錯乱
「ただいま」
「おかえり」
飛香が寝ているテントに優璃愛が帰ってきた。霧夜が出迎えるも、彼女の表情は影を落としている。
「ダメだった……のか?」
「ええ……絶対にダメだ、と言われたわ……」
「そっか……。とりあえず、お疲れ様」
霧夜が、ティーカップをテーブルに置く。中にはレモンティーが入っていた。自分の椅子の前にもカップを置くと、彼はふと、飛香に視線を向けた。
それを見た優璃愛が、カップをテーブルに置いて少し落ち着きを取り戻した口調で言った。
「大分、容体は安定しているわ。栄養も結構行き届いているし、早かったら今日にでも起きるかもしれないわね」
「そうか……よかった、ありがとうな」
霧夜の表情には少なからず安堵が混じっている。優璃愛はそのことにホッとした。ここ数日の彼の表情にはどこか堅さがあって、内心ではかなり心配していたのだ。
先日は、そんな状態の霧夜から逆に心配されて、その当日こそ彼に甘えた優璃愛だったが、後々考えてみると無理させていたんじゃないかと後悔していた。
(あの湖で一緒にいたときは楽しかったけどね……)
と、優璃愛は湖のほとりにある木の下で目を覚ました時のことを思い出し、顔から火を噴きそうなほど茹で上がった。
寝ている間に彼の腕を強く引っ張ってしまったらしく、腕を抱き枕に寝ていたはずが服を掴んで密着し、半ば抱き着くような格好で寝ていたのだ。しかもその時点で霧夜は目を覚ましていて、更に恥ずかしくなった優璃愛はしどろもどろして、呂律が回らなくなったことも覚えている。
「どうした?」
「う、ううん、な、何でもないわよ」
霧夜の一言で意識を現世に呼び戻された優璃愛は、あたふたとしながらも答えを返した。手に持っていたカップを落とさなかったのは僥倖と言えるかもしれない。
「いや、ただ……霧夜と今、ここにいるのが嬉しいなって思っただけよ。それより、今から買い出しに出てくるから飛香を見ててくれるかしら?」
「分かった。何ができるわけでもないけど」
旅団の配給がなくなって以来、霧夜たち三人は孤立した状態になった。食糧などは当然、底をつく。それからは、主に優璃愛が買い出しに出るようになった。資金は、霧夜が軍隊で貰っていた三年間の給料がほぼ丸ごと残っている。かなりの金額なので、向こう数年間は大丈夫だろうという結論に至った。
本当は治療のできる優璃愛が残って霧夜が買い出しに行くべきなのだが、敗戦以降軍人の排斥運動が激化している。万が一にも霧夜が軍人であることがばれれば、捕まって殺されるかもしれない。少なくとも優璃愛はその危険性があるほど空気が張り詰めていると感じていた。それに、優璃愛の方が買い物などの家事慣れもしている。
優璃愛がいなくなって手持ち部沙汰になった霧夜は、飛香のベッドのそばに椅子を持ってきて彼女を見守っていた。
呼吸は安定しているが、如何せん健康状態が最悪だ。幼い頃活発的だった面影はほとんど見られない。幽閉されていた時に着ていたメイド服はぼろきれと化していたので、今は優璃愛の服で小さめの物を着させている。体も酷く汚れていたが、今は一応清潔を保っていた。
しかし、霧夜は覚えている。幽閉されているとき、一時的に意識があった時の彼女の表情を。幼馴染であるはずの霧夜を警戒して、怯えていたその顔を。今、伏せられた瞳、伏せられた表情は何も語らない。しかし、一つだけ大きく、激しく言葉を発している所があった。
右目の下から上唇を通って下唇まで大きく真っ直ぐ切れた傷口は、彼女が刃物を振るわれていたことを如実に物語っていた。刃物による傷はそれだけではない。
