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第1話 2歳新馬②

 ゲートの手前で、騎手を背にした馬たちが静かに歩いている。その様子を、卓也はもう自分の目でしっかり見るのは諦めて、ターフビジョンに映る様子を観察していた。背伸びをして上を向き、首を左右に動かすのも疲れた。

 相変わらずの人ごみはぜんたい熱気を帯びて、ざわついているのに不思議とうるさいという感じはしなかった。ときおり、興奮をおさえきれない様子で何ごとか叫ぶ者もいた。

 フロムザサミットを応援していたはずなのに、気がつくとなぜか、九番のゼッケンを探している自分がいる。父のせいだ。卓也は少しうんざりした気持ちになった。

 そのとき、ずっとその場の馬たちの姿を映していたターフビジョンの映像が変化した。英語のナレーションと共に、出走馬の関係者を映した、ドキュメンタリーのような映像が次々と流れはじめる。

 周囲のざわめきが波のように高まる。すでに拍手しはじめている人もいる。ずっと息をひそめていた父も、わくわくした様子で口を開いた。

「おっ、はじまったな」

「なにこれ?」

「オープニング映像みたいなもんだよ」

 眺めているうち流れはじめたレース映像が、退屈しかけていた卓也の気分を変化させた。スタートの瞬間。ゴールの瞬間。軍隊のようにいっせいにコーナーに突入する馬たちの躍動する肉体、跳ねる土。

 今から自分も、まさにその瞬間に向かっているのだ。つきつけられたような思いで、卓也は戸惑い、そしてかすかな高揚をおぼえた。

 ざわめきは最高潮だった。

 映像がひととおり終わり、ターフビジョンは真っ暗になった。終わりか、と思ったとき、映し出される「五」の数字。

 一瞬静かになって、喝采と歓声がまた少しずつ戻ってきた。隣で父が、カウントダウンだ、と耳打ちする。見ればわかるよ、とも返さず、卓也は変化する数字を食いいるように見つめていた。周囲がだんだんと声を合わせていく。

 三、二、一――。

「JAPAN CUP」の文字がターフビジョンに浮かびあがって、観衆はわーっと地鳴りのようにわいた。父も、そして卓也も、夢中になって拍手していた。

 静かに歩いてきたスターターが台に上がる。その台が上昇し、ぴたりと止まったところで、ぴんと背筋を伸ばしたスターターが、手にした赤い旗をくるくると広げ、掲げた。

 ファンファーレが響きわたった。


 その瞬間を待っているあいだに、いつの間にかぼんやりしていた卓也は、そこではっとした。

 目の前では、いよいよ生まれて初めてのスタートを迎える二歳馬たちが、ゲートに入っていくところだった。嫌がって抵抗する馬もおらず、順調にゲートインを済ませていく。

 全頭スムーズに位置につく。そして、軽快な音をたててゲートが開き、馬たちが飛びだした。

「スタートしました」

 実況の声が響くなか、スタートを決めた馬たちがそれぞれに位置をとりに動く。出遅れた馬も一頭いて、隊列は少々ばらついていた。

 ナギノシーグラスの鞍上の帽色は、八枠であることを示すピンク色だ。同じ枠のもう一頭は目立つ芦毛馬だから、ナギノシーグラスが地味な馬でも、そのヘルメットの色ですぐに見つけられる。そのスタートはスムーズで、すんなりと前から三番手につけていた。

 そのまま前目を走りながらも、背中の騎手は手綱を持ったままで、まだまだおさえているように見えた。ナギノシーグラスもそれ以上行きたがる様子は見せず、騎手に従って落ち着いて走っている。

 その前方では、好スタートを決めた一番の馬が逃げていた。ナギノシーグラスとは対照的に、おさえがきかない様子で前へ前へ行こうとしている。

 卓也は小さくうなった。ナギノシーグラスは二番手の馬のすぐ後ろにいて、その両脇を二頭の馬にはさまれている。そこからやや空いた位置に三番手集団ができていて、その先頭が単勝一番人気の良血馬だった。少し離れたところを、出遅れた馬が追走している。

