第9話 1000万下Ⅱ①
あれはもう半年以上前、大学三年の秋、久しぶりに奈津と二人で京都競馬場へ行った日のことだ。忙しくなるのはこれからだし、馬を見に行くのはもうしばらくないかな、なんて話をした。
「就活、どうなりそうなん?」
そのときはまだ善之にも気持ちの余裕があって、そんなことを聞くのも自分のほうだった。
「そうやなあ。こないだ、短期のインターン行った飲料の会社は悪い会社じゃなかったけど、わたしの考えてるのとはちょっと違うな、って思った」
「営業系と迷ってるって言ってたけど、やっぱり内勤のやつ?」
尋ねると、奈津はうなずいた。
「うん。わたしが狙ってるところは独特な試験もあるし、卒論始まったらしんどいの目に見えてるから、もう腹を決めて、勉強始めとこうと思う。結果がどうの、売り上げがどうのって考えるより、こつこつ何かをするのが向いてる気がするわ。転勤ないほうがいいし」
奈津のほうは、その時期にはもう、進むべき道がおおむね決まっていたのだ。一方の善之はというと、その時点ではまだ何も決まっていなかった。
あれこれ調べれば調べるほど、わからなくなっていった。研究が楽しいけれど、その道に進もうと思うほど熱心なわけではない。好きなことといえば、人をもてなしたり楽しませたりすることだ。だが、それを話して就職相談室で進められた業種は、土日休みのとれない企業が多くて、カレンダー通りの休日を欲している善之の生活面の希望と合わない。
まだ互いにはっきり話をしたわけではなかったが、善之は奈津に対し、社会人になってもよろしく頼む、という思いでいる。だからよけいに、自由な時間と稼ぎとのバランスがほしい。その先は、気軽な付き合いだけしていればいい、というわけではないこともわかっているからこそ。
(だからといって……)
ちら、と奈津を横目で見る。奈津が自分の適性や希望を真剣に考えながら行き先を探している様子なのに、自分の進路の選び方が、恋人と会う時間が作りやすそうだから、などというものでいいのだろうか、と思ってしまう。
とはいえ、今の善之には、進路を絞り込む前向きな理由が他にないのだ。率直にいえば、何がやりたい、ということがない。自分に奈津がいなかったとしても、必要なだけ稼げて、きちんと休みがとれるなら、なんでもよかった。
なんでもいい、と思えば、やりようはいくらでも広がっていくようでいて、実際には、多すぎる選択肢で視界が埋めつくされていくばかりだった。
「……あ、馬、入ってきた」
奈津に言われて、意識を目の前に戻す。うん、と反応して同じ方向を見ると、目当てにしていた牝馬が、早くも入ってくるところだった。
ナギノシーグラス。四月に初めて奈津を競馬場に連れてきた日、未勝利戦を勝ち上がった牝馬。あの日に善之の中で奈津の存在が少し大きくなって、この馬のレースを見たことがきっかけで、夏休みには二人でシーグラス拾いにも行った。そのせいで、地味な条件馬のわりに忘れられない存在になっていた。
ナギノシーグラスは、九月に小倉の五〇〇万下を一勝し、一〇〇〇万下のレースに出るようになっていた。その日の出走レースは京都九レース、鳴滝特別、二二〇〇メートル、十三頭立て。
駆け抜けていくナギノシーグラスの姿を携帯電話で撮影していた奈津は、馬が通り過ぎたあと、レーシングプログラムをしげしげと見た。
「ナギノシーグラス、こないだにも二着になってるんやね。これは……期待かな?」
わくわくした表情で、善之を見上げてきた。ナギノシーグラスの近走成績なら、昨夜のうちにある程度インターネットで調べてきている。善之はうなずきかえした。
「しかも、このときの一着馬ヤマオロシがその二週間後、今日からいうと先週やけど、菊花賞っていうGⅠレースで三着に入ったんや」
「そうなんだ。……つまり?」
「そのヤマオロシを、負けたとはいえほとんどタイム差なしのところまで追いつめてるわけやから、やっぱりナギノシーグラス、見どころはあるといえるんやないかな」
レーシングプログラムではなく、今朝売店で購入した競馬新聞を見ながら、善之は見解を述べた。
「まあ、走ってみなわからんけど。前走結果だけじゃなくて、斤量――ルールで決められた負担重量があるんやけど、三歳で牝馬だと、レースで背負わなあかん斤量が、牡馬や四歳以上の馬に比べて軽い。それに、絶好の一枠一番や。そういうのも多少有利やろうし、案の定一番人気になってたな。おれも楽しみやと思う」
「ほんと? いいじゃん。好きな馬やし、勝つところ見たいよね」
「そんな好きなんや」
善之が笑うと、奈津はうなずいた。
「だって、まだ他に詳しいのおらんし。初めて観たレースで初めて馬券買って、それで勝ってくれた馬やから、ちょっと応援してしまうわ」
