第5話 500万下②
四月に入り、優衣は大学二回生になった。春休みが開けてまもなくの日曜日、またナギノシーグラスが阪神競馬場にやってくると聞いた優衣はついに、ナギノシーグラスの出走に合わせて競馬場に行くことにした。
「奇特なやつやな、同じ日にアーリントンカップもあるのに、未勝利戦目当てで競馬場行くなんて」
出がけに孝道にそう言われて、優衣は顔をしかめてみせた。
「ええの。どうせまだしばらく馬券も買えないし、競馬自体にそこまではまってるわけやないし。わたしはナギノシーグラスが好きやから」
そう言うと、孝道はふとまじめな口調になってこう言った。
「未勝利馬にあんまり入れこみすぎたら、勝ち上がらへんかったときにへこむで」
「なんで」
「ナギノシーグラスが勝ち上がらへんかったら教えたるわ」
じゃあ、行ってらっしゃい、と兄に玄関から押し出されて、優衣はしかたなくそのまま出かけた。食い下がりたかったが、電車の時間がせまっていたのだ。
だが、兄の言葉は杞憂に終わった。その日のレースで、優衣の目の前で、ナギノシーグラスは勝利した。
(これだ。やっと、撮れた……!)
レース直後でざわつくゴール付近にて、満足感で、優衣は小さく身をふるわせた。優衣がシャッターを切った瞬間は、ナギノシーグラスが、堂々と先頭でゴール板を通過したところだった。
「いや、例の馬、今日で勝ってよかったな」
帰宅してすぐそんな言葉をかけてきた兄に、優衣はこう尋ねた。
「勝ち上がらなかったらへこむ、ってどういうことやったん?」
「競馬、続けてたらわかる。ひとまず、ナギノシーグラスはしばらく安泰やと思うから、もうちょっと安心して応援してたらいいわ」
「なんやの、それ」
問いただそうとしたが、エントリーシートを書くから、などと言ってはぐらかして、兄は部屋に引っこんでしまった。
そのわずか二週間後、ナギノシーグラスは京都競馬場のほうにまた出てきていたようだが、学業の課題や写真部の新歓が重なって、さすがに現地まで行くことはできなかった。ただ、インターネットを通して、八着という結果だったこと、しばらく休養に入ることだけを知った。
それから三ヶ月、優衣がナギノシーグラスの情報を知ることはなかった。競馬場にも一、二度足を運んだが、いつか真奈美と話したとおりになって、注目する馬がいるときほどは熱が入らなかった。
その期間のうちに競馬サイトを見ることも覚えて、レース情報やナギノシーグラスの近況について自分で調べるようになっていった。
やっとナギノシーグラスの次走情報が出てきたのは、七月に入ってからだったが、今度は新潟で、とうぜん写真を撮りにいくことなどできない。いつかの中京のときと同じように、インターネットで結果だけを確かめて終わった。五着だった。
その翌月の週末、ナギノシーグラスが小倉の条件戦に出走することを教えてくれたのは、またしても兄のほうからだった。
「ナギノシーグラス、今度は二六〇〇メートルに出るってさ」
「小倉……九州かあ。あとで結果だけ見よ……」
そう言って自室に引っ込もうとした優衣に、孝道は、まあ待て、と声をかけた。
「就活が終わった記念に、未勝利戦もレース観戦できるように契約したんや。観るか?」
「え、ナギノシーグラスのレースも観られるの?」
「観られる」
「じゃあ、観る」
そういうわけで、九月最初の日曜日の夕方に、兄妹二人して、リビングのテレビで競馬中継を観ることになった。
十四頭立てのレースで、ナギノシーグラスの馬番は五番、向こう正面のゲート入りの様子を見ながら、孝道は、ええ枠や、とだけ呟いた。
レースがスタートしてから、優衣は異変に気づき、兄に話しかけた。
「ナギノシーグラス、ちょっといつもとちがう……」
「え?」
「いつもは、最初からもっと前のほうにおるねん」
スタート直後のナギノシーグラスの位置といえば、いつも前から二、三番目前後だ。だが今日は、逃げ馬から数えて七番手くらいの位置を、内ラチ沿いに駆けている。馬群全体で見ると、真ん中あたりだった。
ねえ大丈夫かな、と兄に問いかけると、さあ、と首をかしげられてしまった。
「出遅れたんか、何か調子が悪いんか……」
「大丈夫なん、それ」
「それか、作戦か」
「作戦?」
「最後の直線で、末脚に賭けるつもりか。追い込みというには、位置取りが前すぎると思うけど」
つまり、今までのレースでほとんど先行するばかりだったナギノシーグラスが、あえて、中段でのレース運びを試してみようとしているのかもしれない、ということだ。それくらいは、優衣にもわかるようになってきている。
