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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
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第9話 1000万下Ⅱ②

 通されたのはカウンター席、その一番端で、二人は隣り合って座った。

 注文は順番待ちの終わりかけにすでに済ませている。席までたどり着けばそれほど待たされることはない。

「……わたしが言うのも無神経かもしれないけど。徳ちゃん、最近、しんどそうやな。大丈夫?」

 奈津がおずおずとそう尋ねてきた。

 奈津のほうは、今の時点で三社ほど最終面接まで経験している。そのうちの一社は、最終発表はまだであるものの、内定はほぼ確定だという。

 思いがけないタイミングでそう聞かれて少し驚いたが、不快は感じない。善之は苦笑いした。

「心配かけて、ごめん。大丈夫だから……」

 明るい口調で自分の不安をごまかしかけ、目をそらしかけて、善之は、いや、と思い直した。

 この際だ。悩んでいることを話してみるのもいいかもしれない。長い付き合いを意識するのなら、一度格好をつけるのをやめて、本音を見せてみるべきだと思った。

「絶対とる、とは思ってるけど、就活のやり方に自信がなくなってきた」

「自信?」

「よく考えたら、おれ、何もないんや。希望がない……」

 えっ、と心配そうな顔をした奈津に、善之はあわてて手を振った。

「絶望してる、って意味じゃなくて! そこは大丈夫、そうじゃなくて、やりたいことの話。率直に言って、やりたい仕事が、ない」

 安堵したのか心配が増したのかわからない、複雑そうな表情で、奈津はひとまず善之の次の言葉を待っている。

「働きたくないわけやない。就職はしたい、でも、これが絶対にやりたい、みたいな気持ちになれる仕事、ひとつも見つからないんや。ひと言でいうと、なんでもいい。ちゃんと休みがとれて、働きに見合う給料がもらえて、仕事と自分の時間が両立できるならどこでも、誠実に働ける」

 そこまで話すと、善之はまた肩を落としたが、そこで注文していたラーメンが運ばれてきた。善之は、店員が去ってから言葉を続けた。

「……社会で何十年もやってきてて、面接して、企業の人たちは、おれのそういうところ、見抜いてるんやなあと思うわ。だから決まらない。仕事を精神的な本業にしたくない、自分の力で楽しく生きられればそれでいい、そういうところがあるんだって、これは最近自覚したんやけど……」

 善之は奈津のほうを見ず、情けない笑いを浮かべた。もともと善之は昔から、特別向上心が高かったわけではない、と思う。自分が選んだ研究にはきっちり取り組むし、必要なことは真面目にこなすほうではあるけれど、高い志をもって何かに取り組んだことはなかったかもしれない。

 必死にならなくても、次のステップに進むために必要な課題さえあれば、特に大きな疑問も苦痛も感じず歩んできた。何かに深く思い悩むことなく、人生の岐路まで来てしまった。

 そんな自分の在り方を、自分で意識したのも最近のことだ。奈津にももう隠せない。

 だが、ラーメンに目を落としたまま待っていた善之にかけられたのは、思いがけない言葉だった。

「何が悪いの?」

 へ? と顔を上げた善之の隣で、奈津は涼しい顔で麺をすすっている。おいしそうに一口目を頬張り、飲みこんでから、奈津はこう続けた。

「楽しく生きられればいいと思う。やりたい仕事がないなんて、わたしも同じや。条件が気に入れば、どこでもいいわ」

「そうやったん……?」

「そりゃそうやん。あまりにも向いてないことは精神的にしんどいと思うけど、よっぽど嫌やなって思う仕事でなければ、なんでもいいって思って就活してる。あかんの?」

 笑顔で首をかしげられると、善之は首を横に振るしかない。

「いや、あかんことは……いや、おれは勝手に、奈津は結構しっかり考えてやりたいことを選んでるのかな、立派やな、って思ってたから」

「実はそうでもない。面接ではオブラートに包まなあかんなあ、と思うこと、いっぱいある」

 そこで二人はいったん会話をきり、ラーメンを堪能した。半分ほど食べ進めたところで、奈津が、あのね、と少し声を小さくした。

「実は、接客系もいいかなと思ってた。お客さんと話すのはまあまあ好きやから」

 でも、と奈津が言ったところで、善之も手を止めた。

「徳ちゃんは、カレンダー通りの休み希望って、それはずっと言ってたやん。ああ、わたしも、土日休める仕事じゃないとあかんな、休み合わへんな、って思ってん。わたしの基準なんてそんなんやで」