(勝負どころで包まれちまうかもな……)

 このまま一、二番手が逃げきるならそうはならないかもしれないが、いま前を走っている二頭がスタミナ切れを起こして下がってきたら、ナギノシーグラスの進路がふさがれる可能性は高い。今は後方を走っている馬たちも、余力があれば迫ってくるのだ。前から後ろから囲まれるかたちになれば、抜け出すことは難しいだろう。

 隊列は大きな変化を見せないまま、最初のコーナーに突入したが、後方にいた馬たちの鞍上の手は動きだしていた。三番手集団の先頭にいた一番人気馬が、馬群の外側を回ってじわりと上がってきている。

 案の定、逃げていた先頭の馬は、まっさきに次のコーナーを曲がりきったあたりで、目に見えてバテはじめていた。残る十一頭が次のコーナーに押しよせるころ、逃げ馬はどんどん速度を落とし、騎手が必死に鞭をふるうのもむなしく、接近する馬群に呑みこまれていく。逃げ馬がついに、直線に入った二番手の馬に先頭を譲るのと同時に、一番人気の馬も並びかけた。

 馬群が直線に入るころ、二番手の位置を保っていた馬は、あっさりと一番人気の馬にかわされてしまった。

 やはりというべきか、ずっと先を走っていた二頭がナギノシーグラスのすぐ目の前の壁となった。逃げ馬はそのまま外側をずるずると下がっていったが、入れかわるように、ずっとナギノシーグラスの左手にいた馬が、前にできたスペースにぽんと入りこむ。外に持ち出そうにも、後方から上がってきていた馬たちに並ばれていて、こじあける隙もない。

 団子になった二番手集団を、スタートでは出遅れていた馬が、目のさめるような末脚を発揮して追い抜いていく。

 卓也はがっかりしながら、近づいてくる馬群を見ていた。先頭の一番人気馬はもう通りすぎていって、たったいま二番手集団を追い抜いていった馬がエンジン全開で追いかけている。

 それでも、ナギノシーグラスの鞍上はまだあきらめていなかった。右手で並んで走っていた馬がスタミナ切れで下がっていったところでムチを入れ、進路を右手に変更し、内柵沿いにできたわずかなスペースに飛びこんだ。

 その前方では、追い込み馬が一番人気の馬をかわしたところだった。やっとのことで前をこじあけたナギノシーグラスがいくら食いさがっても、もうその二頭に追いつくのは不可能だった。

 ナギノシーグラスがついに抜けだしたところで、卓也のいる場所の前を馬たちが通り過ぎていった。残り約二〇〇メートル、しぶとく脚をのばすナギノシーグラスの後ろで、二番手集団を形成していた馬たちが崩れ落ちるように下がっていき、はじめ後方にいた馬たちのうちの二頭が食らいつこうとする。

 卓也の周囲で、他の観客がやかましく騒ぐ。

「徳増、いらねー!」

「差せー!」

 あの人気じゃそう言われるだろうなと頭の片隅で思いながら、卓也は我知らず前のめりになり、もたれかかった柵の上でこぶしを握りしめた。その高揚に、馬券なんて関係なかった。がんばれ。ナギノシーグラス。

(残せ、残せよ……!)

