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呪手記  作者: 青黒水龍
呪手記 ―Ancient documents of a nightmare and hope―
7/21

安息

 数日経った。飛香は今も昏睡状態のまま、点滴を受けている。点滴の中は呪術だけでなく、医術にも心得のある優璃愛が面倒を見ている。長期間食事を摂っていなかったらしく、呪術による回復だけでは生命力が保たないそうだ。そもそも、優璃愛の持つ膨大な霊力は、霧夜の傷を治療したためにほぼ枯渇状態になっている。その甲斐もあって、霧夜の体に刻まれていた火傷や切り傷は、この数日でほぼ完治した。

 優璃愛は、本当であれば旅団の医薬品を使いたいと思っているだろう。戦前まで日本で流通していた高価な医薬品がそろっているのだ。飛香の回復も格段に早まるはず。

 しかし、不幸なことに旅団のリーダーは排他的だった。元軍人である霧夜はおろか、病床の飛香にまで医薬品やテントは使わせないと言い張り、結果として優璃愛との確執を生むことになった。旅団内の彼女の立場も悪くなり、仲の良かった給仕の女性とも話さなくなっている。

 霧夜から旅団に交渉することはできない。見込みが全くないからだ。

 寧ろ、霧夜の仕事は可能性のない交渉ではない。今、彼の中で一番大切な仕事は、優璃愛にリラックスできる場所を教える事だ。――逆に言うと、それくらいしかできることがない。


 ●●●


 霧夜は飛香が寝ているテントの傍で腰を下ろしていた。中では、優璃愛が飛香の点滴の交換をしている頃だろう。彼女の容体は安定しているらしく、このまま治療を続ければ一週間以内に意識を取り戻す筈、とも言っていた。

 しかし、ここ数日優璃愛は殆ど寝ていない。一日に二時間も寝ていない日が一週間近く続き、特にこの二日はまったく寝ていない。

 彼女は最近、旅団内での居心地が悪くて寝つけないと霧夜に愚痴を零していた。それを聞いた彼は、少し散歩に出ようと優璃愛に持ちかけたのである。彼女が愚痴を言うなど、相当に珍しいのと同時にストレスが溜まっている印なのだ。

 優璃愛はその申し出をすぐに受け取ってくれた。飛香の容体が安定し次第出発したいと言っていたので、霧夜はテントの外で暫く待つことになった。

 約五分後、優璃愛はテントから出てきた。淡いグリーンのワンピース一枚だけを身に纏った、彼女にしては珍しいくらいの薄手の衣装だ。右手で、花をあしらった帽子が風で飛ばされないように押さえて、左腕には小さなショルダーバッグを提げている。高めのヒールを選んでいるらしく、今日の優璃愛はいつもより身長が高く見えた。


「おまたせ……霧夜」

「お疲れ、じゃあ行こうか」


 それまで座っていた霧夜が立ち上がり、ズボンに付いた草を払い落す。それから、優璃愛の斜め右前二歩先を歩き始めた。しかし、優璃愛は早歩きになって、すぐに霧夜に追いついてすぐ左に並ぶ。身を寄せるようにする歩き方に違和感を感じた霧夜は、半歩右に動いた。すると、優璃愛も半歩右に動いてすぐに並ぶ。そして、霧夜と手を繋ごうとした。


「止せよ、恥ずかしい」

「いいじゃない、幼馴染なのよ? 小さいころはよく手を繋いでいたじゃない」

「確かにそうだが……」


 霧夜が視線をそらす。いくら幼馴染と言えど、十人中十人が振り返るほどの美少女である優璃愛を完全に意識するなと言うのは無理難題なのだ。薄手のワンピースがよく似合う彼女は、名家のお嬢様顔負けの気品に満ち溢れた色香を発している。

 優璃愛から、女性に対して枯れているとまで酷評を受ける霧夜でも、彼女の事を全く意識していないわけではない。その上、彼女の方からくっついてきているのだ。あり得ないと思いつつも何か意識してしまうのは仕方がない事だろう。


「それにしても、こんな森の中を通るの?」

「別ルートがないからな。道は覚えているから大丈夫だ」

「別に心配なんてしていないわよ。そんな事より、森の精たちが受け入れてくれないんじゃないの? ほらもう来たじゃない!」


 と、優璃愛が言い終わるのとほぼ同時に、数十羽の鳥が一斉に突っ込んできた。同時に強い風が吹き荒れて葉がこすれ合い、草がざわついた。どうやら森の精……いわゆる“自然”が霧夜達を追い出そうとしているらしい。この鳥は警告のようだ。

 その警告を前方にのみ展開する簡易結界で弾く。そして、大きく息を吸い込み、

「“自分たちはこの奥に行きたいだけだ! 自然に危害を加える意図は無い! 受け入れてくれないか?”」

 霧夜が南東を向いて空に呼びかける。今二人がいるのは森の北西の位置であり、森の中心は南東にあるからだ。森の精はその森の中心に存在している。

 霧夜の声がこだまのように森に響くと、鳥の群れが引き下がった。風も止み、草木のざわつきも無くなった。


「行こう、受け入れてくれたみたいだ」

「手なずけちゃうなんてね、やるじゃない。でも、奥に何があるの?」

「それは行ってからだな。あまり知られていないところだよ」


 霧夜が微笑を零すと、優璃愛の頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。そのしぐさにもう一度微笑を零して、少し呆けている彼女の腕を軽く引っ張って促した。

