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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
16/53

第8話 1000万下Ⅰ②

「スネあり!」

 栗木顧問の手にした白い旗が上がる。弥生は防具の内側で歯がみして、赤い襷を背に、「はじめ」の合図と共に再び相手に向かっていった。

 いよいよ五月に入り、春季大会まであと一ヶ月を切った。この時期、ゴールデンウィークあたりから、休日になると大学生のOGが中心となって、現役部員の試合稽古の相手をしに来てくれるようになる。今日はこの春卒業したばかり、弥生の二つ上の先輩が三人来ていて、そこへメンバーに入っていない新一年生が二人加わり、五人戦形式で試合稽古をしていた。

 いま、弥生の相手に当たっていたのは二年上の鳥羽だ。現役時にはインターハイの個人戦で四位に食いこんだこともある実力者だった。

 半年以上、なぎなたを握っていなかった期間があったとは思えない動きで、土曜日の昨日来てくれたときも、田代から試合開始一分以内で二本取り、やすやすとねじふせていた。

「高山。昨日、田代にも言ったことだけど」

 試合稽古後の振り返り、全体に向けた指導の最後に、栗木顧問から容赦ない言葉が飛んだ。

「ブランクのある先輩に、ずっと稽古続けてる高山がこんなに簡単に負けていいとは思わない。こんなことで現役の相手から一本取れる?」

「……はい」

 かろうじて、返事だけはした。栗木顧問が求めているのはそんなものではないとわかっているし、弥生自身、こんなことで応えたいと思わないのに。栗木顧問は口元を引きしめたまま、続けた。

「格上だし勝てない、なんてどこかで思ってない?」

 弥生はびくっと身をかたくした。

「技術的な問題だけじゃないと思うよ。うまくなろう、悪いところは直そう、それは中学のときから三年間やってきてるはずで、そこはわたしも見てきてるので。精神論言って悪いけど、基本稽古でやってることを本番でどれだけ出せるかって、気持ちの部分は大きいと思う」

 弥生だけではなく、メンバー全員が頷く。

「試合稽古、もう一回やるけど、この相手には勝てない、ってどこかで思いながらやる選手の試合なんて見たくないからね」

 はい、とメンバーが声をそろえたところで、栗木顧問は、相手方の一年生の振り返りに移った。その場から退き、次の試合稽古の準備に入りながら、弥生はひそかに、血のにじみそうなほどくちびるをかみしめた。

 メンバー内での振り返りは手短に終え、三年生三人はいま、顔色ひとつ変えず防具となぎなたの点検をしている。だが、田代は昨日、部活が終わってからずっと泣いていた。弥生も稽古中は平静であろうと思ったが、体の内側、中心のあたりが、どうしようもなく小さく震えてくる。

 知られまいと他のメンバーからわずかに顔をそむけたとき、袴の背板をぽこん、と叩かれた。目を向けると、彩莉の横顔が防具越しに目に入った。その目は弥生のほうを見ていなかったが、弥生が黙ってうなずきかえすと、もう一度、小さくぽこんとやった。

 そして弥生と二人、準備の整った三年生と共に再び位置についた。

 相手を変えてもう一戦、もう一人の先輩と当たって、弥生は今度こそ一本奪取し、勝利した。

 相手側でタイムを測る後輩の「ラスト一分です!」の声を聞くまで、何度打ちかかっても一本にできなかった。真っ白になりそうな頭を現実にひき戻し、ひき戻しながら、いったん間合いをとって中段に構えると、一拍置いて、八相の構えから相手の側面にひと打ち、決めた。そのときの発声が、むせび泣くような情けない声になったことに、自分でも気づいていた。

 仲間のもとに戻ると、彩莉が、先輩が、黙ったまま、あるいは「ナイスファイト」と小声で言いながら、かわるがわる背板をそっと叩いてきた。弥生は肩で息をしながら、頭を下げることしかできなかった。

