その気にさせないで(2)
『株式会社デミヒューマン 代表取締役社長 浦戸賢一郎』
真夜は男から渡された名刺を念入りに見返した。
「何度見ても同じだよ。本物だ本物。聞いたことがない芸能事務所かもしれんが、さっきから言っている通り今年に入って独立したのだから仕方ないだろう」
「はあ……」
そう言われて真夜は名刺から目線を上げ、正面の浦戸と名乗る中年男性を見た。サングラスを外してくれたので迫力は薄れている。目つきは意外と優しく、悪人には見えない。
真夜の左隣の席にはポニーテールの女の子が座り、こちらを見てニコニコしている。犬のような耳と尻尾はいつのまにか消え失せていた。……見間違いでは無かったはずだが。
そして浦戸の隣にはショートカットの小柄な少女が座り、無言でストローをくわえメロンソーダを飲んでいる。ポニーテールの女の子と同じく中学生くらいに見えるが、タートルネックニットに長めのスカートと、服装は対照的だった。整った顔立ちをしているがその表情からは感情が全く読み取れない。
真夜は困惑していた。
(どうしてこうなった……)
ポニーテールの女の子に捕まった後、真夜は追いついてきた浦戸たちからとにかく話を聞いてほしいと懇願され、近場のファミレスへ連れ込まれていた。押しに弱い、とつくづく思う。
「それで、社長さんが私になんのご用なんでしょうか」
薄々見当がついてはいるが、真夜は浦戸にたずねた。
「よくぞ聞いてくれた。神村真夜くん、ぜひ、君にうちの事務所へ来てもらいたい。アイドルとしてね」
「アイドル……」
スカウトは予想通りではあったが、そこは予想外だった。
「君が小学生の頃に芸能活動をしていたことは無論承知のうえで、こうしてスカウトしている。むしろ、その経験を買っているのだ私は。なんとしても君に……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
真夜はあわてて浦戸の話を止めた。このまましゃべり続けられると、流されてしまうかもしれない。早いうちにきっぱり言っておく必要がある。
「こうして私を誘ってくださるのはありがたいです。でも、もう私は芸能界に戻るつもりは……無いです」
「む」
浦戸の表情が曇った。
「えー! もったいないっす! そんなにかわいいのに!」
ポニーテールの女の子が声をあげる。
「それに神村さん、『天使の学園』の栞ちゃんですよね。森山は栞ちゃんと一緒にアイドルできるかもしれないって社長から聞いて、ワクワクしてたんです!」
「あ、ありがとう。えーと……森山さんっていうの?」
「そう言えば自己紹介がまだでした、ごめんなさい! デミヒューマン所属、森山流歌って言います! 長野出身の中学二年生っす!」
森山流歌はまっすぐ真夜の目を見て言った。なんだか、キラキラしている。無邪気だなあ、と真夜は思う。
「自分たちの世代は、みんな『天使の学園』見てましたよ! やっぱり当時の小学生としては、小学校が舞台だと気になっちゃいますからね。栞ちゃんからは目が離せませんでしたよ。神村さんすごかったっす!」
眩暈がした。
「……『天使の学園』。四年前にNBSテレビ系で土曜夜九時から放送された連続テレビドラマ。小学校を舞台に壮絶ないじめを描いて大きな話題を呼び、ドラマ不況の時代にも関わらず平均視聴率一八%を越え、最終回では視聴率二十五%を記録した」
ショートカットの女の子が平坦な口調で突然語り出した。
「そうっす! さすがフランさん!」
森山流歌の反応に、フランと呼ばれた少女はほんの少しだが気を良くしたように見えた。フランというのが彼女の名前か。普通の日本人に見えるが、芸名だろうか。
フランは続けて言う。
「当時人気だった子役・来栖蛍が主人公を演じることが放送前から注目されていたが、放送が始まってみるとクラスを支配する学級委員・栞による苛烈ないじめが話題をさらった。栞というキャラクターのインパクトが完全に主人公を食ってしまい、栞を演じたドラマ初出演のジュニアモデル・神村真夜にも大きな注目が」
限界だった。
「もうやめてっ!!」
真夜はいつの間にか立ち上がり、叫んでいた。
「……それ以上はやめて。お願いだから」
自分の顔が青ざめているのがわかる。軽い吐き気もしてきた。
森山流歌とフランが口をぽかんと開けてこちらを見ていた。浦戸も黙って真夜を見ているが、驚いた様子は無い。
真夜ははっとして、周囲を見渡した。他の客や従業員の視線が真夜に集まっている。
「……ご、ごめんなさい」
小声で言って、席に座りなおした。緊張した店内の空気が弛緩するのがわかった。
「すまない。謝るのは私たちの方だ。申し訳なかった」
浦戸は真夜へ深々と頭を下げると、
「ほら、ルカとフランも」
「……ごめんなさい」
「……申し訳ない」
二人揃って素直にぺこりと頭を下げた。
「いえ、そんな」
落ち着いてみると、二人は真夜が出演したドラマの話をしただけだ。別に悪くはない気がする。真夜がそれに耐えられなかっただけで……。
浦戸がゆったりとした調子で言う。
「君が受けた苦しみは、君にしかわからないだろうね。でも、私もこの世界が長いからね。君に何があったかだいたいの想像はつく」
「……だったら、芸能界に戻るつもりが無い私の気持ちもご理解いただけるんじゃないでしょうか」
「ああ。でも、話を聞くだけ聞いてもらえないだろうか。もちろん無理強いはできない。しかし、結論を急ぐことも無い。今日のところは私の話を最後まで聞いて、それから家に帰って、ゆっくり考えてくれればいいから。一ヶ月返事が無ければあきらめるよ」
「……」
どうしよう。真夜が考えていると、左から視線を感じた。
(……げっ)
森山流歌が申し訳なさそうに真夜を見つめている。大きな瞳が潤んでいるのがわかる。真夜はため息をついた。
「話を聞くだけなら……」
流歌の表情がパッと明るくなった。浦戸も笑顔になる。
「ありがとう! ……しかし、どこから話したものかな。うーむ」
浦戸は少し考え込んだ後、言った。
「神村くんは、芸能界は魑魅魍魎の世界だと聞いたことはあるかな」
「……? ええ、そういう言い回しをすることはありますよね」
浦戸が予想外の言葉から入ったので、真夜は面食らった。『芸能界は魑魅魍魎の世界』。華やかに見える芸能界も、その裏側ではドロドロした欲望が渦巻いていることを表現している。昔からよく言われていることではある。
「あれはね、文字通りの意味なんだよ」
浦戸はのほほんとした調子で言ったが、真夜はすぐには理解できなかった。思わず口をぽかんと開けて、
「……は?」
「芸能界には人ならざる者、魑魅魍魎がたくさんいるんだよ」
「……はっ?」
「かく言う私も吸血鬼でね」
「……はぁっっ!?」