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店の外に出ると、星は止んでいた。夜空は澄んでいて本物の星たちがちかちかと瞬いている。夏の終わりを知らせる中途半端な湿度が、匂いとなって鼻をかすめていく。
忘れないように借りた傘をしっかりと握ると、兄が視線を向けてきた。
「その傘、ゆずっぽくないな」
「借りたの」
「誰に」
「知らない。でも、同じ学年の男子」
腑に落ちない表情をしていたけれどわたしにだって分からないから仕方がない。
「駅まで送る」
うん。わたしは頷いた。
高校生活は楽しくやれているかと訊かれたので、璃亜という友人としょっちゅうドーナツを食べに行くという話をする。
大きな道路を渡って、歩道橋を上がって、駅前の広場に着く。街灯に照らされて、大時計の前の花壇で弾き語りをしているひとがいた。観客はいない。ありふれた光景だった。
それでも微かに聞き慣れたメロディーが聞こえてきたような気がして不意に立ち止まる。
♪人間を定義するのは神さま
でも神さまを定義するのは人間で
だったら僕の神さまは誰か
僕自身が決めたい
「……あれ、ペインの曲じゃない?」
兄のスーツの袖を引っ張って立ち止まらせる。弾き語りをしているのは高校生くらいの男の子だ。
「うわ、ほんとだ」
小さく、兄が感嘆を漏らす。
必然的にわたしたちは彼に近づいて行った。
濃い色の上着を着ていても少し寒そうだ。アコースティックギターを鳴らしながらぼそぼそとひとりで歌っている。
気配に気づいた弾き語りの主はゆっくりと顔を上げた。
そしてわたしと顔を見合わせて、お互いに、うわ、と口だけが動いた。
「委員長、どうしてこんなところでギターなんて」
「大川こそ、え? 彼氏? 社会、人?」
「違う違う違う。兄」
「どうも、譲羽がいつもお世話になってます」
兄が会釈をする。つられてわたしも何故か頭を下げた。
委員長こと藤沢悟。通っていた中学校も同じという数少ない人間だ。
彼は中学時代、2年生で生徒会長と卓球部の部長を兼任していた。一言でまとめるならば、誰からも好かれる明るい人間。テスト類は常に総合順位1桁以内。髪を染めたり制服を着崩さなくてもかっこいいと10人中10人が答える、素材の良さ。いろんな芸能人やモデルに似ていると評される。眉の太さと真っ直ぐさは意志の強さを表していて、まさしく、眉目秀麗。
中学1年生のときに同じクラスで話す機会があり、3年生の前半で同じ委員会に入っていたので、癖で今でも委員長と呼んでしまう。
その藤沢が、どうして地元から離れた駅で、ぽつんと弾き語りを?
「高校に入ってからギターを始めたんだけど、まだ下手だから、バンド練のない日は練習でたまーに路上でやってるんだ」
「意外すぎる。というか、その選曲、何」
「マイナーだから知らないよな。好きなんだよ。今はメジャーデビューしたから名前くらいは聞いたことあるだろう。リバースディ」
「知らないも何も……」
「俺も好きだから知ってるよ。改名前、ペインフルレインの『理由に名はない』って曲だろう?」
兄の言葉に藤沢の表情がぱっと明るくなって、ギターを置いて立ちあがる。
「知ってるんですか? うわ、めちゃくちゃ嬉しいです。なかなか周りにペインの曲を聴いてる人間がいなくて」
わたしはびっくりして兄の顔を見た。
元ベーシストだということは黙っていろ、と瞳が言っている。
「リバースディじゃなくて、ペインフルレインなんだ?」
「そうですね。今のも聴くっちゃ聴くんですけど、前の曲の方が好きで。前はベースのケイトさんがほとんど曲をつくってたのにメジャーデビューしたときにベーシストが変わったじゃないですか」
それで楽曲の雰囲気がかなり変わってしまったから、と藤沢が続けたとき、一瞬だけ兄はなんともいえない微妙な表情になった。
しかし髪の毛の長さや着ている物が違うだけでこうも気づかれないものだろうか。
それとも、バンドマンは自分の周りにいないという思い込みでもあるのだろうか。
「ペインの頃は中学生だったからライブに行けなかったし、いつも動画サイトや公式の配信でしか聴けてなくって。今、ちょっとずつ、昔の音源を集めているところなんです」
兄の口元が緩んでいる。このまま正体を隠して、褒めちぎられたいんだろうか。
しかたないのでわたしも付き合うことにした。
「委員長は、ペインのどこが好きなの?」
「どこだろう……。俺が辛いときに、励ますっていうより、救ってくれたんだよな。……なんだよその顔」
「いや、委員長にも辛いときってあったんだ、と思って」
「俺だって人間だよ」
むっとするのではなく、顔が綻ぶ。ファッション雑誌の表紙を飾れそうな笑顔だ。
そういえば、昔、一度だけ金髪に染めてきて生徒指導にめちゃくちゃ怒られていたこともあったっけ。順風満帆に見える藤沢にも色々あるのかもしれない。
「大川もペインを知ってるとは思わなかった。今度、CD貸そうか?」
ペインフルレインのCDは全部持っているし、なんなら販売されていない音源も持っているとは言えそうになかった。
「また学校に持って行くから」
無言を肯定と受け取ったようだ。
「う、うん。ありがとう」
「じゃあまた明日」
「うん。ばいばい」
わたしたちを見送ると、藤沢はまた腰かけてギターを弾き始めた。
藤沢からだいぶ離れたところでわたしは兄の脇をつつく。
「……お兄、どうして黙ってたの」
「世の中には黙ってた方がいいこともたくさんあるんだよ。それよりも、あの子、ゆずのことが好きだな」
「まさか。人気者は、わたしみたいな底辺の人間にも優しいってだけ」
「そうかなぁ。ゆずはどうなの」
「藤沢は、……恩人みたいな子。じゃあ、またね、お兄」
「うん、また連絡するから。考えておいてくれ」
改札を通って振り向くと、スーツ姿の兄がわたしに向けて大きく手を振っていた。
なんだかんだ、スーツ姿もかっこいい。本人には絶対に言わないけれど。
(……?)
わたしは目をしぱしぱとさせた。
瞬きを繰り返せば繰り返すほど、自分のなかに違和感が生じる。
(お兄が、きらきら、光ってる?)
兄の輪郭がぼんやりとではあるものの瞬いているように見えた。
(疲れてるのかな)
それ以上気にすることはせず、わたしはホームに向かった。