 追い込み馬、一番人気馬が続けざまにゴールし、歓声が上がった。

 そして後続、残る馬がどれだけ迫っても、ナギノシーグラスとの差を一馬身以上詰めることはできなかった。ナギノシーグラスの脚が最後まで鈍らなかったからだ。余力さえありそうに見えた。

 ナギノシーグラスは三番手を譲らないまま、ゴール板に飛びこんだ。


 あの日のナギノポセイドンも、結局三着だった。卓也が応援していたフロムザサミットは四着。荒れた決着となった。歓声と怒声が入りまじり、あちこちで馬券が舞い上がる中で、卓也は、あーあ、とだけ言い、父は本気で悔しがっていた。

「馬券、どうすんの。めちゃくちゃ買ってたのに……」

「複勝は当たったからいいんだよ! 収支はプラスだ!」

「あ、じゃあいいじゃん」

 卓也がのんきにそう言うと、父はそうじゃない! と主張した。

「馬券じゃないんだ! おれはなあ、ナギノポセイドンが二歳のときからずっと応援してたんだよ! やっとGⅠを勝つところをこの目で見られると思ってたのに……!」

 まくしたてる父の姿に、まったく理解できない心境で、卓也は苦笑した。

 ああ、くそ、と悪態をつきながらも、父はインフォメーションセンターに立ち寄って、しっかり馬券のコピーをとってもらっていた。そのときのナギノポセイドンの複勝オッズは、確か五倍くらいで、父の一万円の馬券は二万五千円になって返ってきた。その日の夕食に寿司を買って帰ったことは覚えている。

 いま、目の前の電光掲示板、「確定」の赤い文字と、三着に示された「十二」の数字を見ながら、卓也は、あのときの父の気持ちが少しわかるような気がすると思った。ナギノシーグラスのデビュー勝ちを、この目で見たかった。

 自分の生活が大きく変化したばかりのいま、初めて足を踏みいれた競馬場で、この日デビューを迎えた二歳馬。その馬が、かつて父と見守った思い出のある競走馬の産駒だった。どうにも印象に残ってしまった。

(しかも、あのときの父馬みたいに、人気薄で三着に突っこんできて……)

 卓也は一人でくすっと笑った。結局、ナギノシーグラスの複勝オッズは二〇倍かそこらだった。百円しか買っていないから、返ってくるのも二千円程度で、高い寿司を買うほどの贅沢はできない。それでも卓也は、あの日のように、何かおいしいものでも買って帰ろうと思った。

 無性に、家族でかこむ食卓が懐かしくなった。馬券を当てたからといって、手土産でも持って帰ってわかちあいたい気分だった。

 そのとき卓也は、自然に携帯電話を取りだしていた。大阪へ来てから初めて、自分のほうから家族に連絡してみようという気になった。

(趣味の話題だからな)

 心の中でくだらない言い訳をしながら、卓也は迷いなくメッセージを打ちこんだ。

「いま、ナギノポセイドンの娘が三着に入ったの、生で見たぞ」

 送信したが、しばらく既読はつかないだろう。家に帰ったころに電話でもしてこないだろうか。

 そう思いながら、卓也は若駒たちが去ったターフを眺めた。

 ジャパンカップで三着に入ったナギノポセイドンが春の天皇賞を勝ったのは、その次の年のことだ。テレビで観戦していた父は大喜びしながらも、あれだけ好きな馬がGⅠを勝つ瞬間が目の前で見られなかったことを、ものすごく残念がっていた。

 二四〇〇メートル以上の距離のレースで何度か三着内に入り、三二〇〇メートルの春の天皇賞で、五歳になってついにGⅠ馬となったナギノポセイドン。さっきの新馬戦と、ナギノポセイドンのことを思い返しながら、卓也は、ナギノシーグラスに一六〇〇メートルは短いのではないか、と考えていた。

 卓也としてはもっと長い距離でのリベンジを見たいところだが、ナギノシーグラスの次走がどうなるかなど、まだわからない。新馬戦で三着に入ったからといって、今後、未勝利馬という身分から脱出できる保証はどこにもない。一勝もできないまま消えていく競走馬などごまんといるのだ。

 だが、できればもう何年か、ナギノシーグラスが走る姿を見ていたいと思った。

 どうか勝ち上がって応援させてくれよ。卓也は心からそう願った。

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