そういえば、と優衣は自分の携帯電話を取りだし、直前まで見ていたナギノシーグラスの情報を確認した。
「今日、騎手が変わってるみたいや。しばらくは藤木騎手が乗ってたけど、今回は小久保騎手。関係あるかな」
「それはあるかもな」
出遅れや不調のせいとは限らないとわかって少し安心したのと、その挑戦の結果が楽しみでもあって、優衣は再びレースに集中した。
一番後ろの馬が遅れぎみなこともあり、ずいぶん縦長の展開となっていて、先頭から最後尾までは二十馬身くらいの差がある。
スタート後に決まった隊列は、ときおり先頭が入れかわる以外は大きく変化しないまま、馬たちは最初の一周を終えた。スタートだった位置を通過するあたりで、後方の馬たちが前との距離を詰めはじめる。
ナギノシーグラスのいる中段の馬たちはその時点では我慢している様子で、ほとんど一斉に仕掛けはじめたのは、直線に向かうコーナーにさしかかったあたりだった。
ナギノシーグラスも、コーナーを回りながら少しずつ位置を上げていく。手ごたえは悪くない様子で、優衣は胸をなでおろした。
「伸びそうやん」
兄の言葉どおり、ナギノシーグラスは直線に入ってからじわじわと加速していった。
直線序盤で抜け出し、先頭に立ったナギノシーグラスは勢いを崩さない。追ってくるのは馬群を割って抜けだした一頭、外を回った一頭、その二頭以外はどんどんひき離されていく。
追い込み、と呼べるほどの派手な末脚ではない。瞬発力があるタイプではない。だが、ナギノシーグラスはじわじわと加速しているし、この馬がこんな伸び方をするのを初めて見たと優衣は思った。
今まで見てきたナギノシーグラスは、伸びあぐねるということもなかったが終盤は加速するというわけでもなく、前目の位置から早めに仕掛けて、あとは体力にまかせて力尽きる他馬を競り落とし、追いこんできた馬をもねじふせるか、差されて惜敗するかのどちらかだった。
今回は、着実に伸びている。この挑戦は成功だったのだろう。
外を回った一頭も追いすがってはいるが、どうやら届きそうにない。一方、馬群を割った一頭はナギノシーグラスが持たない瞬発力を発揮していて、一完歩ごとにせまっている。
優衣は小さな画面を見ながら、ああ、ああ、と声にならない声を上げた。孝道が横で笑い声を上げたが、気にならなかった。
「がんばれ……がんばれ……!」
小久保騎手がナギノシーグラスの首を押す。追いこんできた一頭がすぐ横まで並びかける。
最後は首の上げ下げだった。
ナギノシーグラスは、相手をハナ差振りきって勝利した。
ナギノシーグラスが小倉で勝利をおさめた次の日、休講でできた時間を利用して、優衣は久しぶりに真奈美と動物園に来ていた。
「……それで、こないだ一緒に応援してた馬、勝ってん。二勝目。うちの兄貴も、これからちょっと楽しみかもなって」
「良かったやん」
真奈美とそんな話をしながら、優衣はトラの檻の前まで来ていた。
檻の中で落ち着きなく歩き回るトラにカメラを向ける。カメラの設定と立ち位置を調節して、ここだ、と思ったところでシャッターを切った。
「お」
撮れた写真を再生してみて、優衣は声を上げた。
優衣のシャッターのひと押しは、トラの顔がこちらを凝視するさまと、全身の筋肉のしなやかさや四肢のたくましさがよくわかる一瞬を切りとっていた。
「うまいうまい」
横から覗きこんだ真奈美が褒めてきて、優衣はふふ、と笑った。
「競馬場で馬を撮ってると、他の動物も撮りやすくなる気がする」
「そうなん?」
「レース中の競走馬、動きが速いから。あっちに慣れると、ゆったり動いてる生き物、すごい撮りやすい」
「普段自分じゃ行かないようなところ、撮りに行くのもええんやな……」
ちょっと感心してから、じゃあ、と真奈美はぽんと手を打った。
「次はどっかのサファリパーク行こう、サファリパーク。わたしもよく動く動物、撮りに行きたい」
「ええなあ。……よく動くといえば、奈良公園の鹿もええんちゃう?」
「あそこの鹿はよく動くというか、カメラマン襲いにくるから……」
やり取りしながら、二人はくすくす笑った。
トラの写真を何枚か撮って、次の動物のところへ移動をはじめながら、真奈美が口を開く。
「わたしも、もう一回競馬場行こうかな。いつもと違うこと、したい。よかったらまた連れてって」
そう言う真奈美に、優衣はうん、とうなずいた。
「わたしも、来月二十歳やから、最初の馬券はナギノシーグラスの買おうと思ってて。そのとき行こう」
「もう、めっちゃファンやん」
「そやねん」
真奈美の言葉を、優衣はすなおに肯定した。