天女、戸惑う。
私はいつもの椅子に座り、鞄から週末課題を取り出す。
……今日は数学か。
私の嫌いな教科だ。
渋々、愛用のシャーペンをノックしながら私は早速第一問を見た。
途端、私は絶望した。
「そりゃないわー先生……」
最初から分からない問題に、先生を恨みながら私は机に伏せた。
そのまま眠ってしまったのが、全ての始まりだったとは信じたくもない。
***
「ここ、何処……!?」
目を開けたら知らない世界でした……って、そんな馬鹿な。
私の下には丁寧に布団が敷かれてある。
まさか、拉致られた……!?
え?
え?
ちょっと待って、今週の週末課題やってないんだけど。
ついでにテストも近いんだけど。
あの、ここ何処ですか?
誰か、いないんですか?
突然の事に、私の動悸は止まることを知らない。
「あ、起きました?」
そして、スス……襖[ふすま]が開けられ、私の体は反射的に跳ねた。
丁寧なお辞儀をどうも。
深々とお辞儀をして顔を上げた女性は、美人さんだった。
「料亭、霞染[かすみそめ]へようこそお越しくださいました、天女様」
「はいぃ?」
思わず、気の抜けた声を出してしまった。
あの、状況上手く飲み込めないんですけど。
飲み込むよりも先に手前で止まってるんですけども。
喉すらも行ってないのですが。
「えーと……りょ、料亭?」
「そうでございます」
確か、霞染って言ってたっけ。
「いまいち状況が分からないのですが……」
「申し訳ございません、私にもさっぱり……」
「でっ、ですよねー……」
内心、溜息を吐きたくなる。
未だに入り口で正座している美人さん。
外は雪が降っているらしい、寒いのに申し訳ない。
その美人さんは困っている顔すらも美しく見える……美人って、いいなぁ羨ましい。
黒の和服に、黄色の簪。
こんな人が、大和撫子って言われるんだろうな。
「天女様?」
美人さんが私の顔を覗き込むように首を傾げた。
さっきも言ってたけど、天女様って何のことだろう。
「あの、すみません。天女って……」
「主が言うには、天から降りた女。そのまま天女様でございます」
「どこがそのまま!?」
思わず突っ込んでしまった。
私が天から降りた、だって?
誰か、誰か嘘だと言ってくれ。
だって私さっきまで、私の部屋の机の上の週末課題と睨めっこしてたんだよ?
……いや、机にすぐ突っ伏したのを忘れていた。
まあ、天から降りた……というより“落ちた”と言った方が正しいんだと思うけど、落ちる要素は私の部屋には欠片もない。
たとえ太陽が西から昇ったとしても、ね。
「天女様、って呼ぶの、やめてくれませんか?慣れていませんし、何しろ自分の状況がよく分からないもので。名前で、呼んでくれませんか?」
まずは一歩、踏み出してみよう。
「それでは、何と呼べば宜しいのでしょう?」
「私の名前は、小町って言います。月夜野 小町[つきよの こまち]です」
「では、月夜野様」
「小町でお願いします」
「小町様には、貴方様を見つけた主に会って頂きます。お話があるようです。少々歩きますが、私に付いて来て頂けますか?」
私は小さく頷いた。
これからどうなるか分からない……だったら、素直に従うしか選択はない。
武術なんて体育の時にやった柔道くらいしか出来ないし、この場所から逃げるほど体力にも恵まれていないんだ。
この場所を調べるのがまず先決みたいだ。
私は制服に付いたゴミを払い布団を畳み、美人さんに付いて行く事にした。
「え……っと、あの、貴方の名前を教えてくれませんか?」
例の主に会う為、美人さんの後ろをひたすら付いて歩く私。
今更だけど……この霞染って料亭 めちゃくちゃ広い。
左右からは、食器の音や人の笑い声が聞こえてくる。
廊下には花々が綺麗に飾られていた。
私が寝かされていた部屋は、どうやら従業員の休憩用の個室だったみたいだ。
そして客室は、“葵の間”“菊の間”など花の名前が振り分けているらしい。
和風が好きな私にとって、この霞染の雰囲気は直ぐに好きになれた。
「ああ、申し訳ありません。私、霞染 若女将を勤めます、松島 風花[まつしま ふうか]と申します」
「松島さん?」
「はい。何かあったら気軽に声をおかけください。宜しくお願いしますね」
「あ、ありがとうございます」
すれ違う従業員さん達は前に歩いている美人さん同様、美人さんだった。
可愛い人もいるし、綺麗な人もいる、別々の個性があるものの共通点は“和服が似合う”って感じだ。
すれ違う人たちに小さく会釈をしながら歩いていると、松島さんはゆっくりと立ち止った。
「もしかして、ここが主の部屋……って奴ですか?」
「そうです。主は気さくな方ですから、固くなる必要はありませんよ」
「は、はい!」
ゴクリと唾を飲む。
固くなる必要はないって言われても、やっぱり緊張しちゃうな……。
心臓の鼓動が早くなるのが自分でも分かる。
深呼吸を繰り返していると、松島さんが部屋を開けた。
「初春[はつはる]様、彼女をお連れしました」
「風花ちゅわーん!!」
「きゃ!?」
松島さんが声をかけた途端、松島さんに抱き着く勢いで飛びかかった男が一人。
予想もしない出来事に、口を開けて唖然としてしまった。
……漫画にありそうな展開……。
男を避けた松島さんは冷めたように男を一瞥して、部屋の中に入る。
ごめんなさい何かカッコいいと思ってしまいました。
そして私に手招きして、部屋に入るよう促される。
この場をどうしていいのか分からず、おろおろしている私に松島さんは微笑んだ。
「あのー、あの人大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。いつもの事、いわゆる日常茶飯事ですから」
「そうなんですか!?」
松島さんが部屋の中にある座布団を取り出して私を座らせた。
流石、主っていう立場の人が生活するお部屋だ、とても広い。
彼が復活するまで ほうじ茶を飲みながら、部屋の中を眺めていると。
「いててて……もう酷いな風花ちゃん」
頭を抑えながら男が襖を開けた。
黒髪が所々ハネていて、第一印象は飄々としている人……いいオジサマって感じだ。
年齢はざっと40代と言った所か。
和服に身を包んだ男の人は、特等席らしきところにドカッと座って笑った。
黒の和服には、水仙の絵が描かれている。
いや、絵じゃなくてアレは家紋か。
「初春様、お客様がいるというのにそういう失態を犯すのはどうかと思います」
「すまんすまん、つい風花ちゃんが可愛すぎてな」
「本当に申し訳ありません小町様、主がこんな人で……」
「いっいえ!別に面白いから気にしま」
「本当!?」
深々と礼をされると逆にこちらが謝りたくなる。
手をブンブン振って気にしません、そう言おうとした言葉を遮られた。
男の人は嬉しそうに身を乗り出して笑っている。
……随分変わった面白い主さんだなぁ、松島さん滅茶苦茶苦労していそう。
「紹介しますね、小町様。こちらが料亭 霞染の主である初春様です」
「はじめまして。私は早緑 初春[さみどり はつはる]、この霞染の亭主をしているよ」
宜しくな、笑いかける男の人は私に手を差し伸べた。