 笑うやろ、と付け足して、奈津は照れ隠しのように再び食べ進めはじめた。善之も落ち着きなく食事を続けながら、笑えへんわ、と答えた。

「面接で一緒になるやつらとか、同期でもさっさと内定とってるやつとか、すっげえキラキラした目で希望を語ってたり、一年のときからいろいろ挑戦してたり、おれとは全然違うな、って思ってたんやけどな。こんなに夢あるやつらにはかなわねーわ、って自信なくしてたんやけど……」

「みんながわたしや徳ちゃんと同じとは思わへんけど、演技力ある人、いっぱいいると思う、いまどき」

「演技力かあ」

「といっても、事前に聞いてたほど、就活で嘘つく必要はないなあって、わたしは思ってる。企業の求める理想の人材に近いパーツを、相手によっていろいろ出したらいいと思ったなあ。従順な人がほしそうなところには素直エピソード話して、元気な人がほしそうなところには積極エピソード話す、みたいな」

 なるほど、と善之がうなずいたとき、ふと、奈津はにやっとした。

「徳ちゃん、最初、競馬好きなことわたしに隠してたやん」

「あっ、今言うか、それ」

「あれ、溝口くんがうっかり暴露するまで、わたし気づかなかったから。大丈夫や、徳ちゃんなら会社のひとつやふたつ、出しぬけるよ」

 善之が恋人にギャンブル趣味を隠していたことを知らなかった、それを自分がばらしてしまったと気づいたときの友人のあわてふためいた様子を思い出して、善之は笑ってしまった。

(行けばよかったなあ、五月の競馬……)

 もっと早くに、奈津に話を聞いてもらう機会を作れば良かった。

「……また競馬場行こうか」

 そう提案すると、奈津はぱっと笑顔になった。

「行きたい行きたい。徳ちゃんの予定の落ち着いてるときでいいから」

「土日に面接ある会社は基本的に受けてないし、当分はいける。卒論であっぷあっぷしだす前に、行こうや」

 ふと思いついて、善之は携帯電話を取り出し、検索をかけてみた。ナギノシーグラスの次走がそろそろ判明していないかと思ったのだ。

「……お、出てる出てる」

「何が?」

「ナギノシーグラス、次、六月のマーメイドステークスっていうレースに出るみたいや」

「わたしも見た。重賞でしょ、ついに!」

 善之と奈津は目を見合わせた。

「……行こうか!」

「行く!」

 話は決まって、少し冷めてしまったラーメンを平らげると、二人は席を立った。奈津は固辞したが、今日のところは善之が奢ることにした。奈津が行くべき道を示してくれたような気がしたから、感謝のつもりだった。

 翌日の面接に、これまでになく腹をくくって臨めたのは、奈津のおかげだと善之は確信している。

 歓心を買おう、志高く見られよう、そんなまっすぐな思いは薄れて、当日の善之の胸にあるのは、出しぬいてやる、という気概だった。

 案内された応接室のドアを開け、待ち受ける面接官たちに、善之は自然な笑みを向けた。


 六月上旬、去年の春と同じように、善之と奈津は昼前に仁川駅改札前で待ち合わせていた。

 今日は奈津のほうが早く着いていた。善之がおはよう、と声をかけ、手を上げると、奈津はにこっと笑った。

「お待たせ、行こか」

「うん、待ってへんけどな」

 軽口をたたきあいながら、入場口へ。それぞれ入場券を買い、中に入りかけたとき、善之はついに打ち明けた。

「奈津、おれも内定とったぞ。思ったより早かった。金曜日に電話が来た」

 奈津が顔を輝かせた。

「うわ、おめでとう! どんなとこ?」

「ありがとう。結局、教科書関係の出版社。編集みたいなこと、やるんや」

「食品メーカーのほうは?」

「面接でいろいろ聞いてみたけど、おれに営業は絶対に向いてないと思った。それで案の定、最終面接で落ちたわ。教科書のほうもすごくやりたいことではないけど、営業ほどは自分にとってあまりにも向いてない、って感じしなかった。がんばっていけそうや」

「そっか」

 奈津が自分のことのように嬉しそうな顔をするから、善之の気分もいよいよ明るくなってきた。

 朝からよく晴れている。光さすパドックまでやってきて電光掲示板に目をやると、馬場状態は芝もダートも良。階段の高い位置から見おろすと、次のレースに出走する馬たちがもう、毛並みを光らせて闊歩している。

「……これからやな」

 奈津が呟く。善之はうなずき返した。

「楽しくやろうな」

 善之の言葉に、奈津は、どこか不敵な笑顔で応じてきた。

 二人はそろってレーシングプログラムを開いた。今日の目当てのマーメイドステークス発走までは、まだ四時間近くあった。

過去の善之と奈津登場回

第3話 3歳未勝利戦

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