 さっき弥生を圧倒した鳥羽は、今度は成田と当たっていた。鳥羽がメン一本、成田がスネ一本。開始早々一本とられた成田が、最後の数十秒にとり返して、執念の引き分け。

 この試合稽古の終わり、満足げとまではいかないが、栗木顧問は眉間に小さくしわを寄せながらも、こう言葉をかけてきた。

「一回目と二回目、だいぶ変わった。今のあなたたちの一番大きい課題は精神面だと思う。前向きさが足りない。慢心しろとは言わないけど、もうちょっと、やればできる、くらい思ったほうがいい。相手の仕掛けを待ってばかりいないで、ここってところで自分から……」

 指導を聞き、メンバーと一緒にうなずきながら、弥生はかえって絶望に近い気分を味わっていた。一回目とは相手が変わったとはいえ、現役のときは勝つことのできなかった先輩相手にここで勝てたことは喜べることではないのだ、絶対に。

 顧問に厳しく言われてからの、力の発揮。技術よりも気持ちが足りていなかった何よりの証拠だ。

(言われないと、できなかった。自分でやるために、何が足りないの……)

 インハイ予選まで、もう時間がない。こんなところへきて、突きつけられた自分の弱みが精神面の問題だとは。疲労のせいだけでなく呼吸を浅くして、すがりつくかのように、弥生はなぎなたを強く握りしめた。


 日曜の部活終わりの常で、今日も家に帰ると父と祖父が競馬を観ていた。

 競馬には興味もないし、細かいルールなんてよくわからない。だが、日曜の部活から帰ってきたときにテレビがついていて、実況を耳にし、駆ける馬たちの映像を目にすると、ほっとするようになっていた。

 日曜日の競馬中継は、部活が終わった、帰ってきた、という安堵に似た感情に直結している。

 今日は、弥生自身ひどく消沈していて、いつまでも電車に乗らないで同期たちとだらだら雑談したり、彩莉と寄り道をしたりするような気持ちの余裕もなかった。

 それで、いつになくさっさと帰ってきたから、リビングに足を踏みいれると、まだ十四時過ぎのレースがはじまる前だった。いつもはレースが終わりかけるときや、終わったあとの映像が目に入ることが多いから、少しだけ珍しいような感覚をおぼえた。

「ただいまあ……」

「おう、おかえり」

 どかっと椅子に座り、行儀悪く背もたれ側に腕をかけてもたれかかると、父は、どうした元気ないな、と声をかけてきた。

「うーん、大丈夫。疲れた……」

 弥生が力なく答えたとき、祖父がテレビを指さし、父に声をかけた。

「ほれ、始まるぞ。あいつ、今日こそ勝つぞ」

 わかったわかった、と苦笑する父に続いて、弥生もぼんやりテレビに目をやった。画面に表示された出走馬の一覧らしきものに、先月、祖父が話していた例の馬の名前が載っていた。目にしてその馬の存在を思い出した。

「……なんだっけ、前に言ってた二番ばっかの馬。出てるよね」

「おうそれよ。今回も買ってるぞ、ナギノシーグラス」

 祖父が答えて、テレビの画面がきり替わり、ゲートインの映像が映しだされる。椅子の背もたれに顎を乗せた状態で、「ナギノシーグラス」と書かれたゼッケンを着け、青系統のユニフォームを着た騎手を背にした、どこといって特徴のない茶色の馬がスタート位置につくのを見ながら、弥生は、ふと気になったことをなにげなく聞いてみた。

