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◆
(はー、お腹いっぱい。これじゃ晩ご飯入らないな)
璃亜と別れての、帰り道。
地元まで戻ってきて各駅停車しか停まらない小さな駅の改札を抜ける。
星降りが多かったからか、黄昏色の空を久しぶりに見たような気がした。今晩は本物の星もよく見えそうだ。気分がよくて、スマートフォンで空の写真を撮った。
そのまま大通りに出たわたしは、自分の目を疑って、古典的ながら頬を思いきりつねる。
(嘘でしょう)
目の前を、お金持ちしか乗ることができない長くて黒い車が走っていく。
その中にあの男子の横顔が見えたのだ。仏頂面の黒縁眼鏡。見間違う筈がない。心臓が早鐘を打つ。
「待って!」
思わず走り出すけれど自動車はあっという間に視界から消えてしまう。
だけど行き先がひとつしかないことは、この街の人間なら全員が知っている。
「花村家」
発明家、花村大治の豪邸だ。
この街で最も有名な資産家で、偏屈な人物。
綺麗なだし巻き卵がつくれる全自動卵焼き器。自在に雨を降らせることができる機械。5分だけ宙に浮けるという飲み薬。いつでも虹をつくることができるホース。亡くなった人間の姿を3秒だけ映し出す装置。真偽不明なものも含めて、便利なものからよくわからないものまで彼の発明は多岐に渡る。
また、極度の人間嫌いという噂がある。訪れた人間を実験に使うという恐ろしい話も耳にしたことがある。本当のところは知らないけれど。
わたしは唾を飲み込み、スマートフォンを取り出す。
藤沢の名前を選ぶ。
3コールめで藤沢の声がした。
『どうした?』
「あのさ、委員長のクラスに花村っている?」
『花村? いるけどどうかした? ごめん、また後でかけ直す』
通話は一瞬で終了した。だけど目的は果たされた。
あの男子は花村家の人間なんだ!
(そういえば、聞いたことがある)
偏屈者の花村大治の孫は、遠い街で暮らしていたけれど、高校進学を機にこの街へ戻ってきたのだと。
そして、彼には関わらないと決めたくせに。
わたしはそれを翻そうとしている。
◆
「ごめん。待たせた」
改札から小走りでわたしの方へ向かってきた藤沢が、止まって両手を合わせる。
「ううん。むしろ、電話でよかったのに。こっちこそわざわざごめんね」
「野暮用だったから。どうせ帰る方向だって同じだろう、このまま一緒に帰ろう」
藤沢は、大きなギターケースを背負っていた。バンドの練習をしていたんだろうか。
「どうした?」
「いや、中学の頃は、卓球のラケットを持ってる印象が強かったからどうも見慣れなくて」
「持ってるものが随分とでかくなったって?」
ははは、と藤沢が声を上げて笑った。
「それで、何だっけ。花村のこと?」
「この前1組に行ったときに奥で本を読んでた子?」
「多分そうだと思う。あいつは基本的にずっと読書してるから。話しかけても返してくれることの方がレアなんだ」
きっと藤沢のことだから、それでもめげずに話しかけているんだろう。容易に想像できた。
「そうなんだ」
「気になる?」
「そんなんじゃないって」
藤沢は車道側をわたしの歩幅に合わせて歩いてくれる。
「最近は大人しくしてるみたいだけど、俺は、大川のお節介なところがすごくいいと思う」
急に褒められてわたしは口を開けて藤沢を見た。
「中3の秋くらいにいじめられていたのだって、先にいじめられていた子を庇ったからなんだろう?」
何も言えずに口をもごもごとさせてしまう。
「なのに庇った奴もいじめる側に回って。ひどい話だ。それでも毅然としてたから、隣のクラスからすげえなって見ていたんだ。俺、ちょうどあのとき色々あって精神的に参ってて。でもそんな大川の姿に勇気を貰えたような気がしたんだ。今だから言うけど、大川のことを生徒指導にも相談しに行ったんだ。だけど取り合ってくれなくて、とにかく教師って存在に腹が立って、金髪にして」
「金髪」
「そう。それで、大川のクラスへ乗り込んでった」
「……覚え、てるよ」
声が掠れる。
元生徒会長が金髪になって突然乱入してきて、罵詈雑言を浴びていたわたしの机を大きく蹴り飛ばしたのだ。
