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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
15/53

第8話 1000万下Ⅰ①

「こいつは二番ばっかりだなあ!」

 三月上旬の昼過ぎ、父と一緒にテレビを観ていた祖父がそんな声を上げて、テーブルで携帯電話をいじっていた弥生は、思わず耳をそばだてた。

 横目に祖父のほうを見て、なんだ競馬を観ているだけかと思いだした。画面の中では、目に優しい緑の芝と、その上を駆ける馬たちの、筋骨隆々の後ろ姿が映しだされている。

 少し過敏になってはいないか、と思って、弥生はため息をついた。

 一月、弥生は、なぎなたの全国選抜大会県予選に団体の部で出場した。

 個人戦では、まだ校内も他校も二年生の層が厚くて、一年生の中では上位の弥生でも出る幕がない。だが団体の部では、個人でも全国上位の実力者ぞろいだった三年生が引退してから、部内予選で三位、四位に食いこめるようになって、団体メンバーに入れるようになった。

 その県予選で、弥生の所属校団体チームは二位に敗れていた。

 それは今にはじまったことではなく、弥生が中学二年生になった三年くらい前から、弥生の所属校は、個人や団体の部で、県大会において二位に甘んじるようになっていた。

「……ナギノシーグラス? 前走も二着か。いるいる、そういうの続く馬」

「単勝が……一番じゃなきゃあ……」

 父と祖父がぶつぶつ会話している。他意はない。賭けた馬が一着にならないと当たらない馬券でも買っていたらしい。

 台所で洗い物を片付けていた母は何か察したようで、気遣わしげな苦笑を浮かべてこちらを見てきて、弥生は顔をそむけた。

 同じ県内のある高校に、弥生と同じ高校一年生の桜井という選手がいる。桜井選手は小学生のときから子どもの大会で勝ちを重ねていたが、中学一年生になった時点で、他校や他道場の二年生や三年生を破り、何度も個人優勝するほどの実力の持ち主だった。

 あんな怪物級と同学年だなんて、運が悪いね、と言ってくる人もいる。それでも、運も実力のうち、という言葉を、弥生は知っている。勝負の世界に身を置くからには、それには納得して、桜井に追いつくために、黙って稽古を積むことしかできない。

「一番じゃなきゃ」。楽しむだけではなく、勝つことを最大の目標としてやっているのだから、勝たなければ。心の中で祖父と同じ言葉をくり返して、弥生は小さく身をふるわせた。


 その二週間後が、全国選抜大会だった。

 弥生の所属校チームは選抜予選後の地方大会で、県ごとの二位チームを集めた団体戦で優勝し、敗者復活のようなかたちで、全国選抜の出場権を勝ちとっていた。個人の部では、二年生の成田部長と益本が出場する。

 全国選抜が終われば、自分は新二年生に。二年生は新三年生に。そして中等部の後輩たちが高等部へ上がってきて、弥生たちは、いよいよ部を引っぱっていく立場になるし、先輩たちにとっては、次のインターハイが最後の全国大会のチャンスになる。

 そして、同学年である以上、桜井は、弥生の現役生活に最後まで立ちはだかる。

 全国選抜の当日、自分たちの試合のさなかに、弥生たちは桜井を観察した。その戦い方を研究し、分析し、次に対峙するときに備えるために。

 弥生たちは一日目の団体戦を無事に勝ち残り、個人戦でも成田部長が準決勝まで駒を進めたところだった。

 桜井の強さは、この全国大会でもあきらかに目立っていた。各地の実力ある三年生、二年生相手に、次々二本勝ちを決めている。

 全国大会でも見劣りしないどころか、一年生の身で上位争いに加わっている桜井の姿を見たときに、なんで、という思いが込み上げてこない、といえば噓になる。

 ――なんで、よりにもよって同じ年に、同じ県に……。

「桜井、よく見とかなきゃ」

 頭上から声をかけられて、弥生ははっとした。最後まで考えずに済んだことを、声の主に感謝した。

 弥生のそばに立っていたのは、二日目最初の試合で敗退し、後輩たちが見守る観覧席に戻ってきていた益本だった。団体戦の準備と試合の記録を進めていた、弥生たち一年生のいる座席の横にやってきていた。

 その場で、ペットボトルのスポーツドリンクを一気飲みした益本のまとめ髪はくしゃくしゃなままで、その目は赤い。それでも平静な呼吸で、表情も静かなまま、今も試合の繰り広げられる体育館を見おろしている。

 そこでは、桜井選手が準々決勝最後の試合に快勝し、コートを退いたところだった。メン二本勝ち。

 観覧席の人々が見守るなか、準決勝の最初の試合にさしかかり、赤の襷を防具の背中につけて出てきたのは成田部長だった。コートの外では、他の二年生が二人と、弥生と同じ一年生で現副部長の佃彩莉が、襷の交換や、なぎなたが折れたときの対処のため控えているのも見える。

