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ターフの上のシーグラス  作者: 石見千沙/ナガトヤ
第二部 条件馬編
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第6話 兵庫特別①

 退屈な漢字ドリルが終わらない。

 このドリルは学校の宿題ではない。漢字を覚えるのが大の苦手なしのぶのために、母が本屋で買ってきた。毎週土曜には、そのドリルを決まったページ数だけやるのが母との約束だった。

 今日は、夕方までしのぶの母は出かけていて、帰ってくるまでに約束のぶんを仕上げなければいけない。お昼ごはんを食べてから手をつけたけれど、問題を解きながらついつい漫画を開いてしまったり、落書きをしてしまったり、ちっとも集中できなかった。

 しのぶはどちらかといえば負けず嫌いなたちで、苦手な勉強だって克服したいと思っているし、頑張ることが苦痛というわけではないけれど、どうしたっておもしろくないものはおもしろくないのだ。

 気晴らしにジュースでも飲もうと、しのぶが二階の子ども部屋からリビングに降りてみると、父がスポーツ新聞とにらめっこしている光景と出くわした。

「また競馬やってるー。今日、なんか賭けるの?」

 尋ねると、新聞に鼻先を埋めたままでも、うん、と返事がかえってきた。

「ちょっと気になるレースがあって、とりあえず、それだけな」

 父は競馬が趣味で、ふだんはラジオで中継を聞いているが、レースによっては早くからテレビに張りついて、何百円かだけ賭ける。めちゃくちゃな賭け方はしないで、それでも心底楽しそうに競馬を観ているから、賭け事とはいえ、しのぶも母も特に悪い印象を抱かずにいる。

 しのぶはというと、ぼんやりレースを観るぶんには嫌いではないけれど、そこまで興味はない。レースの種類も有馬記念くらいしか覚えていない。馬が競走して一番になったら勝ち、くらいの認識しかない。

「しのぶ、おまえ、今日のぶん終わったのか? ドリル」

 思い出した父にそう指摘されて、しのぶは目をそらした。

「今日、ぜんぜん集中できなくてさ。休憩休憩」

「母さんが帰るまでには仕上げろよ」

「大丈夫だってば」

 競馬新聞を持ったまま、信用ならない様子でこちらを見やる父の横にどかっと座って、しのぶは大げさなため息をついた。

 すると、父がさらに何か言おうと口を開きかけた。興味をそらさなければと考えて、しのぶは、試しに競馬に食いついてみることにした。

 どれどれ、とふざけて父の手もとをのぞきこんで、すぐに離れる。

「うん、わかんない」

 父は笑って、じゃあ、と新聞を指さした。

「この、兵庫特別ってレースの中で、いいと思う名前、選んでみな」

 作戦成功! しょうがないなあ、と言って、しのぶは再び新聞に目をやった。

 競馬新聞の見方はさっぱりわからないけれど、どれが馬の名前かくらいはわかる。すでに父は新聞に、赤ボールペンでいくらか書き込みをしている。まず目についたのが、馬名の上の方の丸印だ。印のついている馬とついていない馬がいる。そのなかで、丸印の上に取り消し線を引かれている馬がいた。

「これ、なんで消してんの?」

「三歳のオス馬だけチェックしようとしたんだけど、まちがえた。これ、メス馬なんだ」

 えー、としのぶは声を上げた。

「メスじゃだめなの?」

「べつにだめじゃないんだけど、これには理由があってな……」

「じゃ、わたし、この馬応援する」

 そういうわけで指さしたのは、そのナギノシーグラスという牝馬だった。

 男女で分かれていることが多い人間のスポーツでは、あまりこういうことがないけれど、しのぶとしては、オスもメスも一緒に走るというなら、女の子のほうを応援したいような気持ちになった。

 説明をさえぎられた父は苦笑した。

「じゃ、ってなんだよ。まあいいや、しのぶがそう言うなら、とりあえず、単複百円ずつだけ買ってみるかな……」

 タンプク百円、の意味はよくわからないが、しのぶが言った馬に賭けてみるらしいということはわかる。いいの? と聞くと。

「遊び遊び。ビギナーズラックっていって、詳しくないやつが良いって言った馬が来ること、わりとあるから」

 それが父の言い分だった。

 確かに、競馬が好きなわけでもない母が、気まぐれに父と一緒に競馬中継を観ていて、「あの馬、いいね」なんて言うことがある。そんな馬が何度か勝ったり惜敗したりして、当たった当たったと騒いでいる父の姿を見たこともあった。

