震える狗
「シェーナ、群れがこちらに移動してる。追ってるのも追われてるのも群れみたいだね。あれは……何だろ」
いや、知らんがな。
土漠群狼を追い立てるような生き物なんて、あたしの知識にはない。想像もできないし、したくない。いまは帝国軍を待ち受けるだけでいっぱいいっぱいなのだ。他の問題を扱う余裕はない。主に頭脳が。
でも、追われてるなら……いや、同じことだ。ウォンウォンいうてるのを聞く限り、攻守双方がこちらの与り知らぬ魔物同士のモンスターバトルだ。忘れよう。
「コボルトよ」
「え?」
声に振り返ると、いつの間にやらドワーフの神使クレオーラが外壁の上に椅子を置き、寛いだ姿勢で腰掛けていた。なんだそれ。その椅子どっから持ってきた。地下だかどこだかの隠れ家か。一人掛けのソファーみたいな、高価そうな椅子。ドワーフ用なのか小さめなので、外壁上の幅でも落ちる心配はないようだ。
「何匹か、喰われそうになってるみたいね」
キャンみたいな悲鳴が聞こえてきたようだけれども、それ以前に訊きたいことがある。
「なあ、クレオーラ。コボルトって、何?」
「あら、知らないの?」
「シェーナは、まだ見てないかも。ぼくも、実物は剥製でしか見たことないかな」
なんだおい、剥製って。ジュニパーがいたっていう研究施設、魔物が剥製にされてるのか。よく無事に脱出できたな。
この子の過去、思ったより闇が深そう。
「コボルトっていうのは、大きさがゴブリンくらいで、二足で立って歩く魔物だよ。顔も手足も、犬に似てる。“人狼の小さいの”、みたいな感じかな。けっこう知能は高くて、魔物か亜人かは意見が別れるみたい」
「人狼も見たことないから、何ともいえんけどな。でも、なんでそいつらが土漠群狼に追われてるんだ?」
「さあ。生存圏が重なってるなら、餌場を奪い合うとか?」
土漠群狼が長距離の移動を行うのは、群れを維持する餌と水場を求めてのものだって聞いた気がする。それが食い合うなら争いも起きるだろ。狼と犬人間じゃあな。
何でか知らんけど少し不満そうな感じのクレオーラが、手にした扇子みたいなもので北東方向を指す。
「ほらシェーナ、あれよ」
「ん?」
城壁まで登ったあたしは、示された方向を見る。夕闇が近付き薄暗くなりかけた土漠のなかで、なんかヒョコヒョコしたものが動いてるのはわかる。双眼鏡で覗くと、ドワーフの住居が建ち並んでいた高台のさらに奥、こちらから見ると死角になった辺りから稜線を超えてきたものが見えた。
「デカッ! なんだあれ、三メートルはあるぞ」
「めーとる?」
「ああ……っと、だいたい十尺だ。土漠群狼って、あんな大きくなんのか」
「あッ、あの、シェーナ、お願い。乗ってくれる? コボルトが、ね?」
早くも水棲馬形態になったジュニパーが、必死の表情で懇願してくる。なんでお前が仔犬みたいな顔してんだ。
「コボルトを、助けるのか?」
「助けを求めてる。右下」
まだ距離は七、八百メートルはある。あたしの視力じゃ見ても状況はわかんないけど、ジュニパーの説明によれば狼に吹っ飛ばされて坂の上から転げ落ちたらしい。双眼鏡を見る時間も惜しい。
この距離からだと、銃は着弾までの時間差で周囲のコボルトに当たる可能性がある。あたしの腕ではそもそも狙えない。
「行って、ふたりとも。巻き込まない範囲の狼は、わたしが仕留めるの」
「ああ、お願い」
ミュニオに援護を頼んでジュニパーに飛び乗ると、彼女はいきなりの全力疾走に入る。こちらの騎乗を頼んだということは、まともにぶつかっても巨大土漠群狼には勝てないということか。たしかに質量でいえば、倍近い差はありそうだけど。
「ぼくの突進だと、ぶつかった後の手数が足りない。向こうは牙と爪あるけど、ぼく後足の蹴り上げだけだし」
ちょうど良いや。自動式散弾銃にはクレオーラと出会ったとき装填した熊用一発弾が八発入ってる。
「シェーナ、上からも来る!」
巨大狼に銃口を向けようとしたところで、稜線の奥から少し小型の――といっても二メートル近い――土漠群狼が飛び出してくるのが見えた。坂を駆け下りようとしたそいつらは、防壁から放たれたミュニオの援護射撃でバタバタと頭を吹き飛ばされて転がる。
こっちはこっちの仕事をするだけだ。斜めにコースを取って可能な限りコボルトを射界から外し、こちらに向きを変えた狼とすれ違う。
ドゴドゴドゴドゴンッ!