 観覧席の弥生たちが応援体勢に入りかけるかたわら、益本は立ったまま、静かな口調で言う。

「あの学校、そこそこ力つけた新三年も夏はまだ残るし、六月のインハイ予選はもっと手強くなってるね」

「……益本、とりあえず、こっち座りな! 成田の応援しよう! 午後の団体もあるし、休憩して」

 二年生の列から、田代が益本の言葉をさえぎるように手まねきする。益本はそうだそうだ、と笑って、田代の隣に座った。

 そのあとはいつもどおり、一丸となってコート上の成田に向けて「ファイト」の声を送ったが、弥生たちの声援もむなしく、成田は準決勝で敗退した。開始からおよそ二分、スネをとられて、とりかえせないまま、残りの一分が過ぎ去ったのだ。

「一本勝ち、勝負あり」、主審の声が響いて、白旗が上がり、成田と相手選手が互いに礼をする。成田が肩も落とさず毅然とコートを去ったところで、観覧席の益本が泣き崩れた。

 個人戦で桜井にたどり着くことさえできないのに、団体戦でどうにかなるはずもない。その年、弥生の所属校の全国選抜出場の結果は、成田の個人ベスト八、団体戦のベスト十六までに終わった。

 一方の桜井さえ、個人戦では三位だったが、それでもその功績は大きく、団体戦で優勝したのはその所属校だった。

 成田だけはそれでも、この日、最後まで表情をほとんど変えなかった。

「これで終わりじゃないので」

 大会後のミーティングで、まっすぐ前を向いたまま、成田はそう言った。

 いつもの部活終わりのミーティングと変わらない、平常心を保ったままの、静かな口調だった。

「一年と中三はこれからだし、新三年はまだ次、インハイも国体もあるので。引き続き、全国に出て終わり、じゃなくて、全国で一位をとるための稽古をしていきましょう」

 小ゆるぎもしない瞳で部員たちを見渡して、成田は、全国選抜大会をそうしめくくった。

 選抜大会後、宿題に追われながら部活動に明けくれて、春休みはあっという間に終わった。気がつけば始業式で、新鮮な気持ちにならないわけではないけれど、中等部から高等部に上がったときほどの感慨はない。

 部活のために継続して学校に来ていると、新学期が始まったといっても、どこかあっさりとした心持ちで高校二年生としての初日を迎え、過ごしていくことになる。

 新しい教室、新しい担任教師、変わる物事は少なくないけれど、それらはさして重大事ではない。弥生や彩莉にとって、高校生活における最重要事項は部活動のほうだった。


 使いなれた体育館で、成田のよくとおる発声と、鋭い一打が炸裂する。防具の側面に小気味よいほどの衝撃を感じた弥生は、栗木顧問が白旗を掲げる前に、一本取られたことを自覚した。

「メンあり! 二本勝ち、勝負あり」

 その試合の結果は弥生の完敗、成田の完勝だった。二分もかけずに、弥生は二本取られて敗れた。

礼をしながら、弥生は面の中でくちびるをかみしめた。

 始業式から二週間、四月最後の日曜日、今日は部内戦の日だった。形式は総当たりだ。高等部の十六人全部員が互いにぶつかり、部内順位を決め、上位がインハイ予選を兼ねた春季大会の団体戦メンバーとなる。

 優勝、準優勝は三年生の成田と益本、三位に佃彩莉、弥生は四位で、五位が田代だった。

「全国に出て終わり、じゃなくて、全国で一位をとる」成田が選抜後のミーティングで行った言葉が何度も頭をよぎる。そのためには、そもそも部内で一位にならなければ、全国になど届かない。

 部内で一位になった成田までも、去年の春季大会個人戦で桜井に負けている。桜井に勝とうと思うなら、先輩だからといって、負けに甘んじていては桜井と戦うこともできない。

 無邪気に同校の先輩たちの背中を追いかけていた時代は、すでに終わっていた。弥生が、彩莉が、気がつけば追っているのは、中学時代から圧倒的に強くて遠い同級生だった桜井の姿だった。

 午前中の部活動を終えて、弥生と彩莉は他の同期と別れてから、学校近くのドーナツ屋に寄り道をした。

 部活のときの張りつめた空気は少しゆるみ、話す内容は、同じクラスの誰それの噂話や放送中のドラマや、そんな他愛もないものばかりになる。

 それを心から楽しんでいる、というよりは、ただひととき現実から目をそむけている。二人とも、どこかに自覚があった。それでも、こんな時間は必要だった。この時間がないと疲弊しきってしまう。

