第10話 マーメイドステークス①
六月、もう五時半を回っているが、商談先の会社の外に出ても、まだ外は明るい。駐車場に停めていた車にもぐりこむと、エンジンをかける前に、山田は社用の携帯電話をポケットから取りだした。
コールがいく度か鳴ってまもなく、相手は応答した。
「はい、北ノ舞製菓の菅原です」
「関西営業所の山田です。お疲れ」
おっ、と向こうの声が軽くなった。
「久しぶり。どうしたんだ、急に」
「うん、ちょっと頼みたいことがあって。こないだ話した取引先の例の担当者、数字にこだわるタイプじゃん。こないだリニューアルした煎餅のさ、リピーターの年代別データみたいな資料、最新版ないかな」
「先輩に聞いてみる。なかったら今週中でよければ作るけど。急ぎ?」
「今週中なら充分間に合う。本当に頼んでいいか」
「今は時間作りやすいから大丈夫だよ。関東のほうからも似たような問い合わせあったし、そういうの、もともと用意しようかと思ってた」
助かる、ありがとう、と山田が礼を言ってから、やりとりに少しの間があいた。
再び口を開いたのは、菅原のほうだった。
「大阪、どうよ。慣れてきた?」
「うん、さすがにそろそろ落ち着いた」
この四月、山田は入社から数年暮らした北海道を離れ、関西営業所に配属された。菅原は札幌本社のままだが、数字を活用する能力の高さを買われて、去年から分析部門に異動していた。
「そっちの競馬場、もう行ったか」
菅原からそう聞かれて、ああ、と山田はにやっとした。
「ちょうど今週末行くんだ。菅原は今週も買うか?」
「買う。マーメイドステークス、ナギノシーグラス出るだろ、重賞初出走」
菅原の声を聞いて、山田はちょっと首をかしげた。あまり印象にない馬だ。ほら、と菅原が説明する。
「おれが競馬始めた頃だけど、一緒に競馬場行ったときに見たやつだよ。おれと山田、それぞれ違う馬を本命にして馬券買ってたとき。最後の直線、その二頭の叩き合いになってワンツー決着かな、と思ったら、第三の馬が最後すげえ脚で突っこんできて、どっちも馬券外したの」
それを聞いて、山田も思い出した。どちらかといえば、最後に末脚を伸ばして二人の馬券を紙きれにした栗毛馬のほうが印象に残っていた。その馬も、勝ち上がったあとは鳴かず飛ばずといった調子ではあるようだが。
ナギノシーグラスという馬が、どこかの時点で勝ち上がったのはなんとなく知っていた。だが、印象に残るほどではなかった。いくらでもいる、可もなく不可もなく、条件戦を何年もうろうろしているタイプの馬。山田にとっては、よく二着や三着になっているから、名前は知っている――名前を見れば思い出す程度の馬だった。
「よく覚えてたなあ。おれはあんまり意識して見てない馬だったよ」
「うーん……なぜか追っちゃうタイプの馬なんだ、おれはね」
なんでだろうなあ、という菅原の口調が、何かをごまかすような歯切れ悪い調子で、山田は首をかしげた。菅原のほうが先に、まあいいや、と切りかえ、会話をしめくくりに入った。
「それじゃあ依頼の件、明日から取りかかるよ」
「ありがとう。急で悪いけど、よろしく頼みます」
「了解。お疲れ」
お疲れ、と返すと、電話はあっさり切れた。山田はかすかに口もとに笑みを浮かべると、携帯電話を助手席の鞄に放り込み、車を発進させた。車の動きにゆられて、途中のコンビニで買っておいた競馬新聞が、助手席の足元に滑り落ちた。
日曜日の近畿地方はよく晴れていて、朝から暑いくらいだった。昼過ぎすぐに現地入りした山田は、新馬戦を観たあとスタンドに留まり、売店で昼食として買ったビールとフランクフルトを頬張りながら新聞にざっと目を通した。そして、二〇〇〇メートルかあ、と呟く。マーメイドステークスは、菅原が目をかけているという、ナギノシーグラスの得意な条件とはいえないかもしれない。
山田は、菅原が妙にこだわるから、ナギノシーグラスについても少し下調べをしてしまっていた。
父ナギノポセイドン、少ない産駒のほとんどはダートで走っている。母エドキリコ、地方で何勝かしていて、ナギノシーグラスは三番仔、兄弟馬もデビューはしているようだが、中央では勝ち上がっている様子がない。