四発のスラッグは二発が脇腹に直撃、二発は掠めて耳や尻尾のあたりを喰い千切っていったようだ。追撃は身体を回し切れずに射界から切れた。
速度を殺さないように大きくターンしたジュニパーが再度向かってゆくと、狼はよろめきながら立ち上がろうとする。開いた口からゴボゴボと血を吹き出しながらも、巨大な狼は敵意を剥き出しにして吠えようと首を振った。
「ダメだ! ジュニパー止まれ‼︎」
「ひゃッ⁉︎」
つんのめるようにして急制動を掛けた我らが水棲馬は、振り飛ばされた血飛沫の飛散範囲から逸れて距離を取る。残ったスラッグ弾で眉間を撃ち抜くと、狼は血と脳漿を派手にこぼしながら横倒しに崩れ落ちる。
「シェーナ、どうしたの急に?」
「あの狼の顔、おかしくなかったか」
「うん。怒りに我を忘れたみたいな……」
怒り、だったらいいんだけど。牙を剥き出しにした狼の表情は、以前どこかの動画で見た記憶がある。
「コボルトのとこまで頼む。気になることがあるんだ」
坂を登ってゆくと、中腹に転がったまま動けないコボルトが二体いた。坂の上に蹲っているのが二体。ようやく追いついたのか稜線を越えてきたのが三体だ。全部で七体?
「君たち、これで全部? 取り残された子とか、いない?」
「うん。ありがと」
「これで、ぜんいん」
おうふ、ワンコがしゃべった。
緊張と恐怖で引き攣ってるけど、案外みんな人懐っこそうな顔をしている。身体のサイズは小学校三、四年生くらいか。体格こそゴブリンに近いとはいえ、知能やコミュニケーション能力は人間の小三より高そう。
というわけで、七体っていうより七人といった方が自然な気がする。
「あいつの血、かぶらなかった? あいつらに、かまれたり、血を、あびたなかま、水を、こわがって、くるい死に、した」
「やっぱり」
「シェーナ。気になることって、それ?」
「ああ。たぶん……狂犬病だ」
ジュニパーやコボルトたちに、病名は上手く伝わっていないっぽい。この世界で似たような表現がないのかもしれない。
狂犬病。発症すると嚥下障害を起こすことから、極端に水を嫌がる。それで恐水症とも呼ばれるんじゃなかったか。潜伏期間はあるけど、発症後の致死率は百パーセント。
まずい。負傷者を無理やり抱えてジュニパーの背に乗せ、あたしと無事なコボルトたちは並走して防壁まで戻る。
「みんな、このなかに土漠群狼に噛まれたやつはいるか! 他の犬や、コウモリなんかにもだ!」
盗賊難民団とドワーフの爺さんたちにも尋ねるが、幸か不幸か傷を負ったのはコボルトのふたりだけだ。
それを知った当人たちはホッと息を吐き、静かに頷いて壁を乗り越え始める。
「おい待て」
「いそがないと。ここ出て、とおく、行く。ここには、もどってこないから、おねがい」
「待てって!」
引き止めようとしたあたしの手を、ワンコがそっと押さえる。こちらの肌に触れないように、肉球みたいな掌で服の上から優しく。
「かまれて、助かった、なかま、いない。みんな、くるい死に、した」
「そう。ここ、オアシスある。きっと、あばれて、めいわく、かける」
「ふざけんな」
あたしが睨み付けると、コボルトふたりは怪訝そうな顔で首を傾げる。紅く光っているであろうあたしの目を見ても、彼らは恐れなどしない。怯むこともない。
もう覚悟を決めたから。どこか遠くで静かに死ぬんだって。
「あたしが、あたしたちが助けたんだ。もう、お前らは、あたしたちのお仲間だ。誰が無駄死になんてさせるか」
「でも」
「でもじゃねえ! ちょっと待ってろ。いいか、絶対そこ動くなよ!」
見えない位置に――行く必要はないんだけど、なんとなく彼らのいるなかでサイモン爺さんと顔を合わせたくなくて――あたしは防壁の陰まで走って“市場”を呼び出す。待っている間に懐の収納にあった金貨銀貨を引っ掻き回し、現れた演台の上に全部を放り出した。
「爺さん、サイモン爺さん!」
金貨が五、六枚に銀貨が三十枚くらい。ドルで……わからん。いまは頭が回らない。胸の奥が、グルグルいってる。まだ名前も知らない、仲間というには程遠い奴らなのに。単なる気の迷いか、心が弱っているのか。いまのあたしには、身内の死が受け入れらない。
ひょいと顔を出したサイモン爺さんは、あたしの表情を見てサッと真剣な目付きになった。
「どうした、そんなに慌てて?」
「爺さん、頼みがある。なあ、狂犬病のワクチン、ふたり分を手に入れてくれないか。カネは、それで足りなかったら、後で必ず出す。なあ、急いでくれ、も、もう噛まれてるんだ」
