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「おかえりなさい、エルヴィンさん!」
「ああ、ただいま」
エルヴィンが小屋の扉を開けると、そこにはすでにリディアがいて、満面の笑みでエルヴィンを迎え入れてくれた。その微笑みだけで、一日の疲れが消えていくような気がする。
リディアの笑みにつられて、エルヴィンの口角も自然と上を向いた。
「今日の夕食はビーフシチューですよ。お疲れでしょうから、沢山食べてゆっくりなさってくださいね」
「リディアのビーフシチューは美味いから、楽しみだな」
そう言ってぽん、とエルヴィンはリディアの頭に自分の手を乗せた。ぽん、ぽん、と優しく頭を叩かれて、リディアが照れたように笑う。
エルヴィンはいつも、リディアに優しい。でもそれが、男女の間に発生する特別な感情だけからくるものだけではないということを、リディアはよく知っている。まあそれだって別に構わないのだけれど。
「――おかえり、遅かったね」
リディアの後ろから、クレアがゆっくりと歩いてきた。ぼろの毛布をショールのように羽織っているクレアの姿は、性別を知らなければ女性だと見間違ってしまいそうだ。
クレアの姿が視界に入ると、一度は上がったはずのエルヴィンの口角はすぐに下がった。リディアに向けた柔らかな表情は途端に消え失せ、険しい顔になる。
「買い物が長引いたんですよ。……遅くなってすみません」
「私は構わないよ。ただリディアが心細いようだったから、次からはもう少し早く帰っておいでね」
「言われなくても、そうしますよ」
ぶっきらぼうな口調。リディア以外は誰に対しても基本的に愛想のないエルヴィンだったが、クレア相手だとそれがより顕著になる。そんな態度がとれるのも、長い付き合いで気心が知れているからだろう。クレアも特に気分を害した様子はなく、相変わらず飄々としている。
エルヴィンのところまで来ても、クレアは足を止めなかった。そのままエルヴィンを通り越して、小屋の外に出ていく。
「巡回ですか」
「そうだよ」
エルヴィンが訊ねると、クレアがくるりと振り返って答えた。
毎晩クレアはこの広大な森を、異常がないか確認して回る。昼の巡回はエルヴィンの役目だが、今日は王城へ出向いていたので、昼の巡回は行われていない。そういう日のクレアの巡回は長くなるから、きっと夜明けまでは戻って来ないだろう。
「夕食はもう済ませたんですか?」
「まだだよ。でも、森が少しざわついているから、先に様子を見てくるよ。お前さんたちは寝てていいからね」
「わかりました」
「――ああ、リディア特製のビーフシチューはちゃんと残しておいておくれね」
「心配しなくとも、あなたの分は残しておきますよ」
だからさっさと行ったらどうです。
「エルヴィン、お前さんは年々冷たくなっていくねぇ」
クレアがおいおいと泣くフリをする。
「まあいいさ。もともとお前さんは私に敵意剥き出しだったからね。殺意がなくなっただけ、良しとするよ」
完全に日は落ちて、月だけが煌々と光っている。この森が本領を発揮するのは、このくらいの時間帯からだ。無数の獣たちの目が、爛々と輝いているのが見えた。
ふわり、とクレアの身体が宙に浮いた。クレアの背中から、先ほどまでは存在しなかった黒い羽が生えている。ギザギザした黒い羽は、まるで絵本に登場する悪魔のよう。この羽で、彼は自由自在にマロイの森を飛び回る。
「――じゃあ、留守は頼んだよ」
「了解しました」
「リディア、また明日ね」
「おやすみなさい、クレアさん」
リディアがひらひらと手を振ると、クレアは聖母のように微笑んで、それからあっという間に飛び立っていってしまった。
残されたのは、エルヴィンとリディアの二人だけ。
「リディア」
「はい?」
「冷えるぞ。台所に行こう」
はい、とリディアは返事をした。
どこの町でも見られるような、ありふれたごく普通のやり取り。
かつて〝死の森〟と忌み嫌われていた森にだって、穏やかな日常は、確かに存在するのだということを、リディアはこの森に来て初めて知った。