第1話 2歳新馬①
梅雨もようの日曜日、阪神競馬場のパドックで、レーシングプログラムの片隅になつかしい馬名を見つけた。
新馬戦、牝馬限定、芝一六〇〇メートル。走るのは、これがデビュー戦となる二歳馬たちだ。十二頭立てのそのレースの大外枠に、その馬名は一頭の出走馬の父名として、小さく小さくきざまれている。
卓也は、おっ、と思ってその部分に目を近づけた。ナギノポセイドンという馬は、十年ほど前、春の天皇賞を勝った馬だ。
この種牡馬のこどもたちは、ダートでぽつぽつと勝ち上がる傾向があって、芝のレースで見かけるのは珍しい。戦績の目立つ活躍馬を出しているわけでもなく、産駒数も年々減っていて、競馬好きのあいだでもマイナーだの渋いだの、そんなふうに評価されている。そんな種牡馬の名前が目についてしまうのは、卓也の父が大のファンだからだ。
(おやじのやつ、ナギノポセイドン産駒の出るレースはこまめにチェックしてたけど、新馬戦までは見てたっけ……)
連絡してやろうかと思いかけたが、それくらいの関心があれば自分で調べてるだろう、と自分に言い聞かせて、やめた。
卓也は大学生だった去年まで、友達連中と府中や中山へしょっちゅう行っていたが、阪神競馬場は初めてだった。
今年、卓也は就職を期に大阪に出てきた。
一人暮らしをしてみたかったから、地元を離れることを自分から希望した。今の生活に不満はないが、関西圏には知り合いがほとんどいない。新しい環境にも少し慣れてきて、心身にも金銭面にも少し余裕が出てきた最近、休日をもてあますようになった。
大きなレースもなく、天候も悪いこんな日にわざわざ競馬場に来てしまったのは、じめじめした一日、ひとり閉じこもって過ごすことに耐えられなくなったからだ。
一人暮らしをはじめて二ヶ月。家族からはときおり連絡が来るが、心配されればされるほど、なんとなく意地を張ってしまって、今のところ、自分から連絡を入れることは一度もしていない。ゴールデンウィークも帰らなかった。
そんなことに意味がないことも頭ではわかっていたが、慣れ親しんだ地元から離れた場所で、一人でもやっていけることを示したかった。
卓也が初めて競馬場に足を踏みいれたのは、まだ中学生だったときのことだ。秋の東京競馬場、ジャパンカップの開催日だった。
「おい、タク、今日は九番のナギノポセイドンっていう馬が来るぞ」
隣に立つ父がちらつかせた馬券には「がんばれ!」と「各五千円」の文字がきざまれている。単勝、複勝、合わせて一万円。
「買いすぎだろ。母さんにばれたら怒られるよ」
「内緒だぞ。小遣いからだから大目に見てくれよ」
満員電車のような人だかりの中で、卓也は背伸びしながら正面の電光掲示板と、周回する馬たちを見ようとしていた。黒くうごめく人の頭のあいだから、父が勝つといった馬の人気が見えて、卓也は顔をしかめた。
「十番人気じゃん」
「しばらく勝ってないからな。でも、惜しいレースは何回かあるんだよ。そろそろ勝つぞ。みんな見る目がない」
「そうか? どう考えても今日はダービー勝ったやつだろ」
わかったような口をきいたものの、当時の卓也は競馬に詳しいわけではなかった。ただ、菊花賞を回避してジャパンカップを選択したそのフロムザサミットというダービー馬が、今日の最有力馬ということは知っていた。
その春、なにげなくテレビで観ていたダービーが意外におもしろくて、父にそう話すと、こんど競馬場に連れて行ってやろうと言われた。それで今日、好きな馬を見に行くという父に興味本位でついていくことにしたのだ。他の馬のことはよく知らないし、卓也はフロムザサミットをひいきにするつもりでいた。
見渡す限りの人だかりで、肝心の馬がなかなか目に入らず、少々飽きはじめていた卓也に、父はナギノポセイドンという四歳馬がどんな馬かをぼそぼそと語っていた。
「……ナギノポセイドンは勝ち上がりが遅くてな。最初はダートを走ってて、勝てないから芝に転向したら結果が出てきたパターンなんだよ」
「ふうん……」
「三歳秋に兵庫特別ってレースを勝って、菊花賞に出てみたら、全然期待されてないなかで三着に激走! いやあ、あのときは、あいつのおかげで儲けた儲けた……」
