救出 ‐後編‐
「あ、ぐあぁっ!?」
岩瀬の呪術によって、剣が唸りを上げて振るわれた。動かない体で首だけをひねり、何とか急所を斬り裂かれることは避けたものの、剣閃が霧夜の肩を抉り、骨を砕いた。しかし、彼の体は揺るぎもしなかった。蜘蛛糸の呪術は、この程度の衝撃を積み重ねても破れないほどの丈夫さを持っている。しかし、いくら強力な呪術と言えど、大抵の場合は限界が存在する。この蜘蛛糸も、何度も振るわれた剣によって、耐久力が十分の一以下まで落ちていた。
それを理解していた霧夜は、剣の一撃を受け流すと同時に体をひねって、残った僅かな糸を引きちぎった。
「ほう……?」
「飛香、ゴメンな。少し痛いだろうけど、我慢してくれ」
やや沈んだ声で飛香に詫びを入れると、岩瀬とは反対方向に向かってその体を放り投げた。彼女の体が床に叩き付けられる直前、床の素材を軟化させる呪術を連続で発動し、極力衝撃を和らげる。それを見届け、すぐに次の呪術を行使した。
紋章が霧夜の足元に出現し、彼と岩瀬の周りの床から赤錆色の鎖が何本も飛び出した。それは天井で交錯し、幾重にも絡まっていく。
「鎖……結界か。しかし、これほどの物を」
最高結界呪術、《赤の鎖》。結界の中では最も強固とされる呪術だ。結界の外側から内側へ干渉することはもちろん、内側から干渉することもできない。術を破るには、術者の命を奪うしかない。本来ならば、何十キロも離れた場所から呪術の効力や速度を上げる呪符を何枚も使い、数人がかりで長時間かけて発動する呪術である。
岩瀬が感心したのは、それほどの強力な呪術をたった一人で、しかも呪符も使わずに一瞬で行使して見せた霧夜の能力の高さだ。
瞬く間に半径五メートルの結界ができあがる。
「確かに、これほどの結界を壊すのは不可能。白水少尉にはいよいよ死んでもらうしかなさそうだ」
「その前に、飛香が何故あんなところに捕まっていたのか、しっかりと聞かせてもらいます」
「いいだろう」
彼の放つ殺気を感じ取ったのか、岩瀬は拍子抜けするほどあっさりと答えた。岩瀬の口元が狂気に歪んだ。
「確か、姫路とか言ったか。あやつは、この家で召使いをしておった。だが、儂の見知りの貴族たちがな。……あの者を使いたいと言い出してからだ。あとは、白水少尉が己で考えるがよい。あやつは、もう助からん。それは白水少尉も分かっているだろう」
確かに、飛香の命は風前の灯だ。一刻も早く治療を受けさせないと、本当に死んでしまうだろう。しかし、霧夜の意識はそれ以上の事で上書きされていた。
「な……貴族共は……飛香を遊びものにしたと言うのか……? 伯爵はそれを許可したのですか……?」
霧夜の声は怒りと驚愕で震えていた。飛香は霧夜の事を覚えていない。それは、執着深い貴族が彼女に精神的だけでなく肉体的にも苦痛を与え続けた結果、ショックで記憶が飛んでしまったのではないか。彼はそう考えた。
そう考えると、元凶となった目の前の男が許せなくなった。霧夜は剣の柄を握りしめると、喉の奥底から金切声にも近い叫び声をあげた。
「まだ! 俺よりも年下の女の子を! 貴方はあんな奴等に渡したと言うのかぁぁぁ!!」
怒りに呑まれた霧夜に冷静さは残っていなかった。帯剣を上段に構え、正面から岩瀬に斬りかかる。
「逆上した虎は隙が多い。防御が、がら空きだぞ」
岩瀬の足元に紋章が浮かぶ、と同時に彼の手の周りに黒色の球体が五つ浮かんだ。その手を前方にかざすと、球体が一列に並んでまっすぐ飛んで行った。
球体は霧夜の体に入り、次々と爆発を起こす。
「口ほどにもないな、白水少尉」
「あっ……ぐ……」
霧夜が岩瀬の手前一メートルの位置に崩れ落ちた。軍服が引き裂かれ、赤く変色している。口からは井戸から水を汲むように血が溢れ出し、体の痙攣が止まらない。
人を殺すことを前提とした攻撃系呪術、《血吐地獄》をまともに受けた。波の呪術師であれば一撃で体が破裂するほどの威力を真正面から受け、生命がある方が凄い事だ。
「立ち上がるか」
岩瀬は小さく呟いた。霧夜はふらつきながらも立ち上がり、帯剣を構えなおした。その目に宿る光は未だ健在で、放たれる殺気も増幅していた。
二、三度呼吸を整え、右腕の袖で額の汗を拭った。
(優璃愛……頼む、気づいてくれ!)