「そういえば、競馬も、全国大会とか、地方予選とか、あるの?」

「あー……。そういうのとはシステムが違うな」

 答えたのは父だった。ゲートが開き、馬たちが走りだしたのをちらっと見て、父は説明してくれた。

「レースごとに、クラス分けってやつがあるんだよ。勝ったことない馬だけ出るレース、賞金をいくら稼いでたら出られるレース、どんな馬でも出られるレース」

「今やってるのは?」

「これは、五百一万円から一千万円、稼いでる馬が出られるやつ。ナギノシーグラスってやつは、このクラスじゃ二着が多くて、もう半年以上も上に行けずにいるんだよなー」

 最初のカーブを曲がっていく馬たちを見ながら、弥生は、ふうん、と声をだした。

「どれくらいのレベルのレース?」

「おとうさん的には、県大会くらいかな。人間でいう全国大会とか、地方大会みたいな規模だと、重賞クラスからが近いんじゃないかな。……他にもいろいろルールがあるから、競馬を人のスポーツで例えるのも、ちょっとナンセンスだと思うけど」

「これ勝ったら、重賞、ってのに出られるの?」

「馬による。ただ、ここを勝てば次のクラスに一歩近づける。小さいレースでも勝っていかないと、大きいレースにはなかなか出られない。大きいレースでも、特定のワンランク下のレースで上位に入ると、優先出走権がもらえる仕組みになってるやつもあるから、そういうのは予選といえなくもないかもしれない」

「そっかー」

 そっけない相槌を返しながらも、弥生の目はナギノシーグラスという馬を追っていた。競馬への興味があるわけでなくとも、二着続きでなかなか次のクラスに行けずにいるというナギノシーグラスという馬には、自分でも気づかないうちに、親近感に似た感情がほのかにわいていた。

 映像をぼんやり眺めているだけのつもりでも、最後のコーナーを回って直線を駆け、先頭に立ったナギノシーグラスに詰め寄る二、三頭の馬に対して、来るな来るな、と念じている自分がいた。

 おっ、おおっ、と祖父が声を上げる。父が、勝つじゃん、と応じる。

 二着続きだったというナギノシーグラスは、今度こそ、最後まで他馬に先着を許さなかった。その後脚が力強く地を蹴り、はじけるように全身を伸ばして、二番手、三番手の馬をひき連れて、ゴール地点を通過した。

「よっしゃ!」

 祖父がガッツポーズした。相変わらず、父は苦笑を浮かべてその後ろ姿を見守っているが、よかったなー、と言葉をかけた。

 これで、ナギノシーグラスは、競馬の世界での全国大会だか地方大会だかわからないが、大きい舞台に一歩近づいたわけだ。

 なんとなく納得して、弥生は椅子の背もたれから顎を上げた。立ち上がろうとしたとき、祖父がぽつぽつ語りだした。

「馬ってのはなあ、毎年何千頭も生まれて、デビューすらできないで消えていく馬が山ほどいるんだから、一勝するだけでもえらいんだぞ。GⅠやGⅡで勝たなくたって、たいしたもんなんだ」

 言いきかせるような口ぶりに、祖父に対していつにない苛立ちをおぼえた。遠まわしに慰められているような気がして、いま自分に必要なのはそんなものじゃないと思ったのだ。

「勝負の世界でしょ。勝つ子だけがえらいよ」

「まあまあ、弥生……」

「優勝以外は全部負けだから」

 父がなだめようとするのをたたき落として、弥生はリビングに背を向けた。

 たった今、先頭でゴールした鹿毛馬の姿が脳裏にこびりついている。こんなところで一着になっても、あの馬の先ではまだ何頭も、もっと上の実力者たちが駆けているというのだ。

 自分なんて、部内戦の時点で、一位になることさえできない。どんなに前向きな考え方をしようとしても、わき上がってくる絶望感を払いのけることができなかった。

 弥生はその夜、浅い眠りの夢の中で、ゴールの見えないターフの上を駆けていく鹿毛馬の姿を見た。鹿毛馬はいつの間にか自分自身だった。重く、スムーズに回転しない四肢を必死に動かして前へ前へ進んだ先に、防具をまとい、中段の構えをとる桜井の姿がある。そこへたどりつく前に、桜井は構えを解き、一礼すると、いつの間にか防具を身につけて正面に立っていた弥生に背を向け、退場していった。