父の話に、卓也が大雑把に相槌をうっていると、前にいたおじさんがその場を抜けていって、少しのあいだ視界がひらけた。ちょうど九番のゼッケンをつけた馬が、電光掲示板の真下を歩いていくところだった。
大柄な青鹿毛のその馬にたいして、卓也は、強そうというよりも重たそうという印象を抱いた。やけに首を低くしたまま歩く馬だった。
他の馬ももっと見てみたかったが、すぐに前の空いた場所に、別の背の高い男の人が入りこんできて、またパドックがよく見えなくなってしまった。物足りない思いを抱いたまま、父がうながすのに従って、卓也もパドックの人垣を抜け出したのだった。
父名に気をとられて、かんじんのその出走馬の名前を見落としそうになっていた。卓也は閉じかけたレーシングプログラムをもう一度開いた。
ナギノポセイドン産駒のその二歳牝馬の名は、ナギノシーグラスというらしい。
(同じ馬主か)
ナギノ、はある馬主の所有馬であることを示す冠名だ。この冠名を持つ馬たちの馬主は、造船にかかわる企業の社長だという。馬主のこだわりらしく、どの所有馬も海にちなんだ命名がなされている。ナギノの冠名を持つ馬は毎年数頭デビューしているが、ナギノポセイドン以来、中央競馬の重賞で見かけることはほとんどない。
そんなことを思い出しながらパドックに目をやったとき、やっと馬たちがパドックに入ってきた。
一番人気は、兄や姉が堅実に勝ち上がっている優秀な血統の馬で、デビュー前から注目を集めていた一頭だった。
この新馬戦の目玉といえばそのくらいで、今日はGⅠどころか重賞もないから、新馬戦のパドックはまだ人少なだ。卓也はゆったりした気持ちでスマホのカメラを起動し、かまえた。
阪神競馬場のパドックは、柵の高さのために、馬の姿が少し撮りにくい。一番人気馬、金色の尾とたてがみが美しい尾花栗毛馬、それから、一番最後に出てきた例の十二番の馬の写真を一枚ずつ撮ってから、卓也はスマホをポケットにおさめた。
改めて、肉眼で馬たちをじっくりと見る。曇り空の下でも、若駒たちの毛並みはつややかだった。競走馬という生き物は、シルエットだけでも美しいのだ。
そんななかでも、ナギノシーグラスはなんとも地味な馬だった。二歳牝馬にしては少し大柄に映るが、それ以外はどこといって特徴のない鹿毛一色で、額の星も小さく、見た目に目立つところがない。
ぱっとしないな。そう思ったとき、パドックに入ってきてからずっと首を高くして、あっちを見たりこっちを見たりしていたその馬が、ふいに首を下げた。
卓也はちょっと目を見開いた。あのとき見た青鹿毛馬と同じ、首を低くして歩く、どこか重たそうな姿勢だった。
あの金髪派手やな、とささやく声が聞こえる。あの芦毛かわいい、とはしゃぐ声が聞こえる。どの馬の尻がいい、いやあの馬の顔にやる気がある、などと、議論の声も聞こえた。
十二番を話題にする声は、今のところ聞きとれない。この場にいる人間たちのほとんどが、ナギノシーグラスという鹿毛馬のことなど見ていないように思えた。電光掲示板を見ると、実際、最低人気だった。
どうにもナギノシーグラスが勝つところを想像できなかったが、なんだか応援してやりたい気持ちになってきた。
(まあ、いいか……)
今日、競馬場に来たのは気晴らしのためだ。まじめに予想するつもりはもともとなかったし、応援馬券の一枚でも買って、のんびり楽しもうと思った。
朝のうちに降った雨で、地面は柔らかくなっている様子だった。電光掲示板は馬場状態を稍重と示している。卓也は、ダート向きの種牡馬を父に持つ馬なら、多少走りやすいのではないか、などと思った。
卓也は、その馬が歩く姿をもう一枚だけ撮って、パドックを後にした。
今から思えば、あの日のジャパンカップは、ずいぶん出走馬の顔ぶれが豪華だった。ダービー馬だけではなく、前年の菊花賞馬、秋の天皇賞の一、二着馬、秋華賞馬……。海外の名騎手を鞍上に臨む外国馬もいた。
単勝人気がなかったナギノポセイドンさえ、前年の菊花賞や、その年の春の天皇賞で三着に食いこんだ実績があったし、四歳になってからは日経新春杯とアルゼンチン共和国杯と、二つの重賞を勝っていた。それでも実績馬があれだけそろえば、GⅠで勝ちきれないイメージがついていたぶん、人気が下がってしまうのも無理はなかった。