「それは、気持ち、わかるなあ」
そう言って笑いあったし、正直なところ、ここは勝つだろうと確信に近い思いを抱いていたから、ナギノシーグラスが掲示板にも乗れず六着に終わったのは、善之にとっても意外だった。
善之の持つナギノシーグラスのイメージは先行馬だったから、まず、絶好枠から何の問題もなくスタートを切ったナギノシーグラスがそのまま前に行かず、騎手の手で馬群の中ほどまでおさえられたことに驚いた。
ここ二走、やや控えた位置からのレースが続いていたことは善之も把握していた。九月の小倉のレースで、初めて中団からの差し切り勝ちを決めていて、だから今後は、出だしは控える作戦でいくのだろうか、と思った。
結果的に、鳴滝特別は、その作戦は失敗に終わったのだ、と善之は感じている。以前と同じように、ナギノシーグラスは引っかかる様子も見せず、騎手に従って七番手あたりを追走していた。そのポジションを保ったまま、落ち着いて最内を回り、勝負どころを虎視眈々と狙っていた。
だが、思惑は不発に終わったのだ。
ナギノシーグラスが勝負をかけようとしていたと思われる四コーナーは、前を行く馬、大外を回る馬でごった返した。前は先行勢、横は追い込み勢に完全に包囲され、直線で前にも外にも行けなくなって、脚は止まらなかったが最後まで抜け出すことができず、団子になった馬たちの内側に閉じ込められたままゴールすることになったのだ。
「ありゃ、もったいないなあ。スタートが良かったから、前につけたままレースしてたら、あるいは……」
奈津も少し落胆した様子だったが、まあまあ、と笑っていた。
「大丈夫や。また次があるって」
次があるって。そう言ったときの、前向きな奈津の声と笑顔を思いかえしては少し力を得ながら、善之は、もう何枚目かもわからないエントリーシートを食堂で推敲していた。
内定を一つも得られないまま、五月も半ば過ぎた。今のところ、メーカーを十社以上と教育関係を中心に出版社をいくつか、目星をつけて就活を続けているが、結果が出ていない。一番前に進んでいるのがとある出版社で、明日受ける予定の二次面接が通れば、来週か再来週には、初めて最終面接までこぎつけるはずだ。
「お待たせ!」
聞きなれた声が降ってきて、善之は顔を上げ、微笑んだ。お待たせといいながら約束どおり現れたのは奈津だ。この後、大学近くの人気店にラーメンを食べに行くことになっていた。
善之の手元を見て、奈津は気遣う表情をした。
「あ、エントリーシート。終わってから行く? わたし、待てるよ」
「全然大丈夫。はよ行かな、入れなくなるから」
そう言って立ち上がり、大学から少し歩いたところにある店にたどり着くと、すでに開店待ちの列ができていた。これは少し待ちそうだ。ここは材料がなくなり次第店じまいをしてしまうから、みんなこうして開店の少し前から並びはじめる。
他愛のない話をして順番待ちをしているうちに、奈津が、そういえば、と何かを思い出した様子で問いかけきた。
「ナギノシーグラス、また一勝してたの知ってる?」
へ、と善之は声を上げた。
「気づかんかった。いつ?」
「先月。ほら、行こうかって話してたけど、結局行けなかった日」
ああ、と善之は苦笑いした。
「そういえば。最近はおれ、メインレースをちゃんと観るので精一杯で、条件戦までは全然チェックできてなかったから。あれ、勝ってたのか。良かったなあ」
「良かったよねえ」
そこで二人は少し沈黙した。前のグループが呼ばれて、そろそろ二人も店内に入れそうなところだった。
ナギノシーグラスが勝ったという白川特別は五月前半の日曜日、善之が一番苦しかった時期だった。最初にエントリーした企業の一次面接ラッシュで、受けたそばから落ちていった。二十社以上受けて、残ったのが五社かそこいら。
それが三社にまで減った今は、もう次の募集に賭けるか、というところまで開き直れるようにはなっていて、開き直りつつある自分に焦りをおぼえている。長期戦に向いているタイプではない自覚はある。時間をかければかけるほど、可能性が少なくなっていく予感があった。
夏までに内定が得られなかったとしても、それ自体は悪いことではないし、チャンスはまだあるとも思う。だが、時間がかかればかかるほど、気持ちがだれていく。卒業論文も本格的な段階に入れば、どちらかは手につかなくなっていくに違いなかった。
会話がとぎれているあいだに、何気なく携帯電話を見ると、先週受けたある企業の一次面接の結果がメールで届いていた。
『――お祈りします――』
「徳ちゃん。席、空いたみたいやで」
ひとり肩を落としていた善之は、奈津の声であわてて顔を上げた。