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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
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第7話 睦月賞①

 楢崎は少しばかりむしゃくしゃしていた。ここのところ負け続きだ。

 こいつだ! と見込んだ馬が負けたときの感情は、単純に馬券が外れて損をした、という悔しさだけではない気がする。自分に見る目がなかったような気分になる。

 苛立ちながら飽きもせず、今日もこたつで競馬新聞を広げている夫の姿を見ながら、頼子は、淹れたての熱いお茶を運んでやりながら、ため息をついた。

「おとうさん、調子が悪いならたまにはやめてみたら? いらいらしてると楽しめないでしょうし、体にも悪いですよ」

 眉間にしわを寄せていた楢崎は、声をかけられて目を泳がせた。長年連れ添った頼子の言葉には弱い。楢崎は短気な自覚は持っていたが、妻には決して当たらないようにしている。

「いや、やめるわけにはいかん」

「やめちゃいけないってことはないでしょ。外してばっかりだと、楽しくなくなってこないの?」

「そ、そんなことはない」

 楢崎がそう返し、とりつくろうようにお茶をすすると、頼子はくすくす笑った。

 頼子はもともと、賭け事をあまりよく思っていない。それでも楢崎が馬券を買うのを止めることまでしないのは、ちゃんと頼子との約束を守っているからだ。

 ひとつ、馬券を買うときは百円単位にしておくこと。ただし一年に二レースまで、GⅠだけは千円単位で買ってもよい。ふたつ、収支はきっちり記録して、マイナス五千円になったら、その月は馬券を買うのをやめること。みっつ、休日に競馬ばっかりやっていないで、たまには頼子と出かけたり、おいしいものを食べたりすること。

 そんな約束をして、頼子の監督のもと、楢崎は節度ある競馬ライフを楽しんでいる。

 もしも一人だったら、際限なく馬券を買ってしまうようなことがあったら、むしろ競馬を楽しむことはできなくなっていると思う。頼子との約束があるから、適度な限界を得て賭け事を続けていられる。

 本人に言うのは悔しい気がするので伝えたことがないが、楢崎は、たいていのことは頼子の言うことを聞いておけば間違いない、と思っている。

 今日は一月第三週の日曜日、年明けの金杯から始まる今月の競馬予想は絶不調で、もう頼子との約束のマイナス五千円まではあと五百円という状況だった。

 一月はまだあと一週間残っているし、今日のメインであるアメリカジョッキークラブカップの出走メンバーは豪華だし、来週には、楽しみな馬が出てくる短距離重賞、シルクロードステークスもある。

 こんなところで軍資金を尽かすわけにはいかず、余裕もほしい。

 そんなわけで楢崎は、資金稼ぎのため、当てられそうなレースを昨夜から厳選している。そうしているうちに、いくつか目星をつけたレースのなかに一頭、印象深い馬名を見つけた。当てるならここしかない! と意気込んで、そのレースの馬柱を穴があくほど見ていたところだった。

「……こうなったら、今週のメインか、来週のメインか、どっちかにしたらいいのに。意地になっちゃって」

 あきれて微笑む頼子から、楢崎は目をそらした。

「この緊張感もいいもんなんだ」

「それで、今日は結局買うんですか?」

「買う。京都の九レースがいい。堅いのが一頭いる。こいつから流せば、まあマイナスにはならん」

「堅いの、ねえ……」

 頼子がほんとにそうかしら? と言わんばかりの表情でにやっとした。楢崎はぷいっとそっぽを向いて、あえて返事をせず、競馬新聞の、目当てのレースの馬柱に目を戻した。

 睦月賞、京都芝二四〇〇メートル。出走馬の顔ぶれと戦績欄を見ていると、今回は、二六〇〇メートルだの、三〇〇〇メートルだの、長めの距離で経験を重ねているスタミナ自慢が揃っているようだった。

「堅いの、なんて馬?」

「アカシ、だよ。秋にも走ってたけど、覚えてないか」

「その馬なら覚えてる。ちょっと大きいレースに出てたでしょ?」

 楢崎はそう、と頷いた。

「このレースの中で抜けてるのはこいつだろう。四歳牡馬というのもいい。やっぱり、若くて元気な男馬がいいんだ。この馬はな、デビューしてから、重賞以外じゃ二四〇〇メートル戦で連対を外したことがないし、二六〇〇メートルでも勝ってる。スタミナは充分」

「そういえば、重賞じゃだめだったかしら」

「うん。九月の神戸新聞杯では八着になって、菊花賞は断念してしばらく休んでたが、先月の江坂特別が休み明けで二着だ。条件戦じゃ力が上だと思うし、叩き二戦目のここは外さんだろうさ」