静まりかえる教室。
唖然とするいじめる側の生徒たち。
『くだらない』
藤沢は背筋が粟立つような声で呟いて、今にも人間を殺しそうな鋭い眼光で、黒板に書かれた誹謗中傷に向かって拳をぶつけた。
――それでわたしへのいじめが収まったのだ。
あっけない幕切れだった。それでもどうしてか、卒業式まで藤沢と会話をすることもなかった。
「いやー、でもこうやってまた話せるようになれてよかった」
「……ありがとう」
「改まって何だよ。ありがとう、って言いたいのは俺の方だったんだから。で、話は戻るけど。花村と、仲良くしてやってくれよ。大川ならできると思う」
「そんなこと、は」
(そんなこと。は。藤沢がそんな風に見ていてくれたなんて)
鼻の奥が、つんと痛む。
わたしではできなかったことを藤沢がわたしにしてくれていたというなら。わたしにも、今度はできるかな。
◆
早朝の1組。窓越しに花村以外誰もいないことを確認してから、扉を開けて声をかける。
「おはよう!」
席の前まで歩いていくと、花村は一瞬わたしの存在に戸惑って硬直した。驚くことはできるようだ。だけどすぐに仏頂面に戻った。よく見ると、顔色が悪い。
「傘なら要らない」
「いやその件じゃなくて。わたし、5組の大川譲羽。譲る羽って書いて、ゆずは」
「で?」
わたしはがっくりと肩を落とす。
(そこは自己紹介を返すところでは)
「あんた、名前は?」
「知ってどうするんだ」
花村の口調が警戒心を一層強めたものになる。
「友人になる第一歩はまず自己紹介だと思わない?」
「別に、あんたと友だちごっこをしたいから傘を貸したんじゃない」
視線が読みかけの文庫本に戻る。
太宰治の『人間失格』だ。イメージ通りの本を読んでいて、ちょっと面白い。
わたしは無理やり本を閉じる。
顔を上げた花村は、きつくわたしを睨んでいた。
「勘違いしていないか? あれはほんとに気まぐれだったんだ。それ以上、あんたに関わるつもりはない」
「折角下手に出てんのに、なにその態度。知ってるわよ。あんたの名前は花村でしょ」
「知ってるならなおさらどうでもいいだろ」
「女子にそういう言い方なくない?」
「うるさい」
わたしが負けじと反論しようとしたときだった。
がらっと扉が開く。
「あれ? 大川」
振り向くと藤沢が入ってきたところだった。
「もう花村と仲良くなったのか。やっぱりすごいな」
「えっと」
「……仲良くは、なっていない。あんたもいいかげん、僕に構うのはやめてくれ」
「俺は諦めないぞ。むしろ、今日は会話してくれるんだな」
花村はしまった、という表情になる。
「個人的に、花村とはいろいろ話をしたいんだよ」
藤沢が鞄を席に置いてから近づいてくる。そして、事もあろうにわたしの背中をぽんと叩いた。ひゃっ、っと変な声が出てしまう。
「大川はペインを知ってるから」
「へ?」
「花村も聴いてるんだよ。アルバムを買おうとしているところを見たんだ」
「そ、それで仲良くできると……?」
「音楽は宗教だから」
あなたの尊敬するベーシストは、うだつの上がらないわたしの兄なんだけど……。たしかにこれは兄の言うとおり黙っていた方がよさそうだ。
「僕はどんな神も信仰していない」
花村は静かに立ちあがると、わたしたちを置いて教室から出て行った。
「あれは根が深いな」
ぼそっと藤沢がひとりごちる。
「前に、すごく不思議な光景を見たんだ」
溜息を混じらせながら言葉を吐く。
「1学期、星がめちゃくちゃたくさん降ったとき。花村が中庭でぼーっとしてたんだ。星がたくさん当たっては滲んで消えていった。でも構わずに立ち尽くしていた。だから声をかけてみたんだ。何してるんだって。そしたら、何て言ったと思う?」
見当がつかない。首を横に振る。
「『死ねない僕は星に当たらないといけない』、って言ったんだ」
「ペインの、歌詞……」
うん。頷いて、藤沢が続ける。
「あのときの花村の顔、さっきよりもずっと生気がなくて。死ねない、って言っていたけど、心は死んでた」
「心が……死んでた……?」
「そんなの、悲しいよな」
まるで、藤沢は自分自身に向けて言ったようだった。