もっとパドックを見ていたかったが、父は急ぎ足にパドックに背を向けて、競馬場に不慣れな卓也はついていくしかなかった。レースまでまだ時間があるように思えたが、他の観客もちらほら同じ方向へ向かいはじめていた。すでに全力で走っているおじさんもいて、卓也は、おまえが走るのかよ……と、こっそり呆れ顔をした。
だが、コースの前まで行ってみて、中学生の卓也はぎょっとしたものだ。柵の最前にはすでに人がつめかけていた。そのほとんどは手に手に巨大な銃のようなカメラを抱えている。それでも、慣れた様子で人ごみをぬう父について進むうちに、なんとか顔を出せる場所に行きついた。
「馬を見に来たんだか、人を見に来たんだか」
「まあそう言うなって。ほら、ギリギリ見えるだろ」
「見えるけどさあ」
それでも、背が低いわけでもない卓也が背伸びをしなければいけないほど、人が多かった。
ざわついてはいるが、人の多さのわりにはあたりが静かなことに、卓也は気づいた。みんな、無意識のうちに息をひそめて待っているのだ。
そのとき、父とあたりの人々が、前のほうを見ようといっせいにうごめきはじめた。
まっ白な芦毛馬が先導するのに続いて、出走馬たちが騎手を乗せて、地下馬道から上がってくるところだった。
入場曲が鳴り響いて、歓声が上がり、拍手がわいた。
人と人のあいだからでも、狭い視界でも、その光景はちゃんと見えた。秋の陽を浴びて毛並みを光らせ、馬たちが次々と入ってくる。はやるように足踏みし、誘導馬を追い越して駆けだす馬もいた。最初に駆けだした一頭につられるように、二頭、三頭、走りだす。何頭かが通り過ぎたあとに、柵のすぐ近くを、あの九番ゼッケンの馬が走り去っていった。
それはただ一瞬の光景だったが、卓也の脳裏にくっきりと焼きついた。
パドックでの重たそうな姿とはうって変わって、蹄音を堂々と響かせて、青光りする馬体が突風のように駆けていく。離れているはずなのに、人垣に阻まれたその先なのに、間近にせまってくるように見えた。
「九番、でかくてかっこいいじゃん」
「そうだろ」
卓也が思わずつぶやくと、父は自分が褒められたかのように、嬉しそうに応じたものだ。
「でも勝つのはフロムザサミットだと思う」
「なんだと。おまえはわかってないけど、競馬ってのはなあ……」
また話が長くなりそうだった。
しめり気をおびた重苦しい空気をきりさいて、入場曲が響きわたる。
コース前にやってきた卓也は、ゴール前の長い直線の、ちょうど真ん中のあたりに立っていた。
阪神競馬場は空が広いと思った。ターフの向こう、遠くの山々や建物がすっきりと見渡せる。自然に遠くに目がいってしまうような、そんな空だった。晴れた日にまた来たいな、と思った。
悠々と歩く青毛と芦毛の誘導馬を、緊張ぎみのぎこちない動きで、スキップするように追い越していく馬がいる。柵のそばを通り過ぎるその馬の姿を、最前に陣取っているカメラ勢の視線が熱く追った。
卓也はというと、その馬にはさほど惹かれなかった。新馬戦という舞台で、生まれて初めて勝負の世界に挑む若い馬たちだからしょうがないが、落ち着きのない馬はあまり好みではない。
そんななかでも、颯爽と駆けだす馬もいる。蹄鉄が地をうつ音が快い。
卓也はズボンのポケットに手をつっこんで、最後の馬を待った。ポケットの中で、「がんばれ!」と印字された馬券がかさつく。
「十二番、ナギノシーグラス、ナギノポセイドン産駒です。四七二キロ、徳増騎手、五四キロ……」
実況の紹介と同時に最後に走りだした十二番ゼッケンの馬を、視界にとらえていられたのは一瞬だった。ナギノシーグラスは、あの日の父とは違って、観客から離れたところを一直線に駆け抜けていった。
やはり、あざやかに印象に残るタイプの馬ではない。見た目に個性的な特徴があるわけでもなく、やんちゃな面を見せるでもなく、ただ淡々と走っていく。
卓也は、そのありふれた姿に親しみをおぼえた。
そうこうしているうちに、出走馬は全頭向こう側の待機所のほうへ行ってしまった。躍動する馬たちの後ろ姿を、卓也は目を細めて見送った。
発走まで、あと少し。