救出 ‐終編‐
走る。ただ、走る。霧夜は飛香を抱きかかえて、地下室を駆け抜けていた。
迷い地獄は優璃愛が来る際に半分近く壊されていた。よほど急いできてくれたらしく、破壊された部分と呪術がかかっている部分とで空間の歪みが生じている。霧夜はその歪みを見て、優璃愛が通ったであろうルートを逆走しているのだ。
「飛香、もう少し、頑張れ! あと、あと少し、だから……!」
彼の腕に抱きかかえられている飛香から、反応は無かった。既に意識を失っていて、そればかりか苦しそうに喘いでいる。熱っぽく赤らんだ頬と、激しい呼吸が彼女の苦痛を痛いほどに表わしていた。
霧夜自身も息が上がっていて、足がしきりに悲鳴を上げている。ふらついて、時折壁にぶつかりそうになっていた。これではすぐに動けなくなると考えた霧夜は、一度立ち止まって二、三度深呼吸をし、新鮮な空気を肺に取り込もうとした。
刹那、道を覆い尽くすほどの業火が彼と飛香を巻き込んだ。
殆ど意識しない内に、二人は炎に飲み込まれ、流されていた。幸い、業火を見てから発動した結界が間に合っているので、二人そろって焦げた肉塊になることだけは避けることができた。
しかし、二人の体は周りの結界ごと流されてしまったので、どこに向かっているか把握できない。周りを見ようにも、紅蓮の炎ばかりで壁すらも見えない。
そのうえ、結界を通り越して熱が侵入しようとしている。霧夜が発動した防御結界は、衝撃と熱を防御するようにできている。しかし、高温の炎を浴び続けることによって、結界の防御の内の熱遮断が破られかけているのだ。
迷い地獄を破った空間の歪みも、少しずつではあるが修復されてきている。歪んでいる部分が段々と元に戻ってきているのだ。あと数分もしない内に結界は完全に修復され、出口の見えない迷路を延々と彷徨うことになる。
肺に酸素を取り込もうと必死に喘ぐが、喉を焼き切ってしまいそうな熱されたモノだけが入り込んでくる。飛香の口だけは何とか塞ぐが、彼の喉は乾いていく一方だった。疲れの汗は、いつの間にか肌を熱される汗に変わっているが、服は燃える寸前だ。多少でも防火素材を含んでいることが幸いしているようだ。
無論、このままでは飛香の命が危ない。霧夜に行動を選んでいる余裕はなかった。
刹那、パアンと風船の割れるような音がして、炎が周囲に拡散した。結界拡散呪術――《逆風》。結界を自ら破壊する力によって周囲に衝撃波を生み出す攻撃呪術だ。一時的ではあるが、迫る炎は押し戻されている。その隙に、僅かに確保された酸素を大きく吸い込んで口を閉じる。
(少しの間だ、我慢してくれ!)
そして、限界の近づいている足で力強く駆けだした!
――熱い!
火攻めに遭うとは、こういう感覚なのだろうか。
辺りからうねりを描きながら襲ってくる炎の一歩先を駆け抜け、僅かに歪みの生じている場所を突破する。見開いた目は炎の熱気で乾ききって、凄まじい痛みが神経を貫く。
石畳の床を滑るように、熱気が先行して靴を焼いていく。まるで、フライパンの上で踊らされているようだ。おそらくは、地下室の不衛生な環境で生きている生き物も一掃されてしまっていることだろう。
汗は出ていない。後ろから迫りくる炎が乾かしているからだ。飛香は既に呼吸が止まっているらしい。それを見た霧夜の表情に焦りの色がますます濃くなった。
(死なせて、たまるものか。やっと、自由を、手に入れ、た、んだ)
肺の酸素はほとんど枯渇し、視界が赤く染まり、自分がどこを走っているのかもわからなくなった。結界は完全に修復され、時折見える曲がり角を己の間に従って曲がり、時に直進する。
体中が焼かれているようだ。軍服のボタンが焼き石のように熱い。服に炎が移っているのは気のせいではないようだ。
飛香にかけていた結界も既に壊れていて、彼女の服も端のほうから焦げ始めている。地面が石畳なのが最期の救いだ。崩落する心配だけは無い。
霊力もほぼ底を突き、次の結界を展開することはできない。剣を置いてきたおかげでまだ残ってはいるが、ほとんど意味を成さない。
炎が霧夜の体に絡みつき、彼の軍服に火が燃え移った。声にならない悲鳴があがる。
足がもつれ、何度か壁にぶつかる。呼吸ができなくなって自然と涙が滲んだ。むき出しの眼球は乾ききって視力と言う体を成していない。
もうダメかもしれない。彼の脳内に刹那、諦めの言葉が浮かんだ。肌が火に焼かれて、焦げるような異臭を発している。嗅覚が麻痺して、思わず飛香を抱きしめた。膝が床に付き、動けなくなる。
しかし――
霧夜は懐から一枚の紙――呪符を取り出す。それを床に置いて、残った霊力を使って呪術を行使。飛香の周りに人一人が入られる程度の結界が浮かんだ。その周りを黒色の鎖が放射線状に囲む。
防御性結界、《黒の鎖》。赤の鎖とは違い、決められた暗証句を詠むことによって解除できる結界だ。この暗証句は優璃愛であれば知っている。そして、黒の鎖の防御性能は赤の鎖に匹敵する。
(頼んでばっかり、か……)
霧夜の体がうつ伏せに倒れ、床に付いた頬が直接熱せられる。体中が炎に包まれ、痛みや熱といった感覚が失われた。
霊力を使い果たした呪術師は呪術を行使できない。もはや霧夜に残った霊力では実体化することもできない。