 きりよく流れの止まった無邪気な会話、数秒の沈黙のあと、ふいに彩莉が語調を買えた。

「桜井と同じ道場にいた大久保さん。桜井と同じ高校に行ったってね」

 名前が挙がったのは、弥生たちより一つ下の、桜井ほどではないが将来有望な選手だった。弥生たちが桜井に苦しめられるのに近いかたちで、後輩たちが大久保相手に勝ったり負けたりをくり返していた。

「うん。聞いた。第一志望、落ちたんだって」

「桜井の高校、強化されるね」

 ぽつんと言って、彩莉は黙ってしまった。いつになく猫背でストローをくわえる姿、その丸まった肩に次期部長の重圧を見て、弥生は少しでも前向きな言葉を選んだ。

「大久保さん入っても、向こうの団体、三人も高校デビュー勢じゃん。他に誰か、どこかの道場か中学からあそこに進学したって話、聞いた?」

「聞かない。たぶんないと思う。隣県の道場でたまに見た西さんがこっちの、大久保が行けなかった例の高校に行ったらしいし、それくらい」

「団体戦に関しては、今はとにかく桜井相手は守りに徹して、他三人と、受験ブランク明けの大久保から確実に一本取ってくしかないよね」

「向こうも同じ戦略で来るけどね。桜井大久保以外はがちがちに守り固めてくるだろうね」

「粒はこっちがそろってる。わたしは弱気になんてならない」

 弥生が早口に言いきると、この日初めて、彩莉の表情がちゃんと柔らかくなった。ぷっと吹き出して、そうだね、と答える。それから少し黙って、また口を開いた。

「栗木先生、次の部活で団体戦の構成発表するって。田代先輩か弥生のどっちか、桜井に当たる配置になる、かも」

 表情をかたくした弥生に、彩莉は立ち上がりながら話を続けた。

「ヤヨを桜井慣れさせとくか、今回は守備力高い田代先輩を桜井に当てて、ヤヨは大久保慣れに回すか、って感じ、なのかな」

「……そっか」

 彩莉に続いて席を立ちながら、弥生は覚悟を決めるしかなかった。

 その後はまた、駅に向かいながら当たり障りのない雑談を続け、互いに涼しい顔で、反対方向の電車に乗って別れた。


 家にたどり着いた弥生のただいまの声は、祖父の「差せ! 追い抜けー!」という悲鳴めいた声がかき消した。

 リビングを覗き込むと、いつものように、祖父と父が競馬を観ていた。テレビに映るレースはもう終盤らしく、ゴールに向かって、先頭に立つ二頭の馬が、他の馬たちをひき離しながら駆けていく。二番手の茶色の馬は、前を走る黒い馬との距離を少しずつ縮めていっているが、ゴールまでに届きそうにない。

 その二頭が続けざまにゴールした瞬間、「また二着!」と残念そうな声を上げた祖父の様子からすると、二番手でゴールした馬に賭けていたらしい。一ヶ月前にも聞いたような言葉だ。

「弱くないだろうに、いつ勝つんだこの馬」

「親父、こういう馬は単勝買わないで、複勝にぶち込むか馬連の軸にするのがいいんだよ」

 わかっとるわ、と祖父が言いかえしたとき、リビングに入ってきた弥生に父が気づいた。

「お、お帰り。部内戦、どうだった?」

「四位。団体メンバーには入ったよ」

「そうか、良かったな。大会がんばれよ」

 弥生はこっそり奥歯をかみしめた。良くないよ、と声に出そうか出すまいか迷ったとき、祖父が振り向く。

「弥生おまえ、四位で満足してちゃだめだぞ。一番とれ、一番!」

 父が祖父をたしなめたが、弥生のほうは不思議と苛立ちも感じず、自然に笑みが浮かんだ。祖父の無邪気な無神経から出た言葉は、下手な慰めや励ましよりも、今の弥生の気持ちに寄り添っているような気がした。

「そうだね、一番がいい。一番以外は負けだもん」

「その意気、その意気。なんせおじいちゃん、賭けた馬が二番になっちまったから五百円損したんだよ。先月も同じ馬でさ」

「親父、それは自業自得だよ……」

 父があきれ声で言うのをよそに、弥生は祖父のわきに膝をついて話しかけた。

「同じ馬なんだ。二番ばっかり?」

「そうそう。困ったやつなんだ」

「なんて馬?」

 ささやかな好奇心と、祖父の話し相手をしてやる目的との両方で、弥生はそう聞いた。

「ナギノシーグラス」

 答えた祖父が競馬新聞を広げ、とんとんと指でつついたところの文字を、弥生はちらっと見るだけ見た。

「勝てたらいいね」

 弥生はそう相槌を打つと、立ち上がって自室に荷物を置きに行った。馬の名前はすぐに忘れた。

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