心の中で祈りつつ、霧夜は真正面から斬りかかる。岩瀬の呪術に対抗しうる力は、彼にはない。だからこうして少しでも霊波をまき散らして優璃愛に気づかせようとしているのだ。
無論、危険すぎる方法である。霊波をまき散らす際に削られていくのは、霧夜自身の命だ。長くは保たない。
血吐地獄を帯剣の平で受け止める。一発、二発、三発までは受け切ったが、四発目で剣が弾かれ、態勢が崩れた。五発目は血だらけの腹に命中し、体内で爆発した。
衝撃は足まで響き、臓器が破裂したことを否応なく感じさせられた。上下感覚、色彩感覚が異常を起こし、視界が白黒になった。その視線の先では岩瀬が高笑いしていた。
並みの人間であれば、内臓が破裂すれば、そのまま即死してもおかしくないだろう。しかし、呪術師であれば即座に応急処置を施せるのだ。霧夜は無意識のうちに、破裂した臓器を簡単に治療した。
「次で詰みのようだな。もう立ち上がる力も残って……ほう」
帯剣を支えにして、霧夜は再び立ち上がった。ボロボロの体は生命力を失いかけているが、放つ殺気は未だ健在であった。
視界は赤く発光している。体中が痛みで悲鳴を上げ、剣を振ることすらも叶わない。岩瀬の姿もろくに見えず、次に何を仕掛けてくるのか把握できない。
刹那、霧夜の体が大きく弾き飛ばされた。空中で血反吐を吐き、背中から結界の壁となっている鎖に衝突する。
肺に残っていた僅かな空気までもが吐き出され、彼はうつ伏せに倒れた。口元と腹部に感じる、僅かな温かさを持った液体は血だろうか。
口の中は血の味が充満し、鼻孔は血液と淀んだ死臭で感覚をなくしていた。体に、起き上がれと命令するも、応答はない。カツッと岩瀬の靴が床を鳴らす音がした。
岩瀬が操る剣が霧夜の喉元に当てられた。このまま力を入れて押し込めば、喉を貫いて即死させられる。しかし、彼が岩瀬に抗う力は既に無くなっていた。
――死ねない。今、ここで死ねば、飛香も殺される。
霧夜は大きく目を見開き、右の裏拳で剣の平を殴り飛ばした。弾き飛ばされた剣によって顎に深い裂傷ができたが、今の彼にそのようなことは全く気にならなかった。
「うおおぉぉぉッッ!!」
落ちている帯剣を引っ掴み、左に大きく振りかぶると、腕の骨が大きな音を立てて軋んだ。折れているようだが、痛覚は完全に遮断されていた。目は迷いなく岩瀬を睨みつけ、辺りに霊波をまき散らしながら剣を薙いだ。
が、岩瀬はそれでも冷静だった。右手に、筋力強化の呪術を施して一撃に耐え、流れるようにして霧夜の帯剣を跳ね上げた。そして、がら空きになった胴に二発突きを入れる。一発目は肉を抉る衝撃があった。二発目は堅い物を打ち砕いた感覚があった。おそらくは肋骨を砕いたのだろう。――終わり。岩瀬がそう確信した瞬間。
「離れなさい!!」
突然、風の砲弾が岩瀬に向かって飛んで行った。気体操作呪術、《真空砲》。ただ空気を圧縮して放出するだけだが、物にぶつかると小さい爆発を起こす。岩瀬は本気の力で回避行動をとったことで、難を逃れることができた。真空砲は壁にぶつかり、直径十センチほどのクレーターを作った。
