1-7
◆
璃亜はドーナツが好きだ。
今日のお昼ご飯にもドーナツを食べている。というか、ドーナツ以外を食べているところを見たことがない。
「で、結局、どれが本命なの?」
「はぁ?」
「昨日。中央駅前でオトコ3人も侍らせてたじゃない」
「え? いたの? だったら声をかけてくれてもよかったのに」
「用事があってたまたま通りがかっただけだったから。で、どれよ」
「どれって、どれでもないし。っていうかひとりはうちの兄だし」
「お兄さんがいるなんて初耳」
わたしはぽりぽりと頬をかいた。
「親が離婚したときに向こうは向こうで独立したから。たまに会いはするけど」
「ふーん……」
璃亜がなんとも言えない、微妙な表情になる。そういう反応が申し訳なくなるので避けてきた話題だったのでわたしは両手をぱんと叩いた。
「あ。そうだ。璃亜に訊こうと思ってたこと、思い出した!」
超常現象研究会の会長をしている彼女ならオカルトとか都市伝説に詳しいかもしれない。
「最近、兄の輪郭がぼやけて見えるんだよね……」
ぴくん、と、璃亜が震えた。
「輪郭?」
「きらきらしてるの。なんだろう。幽霊みたいに見えなくもない。わたしがおかしいのか、それとも兄が」
――あまり考えたくはないけれど。自分で口にしてみたもののそれ以上は言えなかった。
「気になるね、それは。思い当たることがあるわ」
わたしの発言を決して馬鹿にしない璃亜は神妙な面持ちで顎を触った。
そして食べかけのドーナツを紙袋にしまう。
「もういいの?」
「うん」
ドーナツよりも超常現象の方が気になるようだ。解決するかどうかは分からないけれど、璃亜に話してみてよかった。
「……ありがとう、話を聞いてくれて」
心のなかの霧が晴れて明るくなるようだった。
璃亜と友人になれてよかった。
「どうしたの。急に改まっちゃって」
「ううん。なんでもない」
「あたしたち、友だちじゃない。友だちの悩みを解決するのは、人間として大事なことでしょう?」
璃亜の瞳の奥が光る。
「それに、ドーナツでは決して満たされない、飢えがあるの」
ぺろりと、舌なめずりをした。
◆
学級日誌を職員室に提出してから、昇降口へ向かって歩いていると、花村の後ろ姿が視界に入った。細いのに猫背だからとても姿勢が悪い。
「帰り?」
話しかけると、一瞬びくっとしてから花村が振り向いた。
「あんたか」
「あんたとは失礼な。大川譲羽って名乗ったでしょう」
残念なことに日曜日で距離が縮まったと感じていたのは幻だったようだ。
「よかったら一緒に帰らない?」
「高畑さんが迎えに来るから、無理」
「じゃあ高畑さんが迎えに来ない日だったらいいの?」
しまった、という顔。
よく観察してみれば、意外と表情が読めるようになってきたような気がする。
「無理だ。だって、あんた、藤沢と付き合ってるんだろう」
「は?」
思わず笑ってしまった。
何がおかしい、と花村が睨んでくる。
「藤沢とは中学が同じだっただけで、付き合ってはいないから。なんなら3人で一緒に帰る?」
ところが。
花村が、口角を上げた。
わざとらしく、笑みを浮かべる。
初めて花村のことをこわいと思った。
「お前、僕のどこに興味があるんだ?」
「……え?」
「確かに僕はあの街で悪評の多い花村大治の孫だ。両親は僕が小学3年生のときに死んだ。それからずっと養護施設で生活してきた。理由は、祖父には子どもを育てる能力がないと役所に判断されたからだ。だけど施設にはもっと居場所なんてなかった。死にものぐるいで勉強して、大人を説得して、高校入学を機にやっと施設を出ることができた。……ところが、祖父の家には金目当ての人間が頻繁にやって来る。未だに両親の死は他殺じゃないかと同情や好奇の視線を向けられて詮索される。お前はこれからの人生、遺産で暮らせるからいいよなと厭味も言われる。反対にお前が生まれてこなければよかったとも言われる」
わたしは何も言えずに息を呑んだ。
「お前には分からないだろう? お兄さんはとても優しいひとだった。両親だって健在だろう? 仲がいいんだろう? たとえば休みには皆で旅行するんじゃないか? 好きなものを買って、好きなテレビ番組を観て。入りたい時間に風呂に入れる。いつ笑ってもよくて。勉強だって、塾に通って、受験も楽勝だっただろう? それに友人にも恵まれているだろう。女子何人かで喋っているのを見かけた。お前は、僕にないものを持っている。家族。友人。……居場所」
どうして。
どうして。
無視されたときは平気だったのに、このひとが蔑むように吐き捨てる言葉は、こんなに胸を痛くさせるんだろう。
通り過ぎる生徒たちが、奇異の眼差しを向けて通り過ぎて行く。
わたしは突然饒舌になった花村をぼんやりと眺めるしかなかった。
そして、痛みとともに湧いてきたのは、違和感だった。
――あぁ、そういうことか。
わたしは一度スリッパに視線を落としてから、拳を握って、花村を見上げた。
「世界中で自分だけが辛いと思い込みすぎ。わたしも花村のことをよく知らないけれど、似合わないよ。傷つこうとするのも、毒を吐くのも」
死ねない花村。
「星に、当たるのも」
夢で見た光景が蘇る。
「ただの男子高校生が、罪だの罰だの背負わなくていいんじゃない?」
(さて、どう出るか)
わたしは反論を待つ。
ぼそっと、声が落ちる。
「皆、勝手だ。本当のことは何ひとつ知ろうともしないくせに、自分は何でも知っていると偉ぶって愚かさを撒き散らすんだ……。お前に何が分かるんだ……」
「分かんないよ。だって、花村だって、わたしのことを知ろうともしないで決めつけてきたじゃない」
はっ、と花村がわたしを見た。
(両親は離婚したし、いじめにも遭ったし、だからこそわたしだって『死にものぐるい』で勉強して地元から離れた進学校を受験したんだから)
誰にも、決して言わないけれど。
だからなんとなく分かってしまった。
「……」
たっぷりの時間をかけて花村は人形状態から蘇り、今にも泣きそうな顔をしながらわたしに手を伸ばしてきた。
両手をわたしの両肩に置く。
なんだか冷たくて温かくて、花村はたしかに生きていた。
「……悪かった」
彼は頭を下げて、消えそうな声で呟くと去った。
わたしはその背中に向けて叫ぶ。
「独りで不幸の主人公ぶるなよ、ばーか」
精一杯、名前のない感情を込めて。