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花村が誰よりも早く学校に着いているのは、賑わう教室の中に入っていきたくないからだろうか。
かつてのわたしがそうだったように。
誰よりも先に教室に入って、いじめの跡を消す。そして誰よりも先に教室にいれば、朝から何か仕掛けられることもない。砂を噛むような思いで毎日ひたすら耐えて、傷ついていないように毅然と振る舞うのが、中学3年生のわたしにとっては精一杯の抵抗だった。
居場所がないからこそ、先に確保しておくのだ。
呼吸のできる空間を。
(あ、委員長と花村)
窓際の席からグラウンドを眺めていると、1組と2組が体育の授業中のようだった。体育は男女別の授業なので、ふた組ずつの合同授業だ。今の時期、男子は外で陸上競技をやっている。
藤沢が花村に話しかけて見事に無視されている光景が目に入ってきた。
(あんな風にずっと話しかけつづけてきたんだ。めげないなぁ)
自然と笑みが浮かぶ。
藤沢らしいといえば、らしい。
正義の味方という表現が似合う。璃亜はわたしが世界を救うタイプだと断言してきたけれど、わたしよりも藤沢の方がその役目は適していると思う。
――わたしは傷つきすぎて、まだ回復できていない。
ポケットに入っていたスマートフォンが振動する。ちらりと画面を見ると、兄からメッセージが届いていた。
『今日の夜、空いてるか?』
答えを訊きたいというニュアンスを感じる。
わたしは母親とふたりで暮らしている。昼はお弁当の仕出し屋、夜は居酒屋で働いているので、基本的に顔を合わせる時間帯は少ない。顔を合わせたとしても会話はなかった。
会わないようにしている理由もある。
2人で生活するようになってから何回か、ヒステリックになった母に泣きながらお腹を殴られたり蹴られたりしたのだ。顔や腕や足は、痣が残るとまずいから。わたしの為ではない。ばれたら、母自身が、困るから。
母はわたしの顔が父に似ているのが嫌なのだと思う。浮気して子どもまでつくった父。すべてにだらしなくて、いい加減だった父。
きっと兄は母の暴力を薄々感づいている。知っていて、わたしを母親から離そうとしている。
(だけどわたしがだめにならなかったのはお兄のおかげだよ)
兄はわたしを時々ライブハウスに連れ出してくれた。ペインフルレインのメンバーはとても優しくしてくれた。
家や学校以外にも居場所をつくってくれたから、わたしは地に足をつけていられたのだ。迷惑をかけていると思うなと言ってくれたけれど頼りっぱなしではだめだ。
わたしはわたしなりに生きていかないと。
『この前の男子がお兄と喋りたいって言ってるから、連れてってもいい?』
◆
味噌バターコーンラーメンを啜りながら、藤沢が声を上げた。
「ペインのケイトさんと同じ名前なんですね!」
「そうなんだよ。だからペインに親近感が湧いちゃって」
「あ。ツイッターのアカウントも、訊いてもいいですか?」
「いいよ」
(いけしゃあしゃあと……)
わたしは心の中だけで苦笑する。
ツイッターのアカウントはバンド時代のものは一切更新されていないから、別のアカウントがあるのだろう。妹のわたしは知らないけれど。
藤沢がスマートフォンを触りながら言う。
「え! カホンやってるんですか!」
「カホン?」
わたしは隣に座っている藤沢のスマートフォンを覗きこむ。兄のアカウントだという画面には、四角い箱に座っている兄らしき姿が写っていた。らしき、というのは顔が写っていないからだ。
箱の名前がカホンというらしい。そういえば、ライブハウスで見たことがあるような気がするような、しないような。
「あくまでも趣味だけど、バンドを組んでたときがあって。その名残」
「もしかしてドラムをやってたんですか。今度よかったら一緒に路上やりませんか?」
