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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
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第7話 睦月賞②

 珍しく、今日は頼子も一緒になって競馬を観ることにした。観ているとはいっても、少し離れてソファにもたれて雑誌片手に、もののついでに、くらいのことではあるけれど。

「だって、わたしが良いっていった馬を買うっていうんだもの。ちょっと気になるじゃないの」

「それはそうか」

 そう言って、楢崎は機嫌よさげにパソコンに目を戻す。画面の中では輪乗りが始まっていて、パドックでは暴れていたコバルトリバーがすっかりおとなしくなった一方で、静かにしていたアカシがさかんに首を振っているのがちらっと見えた。

 頼子は楢崎の背中を見ながら、声に出さずにふふっと笑った。アカシという馬の様子を見て、楢崎がそわそわと心配そうにしているのが手に取るようにわかる。

 アカシという馬のことを、楢崎が早くから応援していたことを、頼子は知っている。

 そもそも、楢崎が実は賭けそのものより、馬の応援のほうが好きなことは、楢崎自身よりも、頼子のほうがわかっているのかもしれない。

 その年その年で、楢崎には、意地になってひいきにしてしまう馬がいる。去年はそれがアカシだった。こいつはいいステイヤーになる、おれにはわかる! なんて言っていたのに、神戸新聞杯では予想もしなかった敗北結果になって、アカシが菊花賞に出られないと聞いた楢崎が、しゅんと肩を落としていたのはよく覚えている。

 ただ楢崎は、純粋に馬を応援している自分の姿を、人に知られるのが恥ずかしいらしかった。いつも、競走馬などあくまでギャンブルの駒に過ぎない、という態度をとっているが、さっぱり説得力がない。

 真剣に買い目を考えているような顔をして、その予想には、どうしても肩入れしている馬を絡めてしまうものだから、当てられそうな馬券も外してしまうのだ、この人は。今月馬券を外しっぱなしなのも、ちょっと目をかけた馬の出走が続いたことが原因の一つのようだった。

 気づいているかしら? と頼子は思う。ちょっと思い入れのある馬のことになると、言葉数が多くなることに。細かく予想しているようでいて、特定の馬を除いては、雑な分析しかしていないことに。

 ときどき、そんな馬のことを聞いてやると、嬉しそうに話をする。

 賭け事は好きではないけれど、夫が楽しんでいるのは賭け事ではなくて馬を見ることなのだと思えて、頼子は競馬をやめてほしいとまで考えたことはなかった。

 夫の楽しそうな顔を見るのは好きだから、たまには競馬の話にも自分から付き合ってみることにしている。そんな頼子の気持ちには気づいていないだろうな、と思いながら、頼子はいつものように、馬についてたずねてみた。

「アカシって、どういう馬でした?」

「追い込み馬だよ。最初に見たのは去年の春くらいのレースだな。それも二四〇〇メートルのレースだったな。二着だったが、なかなか派手な末脚で、見ていて気持ちがよかったから印象に残ったんだ」

 頼子のほうは、そういうのいいわねえ、と相槌を打つことしかできないが、楢崎はそれだけで少し機嫌がよさそうになるから、これでいいのだ。

 パソコン画面の中で、輪乗りが終わり、馬たちが順序よくゲートにおさまっていく。頼子が良いと言ってみたコバルトリバーが少し嫌がるようなそぶりを見せて、係員に押しこまれている。その様子に楢崎は、頼子のほうを見て意地の悪い笑みを浮かべた。頼子が肩をすくめるだけの対応で済ませると、楢崎はつまらなそうにパソコンのほうに顔を戻した。

「スタートしました」

 レースが始まった。

 そろったスタートとはいえず、まず、楢崎が最後に買い目に入れた五歳馬が躓いて大きく出遅れ、病み上がりのゴールデンタイムも、もたつきながら追走している。

 一枠一番の八歳馬、リングセプテンバーが逃げ、レースを引っぱっている。実況をよく聞いていると、ペースが遅いらしいことがわかった。

 全体的に縦長の隊列が形成されたなかで、頼子が少し注目している目立つ芦毛の馬体はやや後ろ寄り、真ん中のあたりにいる十番の牝馬のすぐ後ろにぴったりつけている。

 楢崎の本命アカシは後ろから四番目くらいの位置にいる。今回も末脚に賭けるつもりなのだろうが、ちょっと後ろすぎはしないか、と頼子は心配になってしまう。

 賭けているレースがはじまると、楢崎は黙ってしまう。腕を組み、じっとパソコンかテレビの画面をにらみ、難しい顔で戦況を見守っている。

 これが、肩入れしている馬が勝つと、つくろいようもなく笑みくずれることを頼子は知っている。口では当たった、儲けた、おれには見る目がある! といった種類のことばかり言っても、その日の夕食のときには決まって、そのレースの勝ち馬がどんなに強くてどんなに良い馬かを、早口に語るようになるのだ。

 まもなく馬群は二コーナーを回り、向こう正面に入ろうとしている。アカシの位置はまだ変わらない。

 楢崎のように熱い気持ちで競馬に魅入ることまではできない。だが頼子は、画面の中で後方を駆けるアカシへ、どうか夫を喜ばせてあげてねと、心の中でひそかなエールを送った。