飛香の首元、髪で隠されている額、左目の下、右鎖骨……見えるだけでも十か所以上だ。霧夜は、その余りに痛々しい傷から目を背けた。代わりに、全く傷のついていない下顎に視線を向ける。
暫く日に当たっていないその肌は白く、赤黒く腐った傷口との対比があまりに鮮明だ。優璃愛が傷口を刺激しないように気を付けながら傷口周りの血や膿を取り除いて清めたものの、包帯を巻くことはできず、絆創膏のようなものでは気休めにしかならない。
「ッ……ぁ、ぁあ……」
「――!」
飛香が苦しみに喘いだ吐息を漏らす。直後、痙攣が起こって痛々しい悲鳴がかすれ声で吐き出された。表情が苦痛に歪み、唇の塞がれた傷口の中にある膨らんだ血溜まりから黒色の濁った血が飛び出して彼の手にかかった。
その血は、普通の血生臭い臭いではなく、腐った血の臭いを発していた。
霧夜はゴクリと唾を呑み、服で血を拭いた。
「い……や……」
飛香の目が僅かに開かれている。霧夜は思わず息を大きく吸い込んだが、次に彼女の口から放たれた言葉は彼を絶句させるのには十分だった。
「こ……ない、で……もう、ボクを……! いや、もう……もう殺して! 殺してぇぇぇッッ!!」
「あ、飛香!? どうしたんだ、落ち着いて!」
それまで眠っていた少女とは思えない、錯乱した叫び。点滴の針が抜け、傷口が裂けて血が噴き出した。暴れだしたので、霧夜は彼女の腕を押さえつけ、押しとどめる。
「来るなぁぁぁっっ!! 触るなぁぁぁああああああ!!」
「どうしたと言うんだ、落ち着け!」
霧夜が声をあげようと、飛香は暴れることをやめなかった。口から血が飛び出し、咳き込んでも、霧夜の腕を振りほどこうとする。
無論、彼はそれに逆らわないが、腕を離すと今度は霧夜自身に攻撃してきた。点滴の台を倒し、傍にあるものを投げつける。
「飛香!」
「何で名前を……げほっ! 知っている! お前なんかに……呼ばれる筋合いはない! 来るなぁぁぁぁああああああああ!!」
おかしい。霧夜は直感的にそう感じた。いくらなんでも動きが早すぎる。先程まで昏睡状態で、幽閉されていた時も自分では一歩も動けなかったのだ。それが、今では大暴れである。
しかし、今霧夜がテントから出て何かあってしまうと、彼は自分を許せないだろう。それに気づいているから、霧夜は投げつけられるものを躱してテントの中に残り続けた。
「霧夜ーお疲れ様……痛いっ!」
と、買い物から帰って来た優璃愛がテントに入るタイミングで、飛香が投げつけた陶器製のカップが優璃愛の額に直撃した。
それでも買い物袋を落とすこともなく周りを見渡し、飛香と視線が合った。
「ひっ……」
「落ち着いて。ここは、あの屋敷の中じゃないのよ。霧夜、外に出ていてくれるかしら?」
優璃愛の声は落ち着いていた。焦っていた霧夜とは大違いで、飛香の手の動きも止まった。袋を霧夜に預けて、飛香の手を取る。
「わたしも、霧夜も、貴女の味方よ。だから、落ち着いて。話を聞かせてくれる?」
「貴女は……誰? あの男と何か関係があるの?」
飛香の声はまだ疑いを孕んでいたが、霧夜に投げつけた絶叫と比べると落ち着いていた。優璃愛の目を凝視しながら体を小刻みに震わせる。怯えていることは見るまでもない。
飛香の手がだらりと下がり、手に持っていたカップが毛布に落ちた。
「貴女が辛い思いをしてきたのは分かっているわ。だからこそ、話してほしいのよ。貴女がスッキリするまで」
「……近寄らないでよ。貴女も……まだ怖い」
それを言うなり飛香はベッドに潜って頭まで毛布をかぶった。その後は優璃愛が声をかけても反応が無く、何かを噛み切るような音だけが断続的に続いていた。