 敗北を悟ったところで目が覚めた。


 六月、春季大会。弥生の所属校チームは桜井の所属校チームに敗れ、またしても二位。団体の部では、夏のインターハイへの切符を逃した。

 この団体戦の敗北の最大の原因は自分だ、弥生はそう思っている。

 先鋒は益本が相手チームの三年と当たって一本勝ち、次鋒の相手も同じく三年、ここの相手をしたのは彩莉で引き分けとなった。

 そして中堅は弥生、相手は大久保だった。

 弥生は大久保に敗れた。取りに行こうとして、逆に一本奪われたのだ。

一本対一本の状態で、副将成田が一本勝ちを果たし、残る田代のやることは、桜井に一本も取らせず、守りきることだけだった。

 全国選抜後、春を経て、桜井の強さは凄みを増していた。全力で守りに入る田代からものの一分で二本奪取し、試合を終わらせてしまった。

 誰も決して口にはしなかったが、桜井に二本取られることは、みんなどこかで想定していたことだった。

 だから桜井以外のところで負けるわけにはいかなかったのに。

 演技、団体を午前中に終えての昼休み、昼食ものどを通らない心情の弥生は、彩莉や他の同期たちと寄り添うように座っていた。そこへ、三年生の輪から外れて、いつものように表情の変わらない成田が弥生たちのところにやってきた。

「佃、高山、ごはん食べてる?」

 声にならない声で、弥生ははいと返事したが、手の中の弁当が少しも減っていないことは一目瞭然だった。成田が眉をひそめる。

「午後も個人あるから、ちゃんと食べて、体力落とさないで。これで終わりじゃないでしょ。まだ逆転のチャンスあるんだから」

 その言葉は、今日一日だけのことではなく、弥生たち二年生以下の、この先のことをも暗に示していた。そしてそれは、インターハイに出られない三年生の現役生活が今日で終わることを突きつけてきた。

 顔を上げると、目を真っ赤にした益本と田代が黙々と食事をとっているのが目に入った。その光景を弥生たちの目から隠すように、成田はやや中腰になって語りかけた。

「団体は、わたしら三年だって、取れるとこで二本勝ちしとくべきだった。桜井相手の田代がああで、二年ふたりの負担が大きいのは予想できてた」

 そこで、いったんは落ち着いていた彩莉が泣きだした。成田は彩莉にちらっと目をやっただけで慰めもせず、こう続ける。

「取るべきところで取らないとこうなるって知ることができたんだから。もし、あんたたちがまたメンバーになったら、本数取るとこになってね」

 はい、と返事しながらも、弥生は顔を下に向けた。

 成田の、勝っても負けてもゆるがない瞳の強さにあこがれていた。成田のように動じない態度を貫ける選手でありたかった。

 その成田の表情がゆがむところも、できれば見たくなかった。

「今度は、絶対あの学校に勝って。桜井に勝ってね」

 ね、と二年生たちに話しかける成田の声は震えている。激励であり、託しであり、祈りだった。下を向いたまま、弥生ははい、と返すことしかできなかった。

 成田が離れてから、弥生はがつがつと弁当を食らいはじめた。

 自分のせいで負けた春の終わりを、一生忘れない。

 このままで終われない、そう思ったとき、ずっと板のように胸の内にはりついていた、勝たなければいけない、という義務感めいた思いが今さらはがれ落ちていく。代わりに、新しく熱をおびてくるものがある。

 それは欲望だった。義務感に追いつめられ、押しこめられはしていたが、もともと弥生の中にちゃんと存在していたものだ。もがくように桜井に向かっていったあの夢。勝ちたいと思っていた。勝ちたかった。

 喉の渇きを急に思い出して、弥生はペットボトルを一本、いっきに空にした。

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