真空砲を撃った者は、優璃愛だった。呪術を弾く盾状の結界を四方に展開しながら、霧夜の元へ駆け寄る。暗いせいで、優璃愛は霧夜に近寄るまで彼の胴体が抉れていることに気付けなかった。
「霧夜!!」
優璃愛は泣きそうな声で言った。霧夜の頭を抱き起し、膝に乗せる。そして、治癒呪術を発動した。
「優……璃愛、飛香、を連れて退却しろ……」
霧夜が一言発するだけで、彼の口からどす黒い血が漏れ出してきた。優璃愛が横向きに膝枕しているので、彼女のワンピースに霧夜の血が染み込んでいくが、彼女はそのことを気にしていない。優璃愛の意識は、霧夜の傷を癒すことにのみ傾けられていた。
岩瀬は、最初は無抵抗の優璃愛を始末しようと血吐地獄を撃っていたが、ついぞ彼女の防御結界を貫くことはできなかった。
そして、その結界は霧夜の四方にも展開されている。意識は治癒の呪術に行っているが、無意識のうちに霧夜にも防御結界を展開していたのだ。
優璃愛は惜しみなく霊力を放出し、霧夜の傷を急速に回復させていった。僅か一分の内に血吐地獄で受けた傷が完治し、立ち上がれるようになった。
「あの傷が完治したか……。これほどの呪術師、軍にもいなかったな」
「そんなこと、どうでもいいわ。貴方には、霧夜を傷つけた罰を受けてもらうわよ。……霧夜、先に」
「ありがとう」
すれ違う際に、霧夜が耳打ちした。すると、優璃愛の頬にたちまち朱が差した。慌てふためいて左右を見渡し、胸に手を当てた。
ドクン、ドクンと心臓がいつもより早いペースで鼓動を刻んでいた。こんな時に、と自分を叱りつけるも、収まる気配がない。
飛香を抱きかかえ、重傷人の体に負担をかけない程度の速度で早歩きする彼の後姿を見届ける。
その背中はどこか小さく見えた。
優璃愛が向き直ると、岩瀬が不意を突いて血吐地獄を放った。しかし、当然のように防御結界に阻まれ、拡散する。
反撃と言わんばかりに、今度は優璃愛の足元に魔法陣が浮かんだ。彼女の手の平から真空砲が発射された。さらに、一つ目の魔法陣が消える前に次の魔法陣が浮かび上がる。
四つの球体が優璃愛の周りに現れ、四方向から湾曲しながら岩瀬に向かって突き進んでいく。《電光球》という呪術だ。さらにもう一つ、重ね掛けをする。
岩瀬の位置に直接氷塊が発生して、砕けた。拡散する無数の破片が岩瀬に突き刺さり、ささらのように砕け散った。大気呪術、《獄寒塊》
「ぶはぁっ! く、くそ……」
今の優璃愛に、容赦という言葉は無かった。躊躇なく呪術を連発し、岩瀬を追い詰めていく。防御結界も破壊できず、優璃愛の呪術にも対抗できない岩瀬に勝ち目はなかった。優璃愛の瞳は、静かな怒りに燃えていた。
「貴様……ならば道連れに!」
岩瀬の足元に魔法陣が浮かぶ。
――刹那、地下室が炎に包まれた。その炎は防御結界に阻まれてはいるが、熱だけは優璃愛の肌に直接突き刺さる。
――悪魔が扱うとされる、禁断と呼ばれる呪術、悪魔呪術。そのうちの一つ、《煉獄魔境》。