「わ、わっ」

 いつもの冷静な彼女らしからぬ、慌てた声。木の根につまずいたわけでもなく、足がもつれて転びそうになっていた。

 霧夜が通る道は大体がけもの道で、まばらに草木が邪魔をするところもあった。そういうところも一つ一つ手でかき分ける。森が受け入れてくれたおかげで、虫や獣が襲ってくることは無かった。

 そうして、道なき道をかき分けつつ進むこと三十分ほどしたとき、不意に道が開けた。代わりに、踏み均された細い一本道が姿を現した。その奥はさらに開けている。気温も少し下がって、快い風が吹いている。


「ここは……? すごく空気がきれいで、落ち着く……」

「湖だよ。精霊の力も少し働いているかな」


 霧夜が案内した目的地は、底が見えるほど澄んだ水の湛える小さな湖だ。周りを森林に囲まれていて、外からでは見えない。

 美しい風景に顔を輝かせた優璃愛が、小走りで湖に向かった。そこでショルダーバッグからビーチサンダルを取り出して、履き替える。

 湖に一歩踏み込み、足元の水をすくって一口飲んだ。


「冷たいし、甘くて美味しい……」

「たまに、ここに来てたんだ。昼寝にな」

「何で今まで教えてくれなかったのよ」

「いや、忘れてたんだよ。教えようとは思ってたんだけどさ」


 と、事実を淡々……と言うにはかなり語弊があるくらい詰まりながら、霧夜が優璃愛に弁明している。その焦りの表情に、優璃愛はクスリと笑った。そして、すくった水を霧夜にかけた。霧夜はそれに対してかけ返す。

 暫く水の掛け合いの応酬が続き、何度目か霧夜が水をかけられたとき、やり返そうとして不意にその手の動きが止まった。


「霧夜?」

「ゆっ、優璃愛……」


 霧夜が目をそらした。優璃愛は自分の服を見渡して、彼が目をそらした原因を理解し――顔を真っ赤にした。

 優璃愛は、動きやすいように薄手のワンピース一枚で来ていたのだ。水にぬれた部分が肌に張り付き、体のラインを露わにしている。

 優璃愛が湖から飛び出し、呪術を行使した。簡単な熱を発生させて、わずかな間に服を完全に乾かす。


「ご、ごめん……」

「ま、許してあげる。うーん……いいなぁ、ここ……って言うか、どうやって見つけたのよ」

「見つけたっていうか、中国から撤退中に撃ち落されてここに来たんだよ」

「えっ……」


 優璃愛が狼狽した声を上げた。僅かな声量だったが、霧夜には十分届く距離だったのだ。そして、優璃愛はまくしたてるように霧夜に詰め寄る。


「でもわたしが霧夜を見つけたのはもっと、旅団のキャンプに近いところだったわ」

「っと……この話はおしまい。さ、腹減ったし、昼食にしないか?」

「今度教えなさいよね」


 優璃愛は頬を膨らませながら、ショルダーバッグから小さなバスケットとお茶の入ったペットボトルを二つ取り出した。


「あの木陰に行かないかしら?」

「そうだな。おお、ベーグルサンドか。美味しそうだ」


 僅かに開いたバスケットから垣間見ただけだが、霧夜にはそれがベーグルサンドだとすぐに分かった。以前から、優璃愛は出かけるときの昼食としてベーグルサンドを作ることがよくあったのだ。

 優璃愛が先導して移動した巨木の下は、湖が一望できる位置にあった。彼女はそこでショルダーバッグを木の根もとに置いてバスケットを開き、中に入っているベーグルサンドを霧夜に手渡した。

 大きく作られているそれにかぶりつくと、レタスがシャキッという音を立て、辛味を混ぜたマヨネーズが刺激のある味を醸し出していく。

 霧夜は幼い頃から辛い物が好きだ。三つ子の魂百まで……というわけではないが、今でも辛い物を好む傾向があるのは事実。優璃愛はその傾向もよく記憶して味付けをしていたのだ。

 霧夜が微かに笑顔を浮かべると、優璃愛はそれを上回るような笑顔を見せた。最近遠のいていた、彼女の本当の笑顔。


「ふあ……ん、眠たい……」

「疲れているんだ。少し寝たらいいよ」

「うん……ここは甘えるわ」


 そう言うと、優璃愛は不意に霧夜の右腕を取った。そのまま抱き枕にして、肘の少し手首側に左頬を乗せた。少し頬ずりをして、彼女は目を閉じた。今、優璃愛はワンピース一枚の薄着で、肌の温もりも直に伝わってくる。

「―――!」

 霧夜の心臓の鼓動が跳ね上がった。包み込まれた腕に伝わる温かい感触、彼女の上気した頬がとても幸せそうに見えたのだ。そう言えば、と霧夜は思い出していた。

(俺が軍隊に所属すると決まった時も、こんな風に抱き着かれたっけ……。あの頃はまだ子供だったけど、今同じことされると、すごく恥ずかしいんだが……)

 しかしその一方で、優璃愛の寝顔を見ていると、このままそっとしておいてやろう、としか思えなくなる。いつもの彼女では見えない、子猫を連想させるような表情など早々見れたものではない。

 暇になった霧夜は、自分も寝てしまうことにした。優璃愛を起こさないように気を付けて体を動かし、木の根を枕にして目を閉じた。時々、腕を強く抱き締められるせいで心が落ち着かないが、邪念を振り払って意識を夢に預けた。日は西に傾いていた。



――霧夜、行っちゃうの――?

――仕方ない事だよ。俺は呪術師なんだから――。

――才能って時には悲しくなるのね。離れたくない――。

――霧、必ず帰ってきてよ――。

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