ナギノシーグラスは五月に中央3勝目を挙げた。芝の二二〇〇から二六〇〇を中心に好走していて、雨の日の重馬場でも馬券圏内に入ったことがあるあたり、父の血の力強さが出ているのかもしれない。
実績とタイミングからすれば、牝馬限定のこの重賞を狙うのは理解できるが、二〇〇〇メートルの良馬場が、この馬にとって特に有利だとは思えなかった。
(……でも、嫌いじゃない)
堅実に賞金を稼ぎ、長めの距離を走り続けるタフさ。スタミナはこの馬の強みだろう。GⅠを何勝もするような名馬でなくとも、長所を生かして地道に活躍する競走馬は親しみやすいような感じがあって、山田はけっこう好きだった。
いつか何気なく観ていたレースで惜敗していた馬がいつの間にか勝ち上がっていて、気がついたら重賞に出てくるようになって再会する、そんなことは競馬を続けていれば珍しいことでもなくなってくる。だが、そういう馬には縁を感じる。縁を感じた馬は応援したくなる。
それに、鞍上が、山田が騎手の中では一番好きな原騎手だ。二走前からこの馬とコンビを組んでいて、ようやく一〇〇〇万下を勝たせている。手の内には入れているはずだ。
「よし、記念にがんばれ馬券をちょいっと買ってあげようじゃないか」
呟いて、ビールを飲みほすと、馬券発売所のほうへ歩きだす。
条件戦ではあってもここ何走か好走が続いているわりに、ナギノシーグラスの単勝人気は十番人気と低い。この馬自身に重賞出走経験や二〇〇〇メートル戦での勝ち鞍がないうえ、他の出走馬に若駒時代に期待されていた良血四歳馬や、重賞好走歴のある馬がいるぶん、注目度も下がって当然ではあるかもしれない。
もしも馬券になれば、かなり美味しいだろう。
山田は応援馬券程度に、単勝と複勝を五百円ずつ買うと、パドックに戻った。その後はいつもどおり、パドックと投票所とコースを行き来しながら、七レースから九レースまでの合計三レースで馬券を買った
その収支はとんとんといった結果になった。余裕があれば買おうと思っていた十レースは観るだけに留めて、山田は、そのパドックを眺めながら、マーメイドステークスの予想に本腰を入れることにした。
十レースのパドックに足を止めてみたものの、注目したい馬がいるわけでもなく、馬たちの姿にはちらっと目をやっただけで、そのうち新聞を見る時間が長くなってきて、山田はいったんパドックを離脱し、日陰になっているスタンド内に移動した。
山田が見たところ、今回のマーメイドステークスに出ている馬には三種類いるように思われた。このレースを一つの目標にしている馬、このレースは通過点であって、どちらかというと今後のより大きな舞台に照準を定めている馬、それから、挑戦する立場の馬。
ナギノシーグラスは挑戦する立場の馬だ。本当はもっと早く勝ち上がって、もっと早く重賞戦線に名乗りを上げたかったはずだ。一〇〇〇万下を脱出するのに時間がかかって、脱出したいま、馬の実績に頃合いの重賞がマーメイドステークスだった、というところではないだろうか。
こういう馬は当たれば大きいが、本命にするには厳しい。そして、マーメイドステークスは、こういった立場の馬が少なくない。
もう少し早く順調に勝ち上がるか、若駒時代から実績や賞金を積んでいるより有力な牝馬の多くは、約一ヶ月前の牝馬限定GⅠであるヴィクトリアマイルに出てしまっているから、このレースに出走するのは、一線級であるとは言いがたい馬も多い。
そうでなければ、比較的実績のある牝馬で、ヴィクトリアマイルには出走せずこちらを選ぶ理由があるとすれば、そのひとつは、秋の牝馬限定GⅠ、エリザベス女王杯のほうを見据えているということが考えられる。
エリザベス女王杯は、京都二二〇〇メートルのレースだ。マイル――一六〇〇メートルよりも、もう少し長い距離で結果を出すタイプの牝馬の陣営は、ヴィクトリアマイルよりもその先を意識し、二〇〇〇メートル前後のレースで着実に実績と賞金を積んで、秋に備えようとすることがある。マーメイドステークスはその流れに選ばれることのあるレースのひとつだった。
