第6話 兵庫特別②
画面を見ながら、父が、ほほー、と声を上げる。
「きれいにスタートしたなあ」
きれいに、の意味がよくわからず、しのぶは首をかしげながらレースを眺めた。よくわからないなりに、この中ならいちばんにナギノシーグラス、その次にヤマオロシを応援している。とはいえレースを観ながら実況を完璧に聞きとるのは意外と難しいし、どの馬がどの馬か目で追うには、今のしのぶには、馬が身につけているゼッケンの数字を追うのでせいいっぱいだ。
並んで飛びだした馬たちの中から、先を争うように前へ前へ出てきたのは七番のヤマオロシと、三番の馬だった。三番は父の丸印がついていなかったと思い出して新聞を確認すると、六歳と書かれていた。
先頭に立ったのは三番。ヤマオロシは、その六歳馬から馬体ひとつぶん離して最初のコーナーにさしかかった。他は鹿毛か栗毛ばかりのレースの中で、ヤマオロシの黒鹿毛の馬体は目を引いた。
栗毛のイクオリンがヤマオロシの直後につき、五番のナギノシーグラスはさらに数頭はさんで、細長くなった隊列の真ん中よりやや後ろを駆けている。父が信じる二番、リングジュピターは一番後ろにいた。二番と五番の二頭は、しのぶの目には特徴のわかりにくい鹿毛馬で、馬群の中や後ろのほうにいられると、ますます見つけづらい。
「二番、遅いじゃん! こんなの勝てるの?」
「まあ待て、競走馬には追い込み馬っていうのがいて、スタミナを温存して、最後の最後にぶっぱなすような追い抜き方をするやつがいる。リングはそのタイプだ。作戦だ、作戦」
とはいえ、と父は顔をしかめる。
「下げすぎじゃないかなあ……」
競馬を見慣れていないしのぶには、いま後ろのほうにいる馬が、最後に巻きかえすさまを想像するのは難しかった。リングジュピターほどでなくても、ナギノシーグラスも遅れをとっているように映って、早くも残念な気持ちになっていた。
レースの流れがわかるようなわからないような状態のまま、しのぶはとにかく馬の動きを追った。
二コーナーを回ってまもなく動いたのは、三番手にいたイクオリンだった。向こう上面にさしかかってから位置を上げ、先頭の三番もヤマオロシも一気に追いぬき、ハナを奪う。
「攻めるねえ」
父がぽつりと呟く。
イクオリンは果敢にも、そのまま他馬をひき離そうとする。二番手以降が追いかけないからよけいに、その姿はいかにも積極的に見えた。
しのぶは、まだ後ろよりにいて、本気を出していないように見える五番のゼッケンを目で追いながら、あー、がんばれー、と小さく声に出した。
先頭のイクオリンが三コーナーに突入するころ、しのぶが見ていないうちに、リングジュピターがじわりと上がり、並ばれた二頭もつられてスピードを上げ、後方には団子のような隊列が形成されかかっていた。
後方集団はごちゃつきながら、じわじわ前の三頭を追い、距離をつめてきていた。そのさまがしのぶの視界に入ったとき、ナギノシーグラスもリングジュピターも、一目ではどこにいるのだかわからない状況だった。だから、その時点ではしのぶは、もうナギノシーグラスを応援するのはあきらめて、もう一頭の「努力型」ヤマオロシだけに注目していた。
先頭三頭がまっさきに四コーナーを回り、直線に入る。イクオリンはコーナーを曲がりきったところで、早くもスタミナ切れを起こした。ヤマオロシが三番の馬とハナを奪いあって伸びていくのを横に、騎手の鞭もむなしく、前の二頭からふり落とされるように下がっていく。
「あっ、だめだね、十一番。もう逆転しないね」
ね、と横目に話しかけると、父はテレビのほうを向いたまま頷いた。
イクオリンをのみこみながら、続く馬群も四コーナーにさしかかる。カーブを曲がったところで、元気よく加速していく馬と、ついていけず遅れはじめる馬がいて、そこで馬群がばらけだした。
その機を逃さず進路を確保したのは、ナギノシーグラスとその鞍上だった。三番手集団の内ラチ沿いにいて、しのぶの目には、ナギノシーグラスが、他の馬たちに閉じこめられているように映っていた。
カーブを曲がっているあいだに横を走っていた馬が後れをとり、前後の隊列が縦長になったところで、ナギノシーグラスの斜め前に空白ができた。騎手はそこを見逃さず、コーナーを回りきりながら、馬をさりげなく馬群の外側に導いた。
そこから、ナギノシーグラスは堅実に脚を伸ばした。進路を得て、騎手が鞭を二、三度入れて、爆発的な末脚とはいかないが、一完歩、二完歩ごとにじわじわスピードを上げていく。ただ一頭、もたつく三番手集団を抜けだし、二番手集団をとらえ、坂をのぼりきったあたりで二番手集団をも抜きさった。先頭まで残り二百メートル。