「シェーナ、落ち着け。大丈夫だ、すぐ持ってくる。このまま待て。いいな?」
「あ……ああ、わかった」
サイモン爺さんは見えない場所に消えて、数分後には小走りで戻ってきた。手には薬剤の小箱と医療用手袋、個包装された使い捨て注射器の束を載せたトレイを持っている。演台の下からクーラーボックスみたいなものを出して、一式をそこに詰めた。これは気休め程度だろうが、とかいいながらいくつか保冷剤を入れてくれる。
「そっちは、もうすぐ暗くなりそうだな。これも持っていくと良い」
電池式のLEDランタンと予備電池、警棒みたいな黒くて大きい“マグライト”っていう懐中電灯を何本か渡してきた。やっぱり、ずいぶん気が利くな。
いくぶん落ち着きを取り戻したあたしは、爺さんがお抱え医師から教わったという、投薬の手順と容量と注意点を聞く。今度ばかりは真剣に聞いて、爺さん手書きのメモももらう。
やること自体は、思ったほど難しくはない。大変なのは時間と手間と衛生管理、そして薬剤の保管くらいだ。
「あ、ありがとう爺さん。医薬品の横流しは、いろいろ大変なんだろ。いずれ礼はする」
「これも商売だ。対価はもらった。その先は、顧客が気にすることじゃない。シェーナ」
「ん?」
「君たちに幸運を」
時間が動き出してすぐ、コボルトたちのところに戻ってふたりから受傷時の状況を聞いた。傷は洗う水がなかったので舐めただけ。噛まれたときから、まだ半日ほどだという。
「それ、舐めたの本人だけか。他の奴は、やってないだろうな。怒らないから、正直にいえ」
「自分で。なめた」
「ぼくも」
「良し。じゃあ、そこ座れ」
「?」
夜の帳が下りるなか、あたしは木箱の上にLEDランタンを灯して治療に入る。
手に入れた狂犬病ワクチンの箱には、“ヒューマン”って書いてある。そこは無視するにしても、体重換算で調整が要るのかも。
「なあ、お前ら自分の体重わかるか」
「たい、じゅう?」
そうだよな。この世界で、しかもコボルトが生きるのに必要な情報じゃない。試しに後ろから抱え上げてみると、百五十センチそこそこなのに、筋肉量が多いのか案外重い。あたしと体重はそう変わらない気がした。
ジュニパーとミュニオにも確認したが、成人の標準量で大丈夫だろうと判断した。もちろん、素人判断でしかないが。
「傷を洗う。少し痛いぞ」
ミネラルウォーターで、できる限り患部を洗う。サイモン爺さんが抗菌・抗原虫剤も付けてくれたので、洗浄後に傷の周囲に振り撒く。患者ふたりは滲みるのか怖いのか唸り声を上げるが、頑張って我慢してくれた。狂犬病ウィルス自体は、外気に晒された状態ではそう強いものではないと聞いた。血液に入り込んだときが厄介なだけ。ここからが本番だ。
「ミュニオとジュニパー、こいつらを押さえてろ」
羽交い締めで押さえられたふたりは、キューンと情けない声で鳴く。死を覚悟したのに注射は怖いのか。まあ、怖いよな。注射針なんて初めて見るならなおさらだ。
「大丈夫だ、この薬を打てば、病気の元を倒せる。お前らは死なずに済む」
「……ホントに?」
「ああ。あたしを信じろ」
小さな紙箱から出した狂犬病ワクチンの薬剤は、ヤクルトよりひと回りほど小さいガラスの小瓶に入っていた。蓋の上がゴムになってて、注射器の針を直接刺し込むタイプだ。暗くて見えにくいので苦労しながら注射器に定量の薬剤を入れ、上向きにプランジャーを押しシリンジの空気を抜く。
自分がされるのも嫌なのに、まさか他人にする羽目になるとはな。異世界とはいえ立派な不正医療行為。医師法違反だな。まったく、笑える。笑ってる場合じゃないけど。
「今日の一回だけじゃ、完治はしないからな。三日後、七日後、十四日後、二十八日後だ。もしものときのために、お前らも見て覚えてろ」
万一あたしが死ぬか動けなくなった事態に備えて、コボルトのリーダーと最年長者、エルフのリーダーであるマナフルさんと赤毛のヘンケル、ついでにクレオーラにも、薬の使い方と注射の手順を覚え込ませる。
クーラーボックスは懐収納に入れておくけど、死にそうなときには放り出して誰かに託そう。
「ふッ、ひッ、ふッ……」
ラマーズ法じゃねえんだから、その変な呼吸やめろ。プルプル震えているコボルトに皮下注射を済ませて、緊張で硬直したままのふたりを解放する。
「よし、もういいぞ」
「「ほんとに?」」
「おう。次は三日後な」
ションボリと尻尾を垂らしながらも、ふたりは泣き笑いの表情で頭を下げてきた。