山田が目をつけたのは、レディガーネットという四歳馬だ。三歳の間に二勝している良血馬だが、秋華賞の前哨戦である紫苑ステークスでは四着、秋華賞では六着と、重賞での勝利経験はない。
若駒時代は体質が弱かったらしいこの馬について、新聞や競馬サイトを見ていると、成長して体がしっかりしてきた、と関係者がこぞって口にしている様子がある。それを証明するかのように、レディガーネットは四歳になって一〇〇〇万下、一六〇〇万下と連勝し、ここに出てきている。体質ゆえにデビューと勝ち上がりが遅れたのも確かだろうが、一八〇〇メートルより短いレースには出走したこともないあたり、最初から桜花賞やヴィクトリアマイルは、この馬の陣営の眼中になかったのではないかと山田は思う。
何はともあれ、連勝中の馬を無視することはできない。本命はこの馬かな、と山田は一人小さく頷いた。
そのときふと思いついて、山田は携帯電話をとりだし、高いところから十レースの出走馬たちを見おろしながら、電話をかけ始めた。
好きな馬が重賞に出走する日となれば、菅原もどうせ今頃は携帯電話片手に、インターネットであちこちの数字を見比べながら、予想しているだろうと考えたのだ。
思ったとおり、菅原はすぐに出た。もしもし、と呼びかけると、よう、こないだぶり、と軽い調子で返してきた。
「競馬場、いるんだろ。ナギノシーグラスの写真送ってくれよ」
「いきなりそれかよ」
そう言うと、菅原は声を上げて笑った。
「煎餅のデータあげるから」
「競馬場でまで仕事の話はやめてくれ」
「悪い悪い」
「煎餅のデータいらないから、おまえの注目馬、一頭教えろ。ナギノ以外」
やっと電話の用件を伝えると、一呼吸間を空けてから、菅原は一頭の馬名を挙げた。
「おれ、アドリアーナがいいと思う」
アドリアーナは山田も名前をよく知っている、栗東所属の六歳馬だ。三年前のクラシックシーズン、桜花賞では人気の一角だったし、牝馬三冠は皆勤だったくらい期待されていたのだ。今でこそ条件戦を長いこと抜けだせずにいて、半年以上連対すらしていないが、前走、一六〇〇万下のレースでは三着に入り、久々に馬券圏内に入っていた。
「また冒険するなあ。こいつも十一番人気だぞ」
「この馬、五歳以降はぱっとしないけど、たまに掲示板に入ってるなーって感じの微妙な好走してるときのレース、全部阪神なんだよ。阪神は少なくとも掲示板外してない」
「掲示板ねえ」
「あとは五十一キロの軽斤量、これはでかいだろ。そもそもこのレース、五歳六歳がよく来るし、荒れるイメージあるからな。穴空けそうな馬の複勝で勝負しようと思って」
なるほど、と山田はうなずいた。
「あいかわらず、って選び方するなあ」
「そういうおまえは何選ぶんだ?」
「おれはね、本命がレディガーネット」
「まあ一番人気だな。他は?」
「サフランボル。固いだろ」
菅原は、固いなあ、と声を上げた。固いさ、と山田は答える。
サフランボルは二番人気だ。四歳秋にオープン勝ちを果たして、今年には中山牝馬ステークス、福島牝馬ステークスと、春の牝馬限定重賞で二着、三着と惜敗を重ねている。ヴィクトリアマイルも視野に入れていたようだが、結局こちらを選んだあたり、これまたマイル以下の距離が得手ではないか、まず重賞勝ちの実績がほしいのではないかと思われた。
「マーメイドステークスは荒れるレースってのは同意。でも、おれ、穴馬選ぶの得意じゃないからさ、固いの二、三頭見つくろったら、あとはおまえに乗っかろうと思って」
「真似すんなよー」
「ナギノシーグラスの写真あげるから」
しょうがないな、と菅原は笑う。山田も笑い声を返し、会話をしめくくりに入った。
「まあ、今日の帰りにでも写真は送るわ」
「頼むわ。あと、おれの便乗で勝ったら今度奢って」
断る! と最後に一言、山田はそこで通話をうち切った。
携帯電話を鞄にしまった山田は競馬新聞で口元を隠し、小声で呟いた。
「……よし、馬連でいくか」
軸になる馬を一頭決めて、千円ずつ流すことに決めた。レディガーネットと、アドリアーナと、サフランボルと、少し迷ってから、ナギノシーグラスも選択肢に。
マーメイドステークスは荒れる。そして五歳六歳がよく来る。人気馬を選ぶとしても、馬単で勝負する勇気はなかった。