エピローグ:グッダイ・トゥダイ
おまけ!
日の出前の海辺に、波の音だけが響いていた。
政府管理のプライベートビーチということもあって、昼間でも訪れる者はいない。砂浜を歩きながら物思いに耽っていた俺は、妙な気配に気付いて足を止める。
道路沿いに目をやると、ロックしてあったはずの出入り口フェンスが開いていた。乗り入れられたニッサンのSUVは妙に真新しい。レンタカーだろう。ということは島外から来た人間だ。おそらく国外から。
「サー・サイモン・メドヴェージェフ」
近くの木陰から出てくる者がいた。
聞き覚えのある声を無視して通り過ぎようとするが、相手は見逃すはずもない。前と後ろからも、砂を踏む音が聞こえてくる。
身構えかけて、やめた。生憎、もう武器を隠し持つ習慣はなくしていた。戦う体力は落ち、生きる気力も萎えた。アメリカ政府による保護は、一年前に解除してもらっている。護衛と執事には、明日まで休暇を出していた。
その隙に、易々と踏み込まれたわけだ。油断したな。
「メリークリスマス、ミズ・ボンド」
かつて案山子のようだった女は、変わり果てた姿になっていた。
兵士のように刈り上げられた短髪と、片目を隠す黒い眼帯。残った片眼には、憎しみと狂気が宿っている。体重も優に約二十二キロは増えて、まるで三流映画に出てくる悪役だ。
「わたしが、サンタクロースだとでも思うのか」
砂を踏みしめながら近付いてくる女の手には、黒い革製の殴打用砂袋。スウェットシャツの肩と腕は、筋肉ではち切れそうなほど盛り上がっている。右の腰にある膨らみは、拳銃か。
「ああ。わたしは良い子にしていたからな」
「はッ!」
嘲笑とともに振り抜かれた軌跡を躱す。二撃目も逃れかけたが、直後の追撃に捕まった。鋭い蹴りが脇腹に突き刺さって息が詰まり、惨めに砂を噛む羽目になる。
「ぐぅッ!」
うずくまる腹を蹴り上げられ、さらに転がった。呻き身悶えながら砂浜の先に視線を向ける。包囲している方は男がふたり。ハワイアンシャツにショートパンツで観光客を演じているようだが、警戒を怠らない立ち方に背筋の伸びた姿勢。どう見ても元軍人……あるいは現役の軍人だ。
身体を傾けた姿勢と不自然なシャツのはだけ方からして、ベルトの内側にハンドガンを隠し持っている。
「あれから、五年」
女は独り言を呟いて、倒れていた俺の顔面をブラックジャックで殴りつける。何度も、何度も。
「みんな失った。片目も、職も、国も、未来も。すべて、お前のせいでな!」
血と歯が飛び散るのを感じたが、失神するには弱い。すぐに殺さないよう手加減しているのか、恨みは相当に深いようだ。
転がりながら伸ばした手が、砂のなかで硬いものに触れる。
「なんとか言え、テロリストが」
グッタリした姿勢のまま指先で静かに探ると、錆びてボロボロのキーだった。誰かが落としたんだろう。おそらく、何年か前に。
「……ひとつ、……訊くが、ね」
「あ?」
女は俺を無理やりに起き上がらせる。鍛え上げた片腕で胸ぐらをつかみ、もう片方の手でブラックジャックを振り上げて。
「共産主義者は、そんなガラクタ銃しかくれなかったのか?」
「⁉︎」
女は一瞬だけ、自分の右腰に目を向ける。そこにある拳銃を確認しようとしたのだろう。そんなもの、俺には見えていない。必要なのは視線を切ること。こちらに向きかけた女の眼球に、俺は握り込んだ鍵を思い切り突き入れた。
◇ ◇
……ああ、クソが。ずいぶんと派手に撃ってきやがったな。
こちらも女の銃を奪って撃ち返したが、途中から転がって動けなくなった。痛みの波が押し寄せてきて、ようやく自分が被弾したのだと気付く。
周囲はまた、静かになっていた。目を潰した後で肉の盾として利用した女は、見るとスウェットシャツを血に染めて死んでいた。俺は撃った記憶がない。仲間からの流れ弾で射殺されたんだろう。
そこで、名前を思い出した。ミズ・マクネア。本名かどうかは知らない。
もう、知ることもない。
「あ、ぅ……あ」
聞こえる呻き声はひとつだけ。そちらに目を向けると、うつ伏せに倒れたまま動かない男がひとり。
もうひとりの男は、だらんと伸びた右腕から血を滴らせ、痛みと憎しみに呻いている。それが這うように近付いてくる姿は鬼気迫るものがあった。
「クソったれが……ッ!」
マクネアの持っていた拳銃は、使い古されたグロックだった。持ち込んだとも思えないので、こちらで盗むか奪うかしたものだろう。
迫ってくる男を射殺したところで、スライドが後退したまま止まった。
「……キ、……アニキ!」
どんよりした意識を掻き分けて目を開けると、そこには阿呆な中年下男のテオがいた。なんで、こんなところに。
帰ってきたところで銃声を聞いて駆けつけたか。いや、それもおかしい。
「……戻りは、……明日のはずだろ」
「もう日は明けたぜ。嫌な予感がして早く戻ったらこのザマだ。だから気ぃ抜くなって言っといただろうが!」
ああ、まったくだ。
「しっかりしろよ、もう救急車は呼んだからな!」
「……ああ」
周囲は、うっすらと明るくなっていた。それでも暗くて、よく見えない。自分が運ばれていることはわかった。どこに向かっているのかはわからない。
俺の人生と同じか。
「……!」
耳鳴りで聞き取れないが、誰かが俺を呼ぶ声がした。あれは誰かな。女神か天使か、それとも“魔王”か。
視界が明るくなって、海岸線から太陽が昇ってくるのが見えた。
「……今日も、……晴れそうだな」
「……ぅだ。……だぜ⁉︎ ……ぃ日和です、ってな!」
笑み含みでがなるテオの声が、不自然に軋む。救急車のサイレンが、近付いてくるのがわかった。
暖かな陽を浴びて、俺は安堵の息を吐く。成すべきことを成し、送るべきものを送り出して。最後に人生のロスタイムでも、まずまずの結末を迎えた。もう思い残すことはない。
「……ああ、そうだな」
俺は笑う。目の前でキラキラと、眩い光が輝く。
“死ぬには、良い日だ”




