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 ――もうすぐ、夜の帳が降りる。

 そうすれば、彼の時間の始まりだった。



 マロイの森の最深部にひっそりと建てられた小屋の中で、一人の少女が小さく歌を口ずさみながら、ぐるぐると大鍋をおたまでかき回していた。

 少女一人で消費するにしては多すぎる量だが、彼女には二人の同居人がいた。二人とも細身なのだが、とにかくよく食べるので、これくらいの量はなんてことない。今日の夜で消費し尽くしてしまうだろう。特に、少女が今作っているのは同居人の一人がこよなく愛するビーフシチューだったから。


 小屋の窓から差し込む光がだんだんと暗い色へと変わって来て、それで彼女はもうすぐ夜になることを知る。本格的な夜を迎える前に、片方の同居人を起こしに行こうと、少女は一旦火を止め、それからおたまを置いて台所を出た。


 小屋の一階部分は台所や風呂といった共用スペースであり、二階に各個人の部屋が設けられている。起こしに行こうとしている同居人の部屋は、三人の部屋の中でも最も広く、そして一番窓が小さい。それは、彼が太陽の光を嫌うからだ。


 少女はとんとんと階段を上り、彼の部屋の扉を静かに開けた。当然、鍵などかかっていない。


「――クレアさん、おはようございます」


 おはようございます、というのは、日が落ちる寸前の時間帯に使用する挨拶としてはふさわしくないのだろうけれど、この同居人の活動時間帯は、夜から日が昇るまでだ。今まで眠り続けていた彼にかける言葉としてこれ以外に適切なものはないだろう。


 粗末な寝台の上で、ぼろの毛布にまるまって寝ていた彼が、ゆっくりと目を開ける。

 ――開かれた瞳の色は、赤。滴り落ちる血の色。


 何度彼を起こしていても、彼が眠りから覚める瞬間、すなわちその瞳を開く瞬間はいつも、どうしようもなく胸が騒ぐ。あまりにも綺麗な、深紅の瞳。


 かつて〝森の王〟と呼ばれていた吸血鬼の彼が、少女に向かってうっすらと微笑む。


「今日は起こしに来るのが早かったね、リディア」


老人が孫をからかうような口調だった。


「ごめんなさい、クレアさん」

「いいさ。エルヴィンがまだ帰って来ていないんだろう? この森で日暮れをお前一人で過ごすのは、いくらなんでも心細いだろうからね」


 驚くほど妖艶な、赤い()の青年が、よっこいせ、と寝台から起き上がって、それから大きく伸びをした。

 彼の目覚めを感じ取ったのか、森に棲む狼たちが一斉に遠吠えを始めたようで、小屋の中にまで声が聞こえてきた。

 狼たちにとって、森の絶対的な王は、彼だ。もう一人の同居人も王ではあるけれど、あくまで彼は昼の王。この森が本格的に活動を始めるのは夜なので、夜の王であるクレアの方が昼の王よりも立場が上に来る。


「かよわいお前さんを置いて、エルヴィンは一体どこで何をしているんだか」

「エルヴィンさん、色々とお忙しいですから」

「おや、私は忙しくないと言いたいのかい?」

 

 クレアの言葉に、リディアは困ったように微笑んだ。

 リディアがこの森に棲み始めてからもう三年だ。三年も経てば流石にわかることなのだが、この吸血鬼は人の言葉尻を捉えることが好きなのだ。

 三年経ってもまだ、リディアはどう対応していいものだかよくわからなくて、曖昧な笑みを浮かべてごまかしてしまう。


 万人がうっとりするような顔で、吸血鬼がリディアに向かって面白そうに笑いかける。

 見た目は二十代の青年だが、実際の彼はもっと長い時を生きている。若輩者のリディアと、それからもう一人の同居人は、いつもこのお茶目な吸血鬼に振り回されている気がしてならない。


「今日の夕食は、ビーフシチューだね?」


 断定的な物言いだった。鼻の利く彼は、どうやらかすかに漂ってくる匂いだけで夕食を特定してしまったらしい。

 リディアはこくり、と少し恥ずかしそうな顔をして頷いた。

 クレアがリディアに近付いて、それから孫をかわいがるように、よしよしと頭を撫でる。


「エルヴィンが王城に出かける日は、お前さん、ほとんど毎回エルヴィンの好物のビーフシチューしか作らないくせに、何を今更恥じらうことがあるんだい?」

「び、ビーフシチュー以外も作りますよ!?」

「たまにだろう? それに、ビーフシチュー以外だって、みんなエルヴィンの好物じゃないか。わかりやすくて結構だが、たまには私の好物も提供してくれないと、妬けてしまうよ? ――一応、私もお前さんの命の恩人なのだからねぇ」


リディアは三年前、森の中で倒れていたところを、吸血鬼のクレアと、それから国一番の魔法使いであるエルラルド・エルヴィンに助けられた。以来、行く当てのなかったリディアは、家事の一切を引き受ける代わりに、この小屋に置いてもらっている。だから、リディアにとって二人は間違いなく命の恩人だった。


クレアの言葉を受けて、リディアは腕まくりをしつつ、クレアに訊ねた。


「……血、飲みますか?」


 クレアは吸血鬼である。クレア曰く「一般的な吸血鬼の定義には当てはまらない吸血鬼」らしいのだが、血を好むところは変わりがないらしい。もっとも、クレアの場合は血を飲まずとも活動が可能らしいが、やはり人の血液が一番のご馳走であるようで、時々リディアの血を欲することがあった。


「いや、今日はいいよ。昨日も飲んだからねぇ。お前さんが貧血になったら、エルヴィンに小言を言われてしまうからやめておくよ。あれはお前さんに甘いからね」


 クレアの白魚のような指が、リディアの薄茶色の髪をさらさらとかき分けていく。リディアはされるがまま、大人しくそこに立っていた。


 ――しばらくそうしていたら、ばさばさと、翼のはためく音が聞こえてきた。いつの間にか、狼たちの遠吠えは止んでいて、大きな鳥が滑空する音が、夜の森に響いて聞こえる。


「帰ってきたね」

 

 クレアがリディアの頭から手を離し、「迎えに行っておあげ」とリディアに促す。

 はい! と勢いよく返事して、リディアがあくまでも上品に、しかし勢いよく部屋を飛び出していく。


「若いねぇ」


 くすくすと、微笑ましいものを見るように、クレアが呟く。


 昼の王と夜の王。

 両者が半日振りに揃った森は、今日も強力な魔法によって、侵入者を頑なに拒んでいた。



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