 最後方を追走している例の五歳馬がやっと最後に二コーナーを回りきったとき、ゴールデンタイムが一気に前に動いていった。

「ほう」

「あら」

 夫婦そろって、小さく声を上げる。こんな早い段階でスパートをかけるだなんて、それがずいぶん攻めた判断であるらしいことは頼子にもわかる。

 ゴールデンタイムがリングセプテンバーまでも一気に追いぬき、先頭に立つ。そのとき、三番手以下の馬群は向こう正面の真ん中を通過しつつあるところで、後方ではまた動きが起きた。

 勝負に出たのはコバルトリバーだった。馬群の外に持ち出し、三コーナーに向かう坂を駆けあがりながら、先頭に向かう。ゴールデンタイムほど思いきった走り方ではないが、騎手に促され、着実に位置を上げていく。

 三コーナーを回りながら、下り坂の勢いがつくあたりで一気にリングセプテンバーをとらえ、直線に入る直前でゴールデンタイムをもとらえた。

 最後の直線まで力をためるつもりらしい後方集団は、ややごちゃついた様相を呈している。その中でもコバルトリバーに続いて前へ動きはじめていた、十番の牝馬ナギノシーグラスがいつのまにか前めの位置に顔を出し、四コーナーを回って、リングセプテンバーに続いて四番手で直線に入ってきていた。

「……木田はまだ動かんのか!」

 楢崎は苦い顔をして、アカシの鞍上の名を呟いた。

 三コーナー以前から早仕掛けした二頭のうち、ゴールデンタイムの脚がすぐに止まり、他馬に次々と抜きかえされていく一方で、コバルトリバーは調子よく伸びていく。当初逃げていたリングセプテンバーも粘り強いもので、直線に向いてもまだ二番手をキープしていたが、そこへ忍びよっていくのはナギノシーグラスだった。

 やがて、ナギノシーグラスがリングセプテンバーから二番手を奪う。少しずつ加速して、先頭で止まらないコバルトリバーを紅一点追っていく。

 その後方でようやく、アカシの末脚に火がついていた。馬群の大外、前にさえぎるもののないまっすぐな進路を選び、塊になってバタバタとラストスパートをかける他馬を横目に、鋭く追いこんでいく。

「よしっ、行けっ、十番は抜け!」

 腕組みをしたまま、上半身を前に乗りだし、楢崎が声援を送る。

 やっとアカシもゴールまで残り二〇〇メートルというところまで来て、その先でまったく勢いの衰える様子がないコバルトリバーに追いつくのが不可能なことは、もはや一目瞭然だ。アカシの一着が無理でも、せめて二着に入れば、少なくとも馬券は当たる。

 猛スピードで前方へ突っこむアカシの馬体は、ゴール寸前で、ナギノシーグラスを追い抜けるのではないかと思われた。

 だが、その勢いは、ナギノシーグラスに半馬身追いついたところで止まった。

 アカシが力尽きたわけではない。ナギノシーグラスのほうが予想外にしぶとく、アカシに詰めよられたところで、再びわずかに伸びたのだ。

 うめく楢崎の目の前で、先頭のコバルトリバーが意気揚々とゴール版を通過した。その二馬身差あとに、ナギノシーグラス、アカシと続く。

 ナギノシーグラスのほうがはっきりとクビ差先着していた。アカシの敗北は明らかだった。

 楢崎は深くため息をつき、しかめっ面でパソコンを閉じた。

 頼子は苦笑しながら、しょんぼりと肩を落とす夫の姿を見つめた。今月は負け続き――楢崎の好きな馬が、負けてばかりなのだ。

「アカシ、よくがんばってたわね。最後のとこなんて、すごい脚だったの、わたしにもわかりましたよ」

 励ましの言葉をかけると、悔しそうというよりは悲しそうな表情をしていた楢崎は、怒ったような顔を作ってみせた。

「ふん。おかげで来月までおあずけだ」

「アカシが勝つときまで休憩ねえ」

「女馬に負けるようじゃ、もうだめ、だめ!」

 ぶっきらぼうな口調でそうは言うが、次にまたアカシが出てきたとき、どうせまた、本命とまではいわなくても、馬券に絡めてしまうに決まっている。頼子は笑いをこらえながら、話題を変えようと手近な本棚から地図帳を引っぱりだした。

「どっちにしても、来週の競馬はお休み。おいしいものを食べに行きましょ。行ったことないんだけど、人から聞いて、気になるところがあってね……」

 車で行ける範囲の地図を開きながら、頼子が提案しはじめたとき、夫は口をはさんできた。

「確実にうまいものを食べに行くのが目的なら、行ったことある店のほうがよくないか。行ったことない店って、それこそギャンブルな気がするんだが……」

「だーめ、たまには新規開拓するの! こういうのは、わたしの言うこと聞いとけば間違いないんだから」

 自信たっぷりに言って夫の顔を見上げてみると、むくれたような顔が目に入って、頼子は吹きだしそうになるのをこらえ、話を続けた。


 むっつり顔をしてみせながらも、それは頼子の言うとおりだと思っているから、楢崎は素直に頼子の提案を聞くことにした。

(今回なんか、頼子が良いって言った馬ばっかり、連対したしな……)

 それに気がつくと、ひそかに、来月は頼子の予想も取り入れてみようか、などと考えてしまうのだった。

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