黒の鎖は炎を完全に防いでいた。それを見届けると、彼は瞼を下した。彼の中の軍人は、弱い者を守り、自らが犠牲になる役目を果たしたと言った。白水少尉は栄誉なる戦死を遂げた――と。
●●●
「き――や、きり――、霧夜―――」
脳裏で霧夜の名を呼ぶ声が響く。同時に、彼の体を優しく揺する手の平の間隔があった。頬に僅かに残っていた熱の間隔は無く、背中が柔らかな素材の上に乗っている。
――まるで、黄泉の雲のような――
「霧夜!」
と、力強い声で名を呼ばれ、一気に目が覚めた。刹那、強い光が目に飛び込んで視力が失われる。強く目を瞑って、それからゆっくり開くと、視力は戻っていた。霧夜はベッドの上に寝かされていた。顔のすぐ左の位置に置いてある椅子の上に優璃愛が座っていて、大きく身を乗り出していた。服装はいつもよく着ている、肩とへそを露出させたエメラルドグリーン色のブラウスにホットスリットだ。しかし、右頬の所に火傷した跡が残っている。
「良かった、気がついたのね。――良かった……」
優璃愛は、自分の傷など全く意に介せずそう言うと、霧夜の左手を取って自分の頬に当てた。頬ずりするようなしぐさに、思わず彼の心臓が跳ね上がる。彼女の伏せられた瞼には涙が浮かんでいて、今にも零れそうだ。
「ゆ……優璃」
「あっ、まだ無理に話さないで。体中が火傷しているんだから。もう呪術で完治できる範囲を超えている部分もあるのよ」
「そんなこと、どうだっていい。飛香はどうなんだ?」
霧夜は真っ先に飛香の容体を問うた。すると、優璃愛の表情が暗くなる。少し俯いて、彼女らしからぬ小声で呟いた。
「意識不明よ。霧夜のおかげで大火傷は免れたけど、栄養失調が著しいのよ。悔しいけど呪術ではどうにもならないから、点滴を打っているわ」
「そうか……」
優璃愛の答えを受けた霧夜は、包帯を巻かれた体を無理矢理起こそうとした。しかし、すぐに優璃愛の制止が入る。
「動いちゃダメ。わたしが見つけたとき、霧夜は炎に包まれてたのよ? 本当に心配したんだから。三日も目を覚まさないで……」
「三日!? ――い痛っ」
三日。霧夜にとって、一瞬で過ぎ去った時間だ。その間、優璃愛はほとんど寝ずに霧夜の看病をしていた。飛香の面倒も見ながらの事だ。彼はそのことに気づかないほど鈍感ではない。
「ありがとう」
短く、簡潔な礼。優璃愛にはそれで十分だった。彼女にとって、霧夜が助かっていることが最優先事項であり、自分の事は二の次なのだ。
「私のベッドは飛香ちゃんに貸しているからだけど、こんな粗末な所でごめんなさいね。団長が医務室を使わせてくれなくて……」
「別に気にしなくてもいいんだけどな。嫌われているし」
まるで、自分に責任があるかのように声のトーンを沈ませた優璃愛に、霧夜はいつもより淡泊な言葉で答えた。しかし、その声はあくまで優璃愛を宥めるような落ち着きがあった。
もちろん、優璃愛もそのことに気づいている。霧夜に一つ微笑むと、彼女のテントの端にあるキッチンの上に並んでいた料理をベッドまで持ってきた。
並べられたのは、冷や奴とお粥なのだが、お粥にはチーズが加えられていてリゾットのようになっている。リゾットを加熱した後で冷やしているのは、霧夜が喉を火傷しているからだ。それに、あまり食欲がないところも見抜いている。元より霧夜はあまり食べる方ではないが、いつもであれば冷や奴とリゾット風粥だけでは到底足りない。しかし、今はそれで十分だった。
「お粥もできるだけ冷ましたけど、一応気を付けてね」
優璃愛はそう言いながらイチゴのヘタを取っている。そして、取り終わったイチゴを縦に三等分していく。
霧夜は粥をつつきながら、優璃愛の顔を見つめた。
非の打ちどころのない白い肌は、あらゆる穢れを浄化しそうな輝きを持っている。日本人離れした秀麗な顔立ち。
「霧夜、何見てるのよ……」
「あ、あっ悪い」
優璃愛が視線に気づき、頬を赤くして視線を逸らした。羞恥を含んだ非難の視線を浴びて、霧夜も我に返る。優璃愛はそっぽを向いてしまったが、その代わりにベッドに腰掛けた。
「イチゴ私一人で食べちゃうわよ」
「そ、それは許してくれ……」
爪楊枝を刺した、練乳に突っ込まれているイチゴを取り出し、霧夜に見せびらかすようにして、優璃愛は人の悪い笑みを浮かべた。そして、二つ、三つと食べていく。
「冗談よ」
霧夜の表情が情けなくなったところを見計らって、優璃愛は爪楊枝を霧夜に手渡した。霧夜も同じようにイチゴを練乳に付けて口に放り込む。
「へえ、甘いな」
「美味しいわよ、イチゴ以外にもパンに塗ったら良いわ」
現在、甘い物は貴重品だ。不況のどん底に穴が空いたような不況と敗戦の影響で、日本の経済が立ち行かなくなっている。
国民の大部分は、この事態の原因を軍人だと考えている。霧夜がこの旅団でも冷遇を受けているのは仕方のない事だ。少なくとも霧夜はそう考えている。
そして、優璃愛はそう考えていない。
「優璃愛?」
「えっ? あ、ちょっと考え事をしていただけよ」
「そうか……。この足もいつになったら動くんだろうな」
「飛香ちゃんの面倒なら任せて」
そう言って、優璃愛はニコッと笑った。力強さと優しさを含んだその表情は、まるで天上の女神のように見えた。