最後の目標はもう目の前、逃げきろうとする三番と叩き合うヤマオロシ、この二頭だけだ。
おっ、と父が声を出した。
「ナギノ来た! がんばるじゃん」
ナギノシーグラスはまだ伸びる。その前方で、ヤマオロシが三番を競り落としたところだった。
そのころ後ろのほうでは、二番手集団の直後、三番手集団の最内で前をふさがれていたリングジュピターがようやく進路を確保し、自慢の末脚に火をつけたところだったが、今からいくらスピードを上げても、もはや先頭までは追いつけそうにない。リングジュピターを評価していた父は、苦笑ぎみに二番ゼッケンの馬体が脚を伸ばす姿を見ていた。
先頭ではついに、力尽きて下がっていく三番と、ナギノシーグラスの位置が入れ替わったところだった。ナギノシーグラスはぐいぐいヤマオロシとの差を詰めていく。
だが、ヤマオロシが先頭を譲ることはなかった。ナギノシーグラスに半馬身までせまられながら、一着でゴールに飛びこんだ。逃げきれなかった三番の六歳馬が少し離して二頭に続き、三番をとらえきれなかったリングジュピターはハナ差の四着、そのあとに残る馬たちがなだれこんだ。
しのぶと父は、「ああー……」とため息まじりの声を合わせた。
「惜しかった」
「ダメだった」
そこも声を合わせて、くすっと笑いあう。父は競馬新聞を手に取り、三着までの馬のところに一、二、三、と書きこんだ。
「ヤマオロシ、しぶとかったなあ」
「ナギノシーグラスもがんばったじゃん。すごくなかった? 最後、だんだんスピードアップしてた」
うん、と父は頷いた。
「スタミナありそうだったな。騎手もじょうずだったよ」
「次の、GⅠ、だっけ? 大きいレース。ヤマオロシとナギノシーグラスも出てくる?」
父は首を横に振った。
「それなら、ヤマオロシは出てくるかもしれないけど。ナギノシーグラスはたぶん、同じレースには出ないな」
「えー! なんで? 強そうなのに」
「ヤマオロシが出てきそうなのは、十月末の菊花賞っていうレースなんだけど、距離が三〇〇〇メートルもあるんだよ。メス馬が出ちゃいけないルールはないし、走ること自体が不可能なわけじゃないんだけど、このレースに関しては、もう十年はメス馬が挑戦してないんだ。三歳の女の子が男馬相手に三〇〇〇メートルは、おとうさんはきついと思うなあ」
しのぶは少し残念に思った。ナギノシーグラスという馬にはなんとなく愛着がわいていて、大きなレースに出るなら、また応援したいと思ったのに。
口をとがらせたしのぶに、父はまあまあと笑った。
「メス馬限定の大きいレースもあるし、そういうのに出てくるのを祈ろう」
「出てくると思う?」
「可能性はあると思うな。三歳って人間でいえば高校生くらいともいわれてるけど、タフなオス馬や大人の馬相手に、女の子がこれだけがんばったんだ。弱いとはいいきれないと思うな。軽斤量の恩恵もあるかもしれないけど……」
ケイキンリョウ、の意味はよくわからなかったが、そこまで深掘りするほどの興味はなくて、しのぶはそこで質問をうち切った。
ところで、と父はふと調子を変えた。
「休憩はもういいんじゃないか? 漢字ドリルやらなきゃいかんだろ」
思い出して、しのぶは苦い表情をつくり、頭を抱えてその場で仰向けになった。
「もう飽きた~……」
「四時までに終わったら、そこのコンビニでアイス買ってやるよ」
なんでもない休日に、手伝いをしたわけでもないのに、父がこんなことを言ってくるのは珍しい。しのぶはばっと起き上がった。
「え、いいの?」
「うん。なんせ、ナギノシーグラスの複勝が当たったからな。おまえのおかげで、ちょびっと儲けたんだ」
父は笑いながら、ほれ、と言って二階を指さした。
「さっさと済ませてこい。母さんが帰ってくる前にドリル全部やって、アイス買って、食べ終わって証拠隠滅まで終わらせるぞ」
「わかった」
しのぶは立ち上がり、階段のところまで行って、いったん立ち止まって父のほうを振り向いた。
「ねえ、来週は競馬やる?」
「いや、来週は仕事だからやらない。なんでだ? もしかして、興味出てきたか?」
「じゃなくて、また当ててアイス買ってもらおうかなって……」
「そんな当たるか。競馬なめるな……じゃない、味をしめるな」
こら、とばかりにさえぎられて、しのぶは舌を出した。
「まあいいや。そのかわり、ナギノシーグラスがレースに出るとき教えて! ちょっと応援したいかも!」
わかったわかった、と父に手の動きでうながされて、しのぶは子ども部屋へ戻っていった。
思いのほか、良い気晴らしになった。少しやる気が出てきていた。