その気にさせないで(6)
大半の生徒はすでに下校してしまっているので、校舎の中は人気が無い。村田路美が女子トイレに入ると、個室のドアが一か所だけ閉じられていた。天照大神かよ、と思う。そっと近付くと、親友の嗚咽する声と鼻をかむ音が中から聞こえてきた。路美はため息をつくと軽くドアをノックして、
「真夜ー?」
「ぶぉびっ?」
言葉になっていない声が個室から返ってきた。『路美?』と言ったのだろうが……。
「ああ、無理にしゃべらなくていいから。落ち着くまでその中にいてくれればいいよ。ちなみに、トイレに来たのはあたしだけね。あの子たちは中庭で待ってもらってるから。真夜からちゃんとした返事もらわないと、あの子たちも帰れないよねえ」
「ぶん……」
うん、と言ったのだろう。完全に鼻声だ。路美は笑って、
「あんた小学生の頃から、泣くときはいつもトイレに籠るよね。泣き顔を見られたくないんでしょ。気が弱いくせして、プライド高いから」
「……」
「中一の頃までは、けっこう今みたいなことあったよね。真夜が突然トイレに籠って、あたしが迎えに行くの」
決していい思い出ではないが、今となっては懐かしい。
「高校に入ってからは初めてかな、この『泣きこもり』は。……でも、今回のこれは昔とは違うよね、意味合いが」
「ぶん」
「悲しくて泣いてるんじゃないよね」
「……ぶん!」
力強い鼻声が聞こえてきた。
「だったら、あんた自身の言葉であの子たちにしっかり伝えないとね」
返事は無かった。その代わり、水が流れる音がした。やがて個室のドアが開く。
「ちゃんと言うよ。覚悟を決めたって、ちゃんと言う」
まだ少し鼻声のまま個室から出てきた真夜の顔を見て、路美は思わず吹き出した。
「うわあ、ひっでえ顔!」
「えー!」
目は充血し、鼻も赤い。さっきまで泣いていたことがまるわかりだ。なまじ整った顔立ちの分、インパクトが大きい。
「ひー、本当だ」
真夜は手を洗いながら鏡で自分の顔を見て、嘆いている。
「ははは……でもまあ、ひどい顔だけど、いい顔だよ」
「なにそれ、褒めてくれてるの?」
「褒めてる褒めてる。それに、あの子たちにならそういう顔見せてもいいんじゃないの?」
「……そうだね」
真夜がそう言いながら、ハンカチで手を拭き終える。そして路美に向き直ると、
「路美、ありがとう。今までずっと、ありがとう」
路美は動揺した。真夜の声と表情がこれまでになく真剣だったからだ。
まずい、まずいぞ。ここで自分まで泣き出したらもう収拾がつかなくなるぞ。
「……なに今生の別れみたいなこと言ってんの! 学校辞めるわけじゃないでしょ」
「そうだけど……」
「いいから早く、あの子たちと話してきなさい!」
「う、うん」
どうにか涙をこらえた路美が手で追い払うと、真夜は名残惜しそうにしながらも外へ駆けて行った。
真夜の戦いはこれから始まるのだと路美は思う。真夜を傷付けた悪意への復讐戦、あるいは失われた自信を取り戻す奪回戦。路美は、自らが真夜の避難所としての役割をじゅうぶん果たしたと思っている。別に路美はそのままでも良かった。でも、真夜自身が戦うことを望むのならば、応援してあげたい。
廊下に出て、窓ガラス越しに中庭の様子を見る。森山流歌とフランが笑顔で真夜に抱きついているのが見えた。
(真夜と一緒に戦うのは、君らに任せた)
さびしいけれど、それは自分の役目ではない。路美は決意した。今までと変わらず、真夜の友達でいよう。華やかな世界へ入るからこそ、普通の世界に変わらないものがあることが真夜の支えになるときがきっと来るはずだ。
(がんばれ、真夜)
二人に抱きつかれてふらつきながら笑っている真夜を見て、路美は心の中でエールを送った。
「お茶が入りまし……なに一人でニヤニヤしているんです社長。気持ち悪い」
「ふふふふふ、いつもながら言うことがきついねえ、白井くん。ふふふふふ」
白井ふぶきが社長室に入ると、浦戸賢一郎がデスクに陣取ったまま会心の笑みを浮かべていた。つい感じたままの言葉を口に出してしまったのでさすがに怒られるかと思ったが、杞憂だった。
「例の神村真夜くんがうちでアイドルデビューする話を受けてくれたそうなんだ。もうすぐここに来るよ」
「あら、良かったですね。でも、先週社長が会いにいったときは断られたとおっしゃっていませんでしたか」
「私は全くあきらめていなかったがね。ルカとフランが想像以上の熱意をもって、説得してくれたようだ」
「へえ……」
彼女たちはただの練習生だと思っていたのだが、自分から行動を起こしたのか。ふぶきが感心していると、
「しゃちょおおおおぅっ! ただいま戻りましたぁぁぁーーっ!!」
壁の向こうから森山流歌の声が聞こえてきた。
「来たようだね。事務所の入口からだろうに聞こえてくるよ。嫌になるほど声が大きいねえ、あの子は」
浦戸は苦笑した。それから待つこと、約一〇秒。
「しゃっちょぉー! 神村さんを連れてきましたぁっ!」
叫び声とともに凄まじい勢いで社長室の扉が開いた。流歌を先頭にして、彼女と手を繋いだまま引きずられるような形でフランともう一人の少女が部屋に入って来る。三人とも学校の制服姿だ。テンションが上がりきった流歌の勢いの前に、金髪に三つ編みおさげの女の子は目を白黒させていた。彼女が神村真夜だろう。ふぶきが以前見た小学生のときの写真から想像した通り、美しく成長している。
「はっはっは。元気がいいねえ、相変わらず」
浦戸は椅子から立ち上がり、三人に歩み寄った。
「神村真夜くん、ようこそデミヒューマンへ」
声をかけられた真夜は少し緊張しているようだったが、すぐに落ち着きを取り戻し、
「はい! 今日からよろしくお願いします、社長」
力強い声でそう言った。