「俺でよかったら、是非」
(本当はベーシストのくせに)
黙ってわたしは塩ラーメンをすすっている。見事なまでにわたしを置いて話が進んでいく。
藤沢を連れてくることで、話を逸らす作戦は成功と言えた。
「やった! ありがとな、大川」
突然話を振られて啜っていたラーメンを詰まらせそうになる。
「軽音楽部の面子以外で周りにバンドをやっているっていう人間がいなかったんだけど、慧人さんみたいな歳上のひとと知り合えたのはめっちゃ嬉しい」
「歳の離れすぎたこんなおじさんで逆に大丈夫なのか、俺は心配だよ」
「いやいや。色んな話を聞かせてほしいっす」
ぱん、と藤沢が両手を合わせる。
◆
今日の星降りはかなり大粒だった。
傘がないと視界も狭まってしまうほどの大粒の星が降るなか、花村が立っていた。
「何してんの」
わたしは花村から借りた傘を差してあげる。
だけど傘は知らない間にぼろぼろになっていて、穴が開いたところから星がどんどん漏れてくる。花村に当たる。
「いいんだ」
花村が傘の柄に、正しくはわたしの掌に触れた。生きているのか死んでいるのか判らないくらい冷たい手だった。
「死ねない僕は星に当たらないといけない。生まれてきたことを償わなければならないんだ」
そこで目が覚めた。
なんだ、夢か。起きた瞬間に脱力した。
わたしはのろのろとベッドから抜け出て、窓のカーテンを開ける。
快晴の日曜日だ。見事な秋晴れ。今日は兄と藤沢が駅前で弾き語りをする。サクラとはいわないもののわたしも聴きに行くことにしていた。
県営住宅の薄暗い家。
顔を洗ってから、小花柄の身頃切り替えグレーのパーカーと、白いチュールスカートに着替える。
リビングの電気をつけて、冷蔵庫を開けた。いちごジャムを取り出す。それからダイニングテーブルの上の、賞味期限が2日過ぎた5枚切りの食パンをトースターに放り込む。
ガスの元栓を開けて、お湯を沸かして、ココアの粉末をマグカップに振り入れた。
ぼろぼろの椅子に座る。好みの焦げ目がついたトーストにジャムを塗りつつマグカップにお湯を入れて朝ごはんを食べようとしたところで、磨りガラスの扉がスライドして開いた。
化粧が落ちて眠そうな顔をした母親が立っていた。
「おかえ、り」
声をかけたのはいつぶりだろうか。
「お湯、まだある? コーヒーが飲みたい」
「……うん」
わたしはひと口囓ったトーストを皿に置いて立ちあがった。
母親用の紺色のマグカップに、ブラックコーヒーを入れてあげる。振り向くとわたしのいちごジャムトーストは半分食べられていた。
「慧人から連絡があったんだけど、あんた、慧人と一緒に住みたいんだって?」
ぞわ、と、背筋を冷たいなにかが流れていった。
「……お兄が勝手にそう言ってるだけだよ」
「だよね。あの子だってもういい年になるんだし、やっと就職したからにはちゃんと結婚して、まともに生活してもらわなきゃいけないんだから。あんたみたいな子が足枷になっちゃいけないからね」
「……うん」
「今はしかたないから世話してやってるけれど、高校を出たらひとりで全部なんとかするんだよ」
何の感情も込められていないただの決定事項。告げて、シンクにコーヒーを半分以上流して、母はリビングから出て行った。寝る、と大きくあくびをして。
暴力をふるわれなかったことにだけ、安堵の溜息を吐き出す。
わたしは残されたトーストを口にするけれど、味が全然しなかった。昔からそうなのだ。嫌なことがあると、味覚が麻痺してしまう。
途端に気持ちが萎んでいってしまう。
(弾き語り、見に行くの、どうしよう)
口に出しかけて両頬を叩いた。
「だめだめ。落ち込むな、落ち込むな」
立ちあがって。
「わたしは、負けないんだから」
誰に? 何に?
それは、わたし自身にも、よく分かっていないけれど。
とにかく、無理やりに黒い編み上げのショートブーツに足を滑り込ませる。