 ほんの少し、好奇心がわいた。息抜きにはちょうどいいかも、なんて思ってしまった。

「ちょっと観てみようかな。何時から?」

「十四時十五分発走。もうすぐ、地方テレビの中継で見られるんだ」

 オッケー、とうなずいて、しのぶは、もう一度競馬新聞をのぞきこんだ。

 出走馬は全部で十二頭、そのうち、父が印をつけている三歳馬は四頭だ。二番リングジュピター、五番ナギノシーグラス、七番ヤマオロシ、十一番イクオリン。

 馬たちを名前で覚えようとすると、こんがらがりそうだった。しのぶは顔をしかめた。

「……番号でいいや」

 二、五、七、十一と口の中でつぶやいて、しのぶは父の隣、テレビの前に座ると、クッションの上であぐらをかいた。

 まもなく、競馬中継がはじまった。

 といってもいきなりレース映像には入らない。お笑い芸人やアナウンサーがああだこうだと話しているシーンをしのぶは理解する気はなく、父に話しかけた。

「今日のレース、けっこう大きいやつ?」

「いや、そうでもないよ」

「大きいレースだけ見るって、いつも言ってるのに」

「そうなんだけど、ここでいい勝負した三歳馬、次のGⅠに出てくるかもしれないんだ。どんな勝ち方するかとか、どれくらい強いかとか、そういうの見ておくと、次のレースで賭けるときに参考になるよ」

 なるほどー、としのぶは相槌をうった。その理屈はわかる。

「おとうさんは、どれが一番勝ちそうって思ってる?」

「そうだな。この中なら、リングジュピター」

 新聞の二番の馬名をとんとんとたたいて、父は答えた。

「競馬場っていろんなところにあって、人間の陸上みたいに短距離、長距離、あるんだよ。今回のこれ、関西の阪神競馬場で、二四〇〇メートルのレースなんだけど……」

「それって長距離? 短距離?」

「どっちかというと長めかな。で、このリングジュピターはな、今年の三月くらいに、今日のレースと同じ阪神二四〇〇のレースを勝ってる。つまり、このコースと相性がいい可能性が高いってことだ。その次に、青葉賞っていう少し大きいレースに出て、負けはしたけど、強いライバルもいる中での四着で、まあ今のところボロ負けはしたことがない、と」

「弱くはないってことかー」

「そういうこと。ヤマオロシは三着や四着ばかりで、惜しいような微妙な結果続きだけど、大きいレース経験してないし、イクオリンは十着とか十二着とかが続いてるし、あんまり信用できないかも……」

 父は、しのぶにも少しは理解できる部分を選んで、説明してくれているようだった。ふんふんうなずきながら、しのぶはじゃあ、とさらに質問した。

「ナギノシーグラスは?」

「ナギノシーグラスかあ……」

 新聞を見てからちょっと首をかしげ、父はスマホを手にとり、何やら馬のことを調べだした。

「この時期のメス馬にしちゃ、長い距離のレース経験が多いな……。先月なんか、二六〇〇メートルのレースで勝ってるんだ。スタミナはありそうだな」

「じゃあ、二四〇〇メートルなんて余裕じゃん」

「甘い甘い、競馬はそう単純じゃない。もしかしたら、二四〇〇メートル以下の距離は苦手なのかもしれないぞ。……他にも血統だとか体型だとか、いろいろあるが、まだしのぶには難しいなあ」

 ばかにされたような気がして、しのぶが口をとがらせると、父は笑って、少しだけ説明を加えてくれた。

「競馬に絶対はない、ともいうんだ。人間でいうと、リングジュピターは天才型で、ヤマオロシとナギノシーグラスあたりは努力型、って印象」

 努力型、なんて聞くと、ますますあとの二頭のほうを応援したい気になってきた。

 苦手な漢字相手に四苦八苦したばかりの今だと、よけいに。

「絶対はないっていうなら、ナギノシーグラスが勝つかもしれないよね」

「可能性はどの馬にもあるよ。しかし、二着三着が続いたかと思えば八着や五着になったり、そこから長めのレースを勝ったり、安定してるんだかしてないんだか、よくわからん牝馬だなあ……」

 後半はぶつぶつと、独り言のように楽しげに語った父は、ま、と話を区切りに入った。

「ここは素直にリングジュピターでいいんじゃないかな!」

 そうして父がテレビに目をやるのに続いて、同じように目線を動かすと、スタジオの場面が切り替わって、馬たちがおさまったゲートが映しだされたところだった。

「兵庫特別」と書かれたテロップが現れて、消える。そしてゲートが開き、馬たちが横一直線に走りだした。

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