 熱のこもった口調で話しながら、楢崎は、こたつの上に用意していたパソコンに電源を入れ、競馬中継サイトを開いた。

 すでにパドックの中継が始まっている。注目しているアカシが映しだされて、楢崎は満足そうにうなずいた。

「ほら見ろ、悠々と歩いて。踏みこみもしっかりしてるし、発汗もない。調子も問題なさそうだ」

「そうですか? なんだかおとなしく見えるわねえ……わたし、こっちのほうがいいなあ」

 そう言って、アカシの数頭あとにカメラが映しだした六番ゼッケンの馬を、頼子は指さした。コバルトリバーという名の、芦毛の六歳牡馬だ。

 こっちのほうが、なんて頼子に言われて、楢崎はちょっとむっとしながら、頼子の指さした馬を見て、やれやれと首を横に振ってみせた。

 アカシとは正反対で、ひんぱんに首を振り、やや興奮ぎみの様子だった。二人引きで歩いているが、それでも跳ねるように歩く動きがおさえきれないらしく、手綱を引いている厩務員の男がずっと難しい表情をしている。

「これから二四〇〇メートルを走ろうってのに、こう落ち着きがないんじゃ体力もたないだろう」

「そういうもの? いいじゃない、負けん気ありそうで。それにこの馬、目がくりくりでぬいぐるみみたいな顔、ぴょこぴょこしていてかわいい」

 楢崎はちょっと微笑んだ。賭け事を好まない頼子が、たまにこうして関心を示してくるのは、少し嬉しい。

「よし、じゃあ、この馬も買い目に入れてみよう」

「いいんですか?」

「うん、まあぱっとはしないが、ここ最近の成績も五着前後とひどいことはない。二着くらいなら入ってきても驚きはしないかな」

 新聞に二重丸をぐりぐりと書き込みながら、楢崎は語った。

「アカシから、馬連で五点流すぞ。あとは何にしようかな。とりあえず四歳牡馬は全部チェックだ」

「いつも思ってるんですけど、考え方、雑じゃない? 当てたいなら、もっとよく考えたらいいのに……」

「やかましい」

 ふん、と新聞で顔を隠して、楢崎は予想を続けた。

 このレースは十四頭立てで、うちアカシを含めた五頭が四歳馬、あとは、上は八歳までといった出走メンバーで、比較的年齢層が幅広い印象だった。

 アカシを軸に、他に五頭選んだ馬を紐に、流す。まず一頭は頼子の選んだコバルトリバー、残る枠は四頭だ。

 はじめ楢崎は、あとは全部四歳馬にしようかと思っていたのだが、うち一頭、七番のゴールデンタイムは若駒時代の実績がぱっとしないうえ、ノド鳴りの治療のための長期休養明けだった。

 もう一頭の十番は、このレース唯一の牝馬でナギノシーグラスという。近走成績が極端に不安定なわけではないが、六着という結果に終わっている十月末の鳴滝特別から今日まで、三ヶ月ほど休養をはさんでいる。

 楢崎はどうも休み明けの馬を信用するのが好きではない。そういった馬を買わずに馬券を外したことがないわけではないのだが、休み明けの人気馬を外して大当たりしたこともある。だから、そこはもう賭けるときのこだわりとして、休み明けの馬は、ごくたまの例外を除いては買わないことにしている。

 そういうわけで、残る四歳牡馬二頭を紐に入れるとなると、まだ二頭選べる。新聞とパドック中継を見比べながら、楢崎は予想を続けた。

「……どれがよさそうに見える?」

 若いころは今以上に、何かに熱中しすぎて受け答えが大雑把になってしまうところがあった楢崎は、それが原因で、しばらく頼子に口をきいてもらえなくなったことが一度だけあった。それ以来、こうして趣味の時間を楽しんでいるときでも、頼子が隣にいるときは、興味がなさそうなことでも、ときおりは話しかけるくせがついている。

「そうねえ。十番の馬なんか、つやつやしててきれいだなあって思うけど」

「そりゃ、このレースで唯一の女馬だな。紅一点でも男馬に勝てないとは限らないが、休み明けだし、休み前の成績がいいわけでもないし、今回は買わん」

「そうですか」

 そんなやり取りをしながら、結局、一頭はこのレース最年長の八歳馬、リングセプテンバーを選んだ。長く条件戦を脱出できずにいる馬ではあるが、インターネットのほうでさらに過去の戦績を見ていると、調子に波があるらしい。数ヶ月おきに好走する時期、敗北が続く時期をくり返しているようで、ここ最近は四着、五着が続いている。

 パドックの歩き方も目を引いた。やる気いっぱいに円形のパドックの外側を歩き、厩務員を引っぱるような力強さを見せている。かといって、コバルトリバーのように、跳ねたり首を振ったりするようなところはない。それでいて、一枠一番。長い距離では有利な最内枠だ。穴馬としてはおもしろいかもしれないと思った。

 六歳と八歳の馬を買い目に入れることになって、若い馬を好む楢崎としては、六歳以上の馬をさらに買うのは不安な気がした。だから、最後の買い目には五歳馬のなかから調教タイムの良い馬を選んで、こうして、睦月賞の買い目は決まった。

 予想が一段落して、よーし、と呟きながら、いったん新聞をたたんだ楢崎に、頼子は話しかけた。

「当たるといいわねえ」

「そうだなあ」

「当たらなかったら、来週は競馬お休みして、どこかにお出かけしましょうね」

「しょうがないなあ」

「しょうがないだなんて」

 ひどい、と笑いながら、頼子は楢崎と一緒にパソコン画面を眺めていた。

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