、と小さく声を上げた。

 ほとんど軒並み沈んでいく元後方集団の中で、ただ一頭、青い勝負服の原騎手を背に、その鹿毛馬はじりじりと大外から位置を上げてきていた。

 残り二〇〇メートル、前も止まることがなく、もはや馬券圏内にはさすがに届くまいが、ナギノシーグラスの脚は伸びている。じりじりと伸びていく。

 一瞬、五着くらいなら届くのではないかとさえ思った。

 結局、ナギノシーグラスは掲示板にも届かなかったが、直線に入ったときには先頭集団とのあいだが大きく開いていたものを、五着馬から二馬身差のところまで追いついていた。一方、ナギノシーグラスから七着馬までは四馬身以上の差が開いていて、この前残り展開となったレースだけ見れば、後方集団の中ではこの馬のタフさが際立ったように思う。

『確定しました――』

 レース終了からさほど間を置かず、場内放送が流れる。三着まで一、十二、十四の数字が点灯して、ある者はうめき声を上げある者は頭を抱える。異様に興奮した様子で、手にした馬券を周囲に見せびらかす者もいた。

 山田は息をついて、馬券を入れたポケットをそっと手でおさえた。菅原のおかげで大当たりだ。あのとき電話していなければ、アドリアーナではなく別の馬を穴枠で買っていたと思う。

 山田は次のレースのことも考えずに、ターフビジョンを眺めていた。掲示板に、六着に終わったナギノシーグラスの馬番は当然、ない。

(あと何百メートルかあれば……)

 あともう少し長い距離なら、もう少し上位に食らいついていたかもしれない。

 そう思うのと同時に、はたしてこいつは重賞を勝つことができる馬なのだろうか、という考えがわいてきた。そうでなかったとしたら残念だが、こういった馬が条件馬で終わることなどざらだ。

 いくらスタミナがあって利口でも、それだけでは大きなレースで勝ち負けすることはできない。

 そのとき、携帯電話が震動して、画面を見ると案の定菅原だった。インターネットの馬券払い戻し結果のスクリーンショットと、ピースサインの絵文字だけを送ってよこしてきた。

 山田は笑って、馬券の写真を返した。「ありがとうございます」と送ると、即座に「よし奢れ」ときたから、「やかましい」と返して携帯電話をしまった。

 そのときふと、山田の頭の中で、菅原とナギノシーグラスの姿が重なった。ナギノシーグラスに対しておぼえていた、おぼろげな親近感の正体がわかった気がした。

(こいつ、菅原と似てるんだ)

 地道で、堅実で、一見地味ではあるが、長所を生かせるところではひっそりと結果を出す。不得手な環境でさえも最後まで駆けぬけて、ついにあつらえ向きの舞台を勝ちとった菅原のように、ナギノシーグラスも、もう一歩輝ける日が来るだろうか。

 山田は、ナギノシーグラスが目指す舞台について考えを巡らせた。

 古馬が出走できる国内の牝馬限定GⅠは二つ、ヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯。マイルのほうは、充分な賞金を獲得したとしても、ナギノシーグラス陣営があえて選ぶことはない気がする。

 だとすれば、十一月のエリザベス女王杯。京都、芝二二〇〇メートル。そこで勝負するには、五〇〇万下や一〇〇〇万下のひとつやふたつ勝ったぐらいの馬では難しいだろう。強豪牡馬の待ちかまえる適性距離の重賞か、牝馬限定の中距離重賞か、どこかで、それくらいの実績を勝ち取るくらいの力がなければ意味がないだろうと、そう山田は思う。

(いつか勝者として讃えさせてくれよ)

 そして、稼がせてくれよ。

 山田はそこではっとした。もしもこの馬を追いかけていて大きい当たりが出たとしたら、それはまた、菅原に儲けさせられたということになってしまう。

 山田は、口の中で笑みをかみころした。投票所へ歩きだしながら、そもそも競馬を教えたのはおれだからな、と心の中でいばってみせた。

菅原と山田の過去登場回

第2話 2歳未勝利戦

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