生死
魂は、肉体の命が尽きたときその体を離れる。そのまま黄泉の国へと昇り、そこで世界の一部となる。一度昇天した魂は、二度と下界には降臨しない。
法華経を読み終えていない魂は戻ってくる、神の御霊に祝福された魂は復活するなどの言葉は古来より存在しているが、確かなものは存在しない。呪術で死者を復活させる方法は無く、傀儡としての復活になる。――ただ一つの呪術を除けば。
禁術として封印され、ほんの僅かな人々によって現代まで伝えられた呪術。必要となる媒体、リスクの大きさ故に行使する者は誰一人としていなかった。
行使に伴って必要となる媒体は、術者の生命。すなわち魂。
呪術の失敗によって発生するリスクは、術者の死亡。
仮に成功したとしても、術者の寿命が大幅に減退する。
術の名は――死者蘇生。
この呪術は、失われた者の命を、術者の命によって補うものだ。発動後、術者の魂は一度黄泉の国へ飛び、そこで昇天した魂と融合する。そして、魂は二つに分かれる。寿命を二分した魂は下界へ降臨し、二人の体へと舞い戻る。
術者が未成年である間である事。術者の霊力が術に耐えうる事。死者が死後一日以内である事。死者の体が三割以上欠損していない事。この条件の元、発動できる。
これらを兼ね備えている者はほんの僅かだ。その上、己の寿命を大幅に減退される覚悟が無ければいけない。
しかし、霧夜は一瞬の躊躇もなく術を発動した。
飛香は彼の魂が昇天するのを見ていた。自分は術の邪魔にならないように離れる。彼女の手は三昧の呪符を持っている。三枚とも印が書き込まれていて、いつでも使用可能だ。
「侵入者だ、ここにいたぞ!」
突然、部屋の入り口から怒声に近い声が響く。一瞬、背筋がすくみあがったように硬直したが、すぐに呪符を掲げる。この事態を予測していた霧夜から受け取った呪符だ。使えなくてどうする。相手は銃器を持った男性二人。問題ない。
飛香は三昧の呪符を全て無造作に放り投げた。呪符は真っ直ぐに進み、床、天井、壁に一枚ずつ張り付く。
印が光を帯びた。
刹那、透明な結界が部屋全体を覆った。光の屈折がなければ、結界があるかどうかもわからない。全方位を覆う大型の結界――《硝子壁》
「素人の結界だ、アサルトライフルを止められるわけがない……構わず撃て!」
この言葉に基本的な間違いはない。結界で拳銃の弾を弾ければ一流と言われている中、アサルトライフルの連射を防ぎきる呪術師は中々いない。
それが一般的な考えだ。
しかし、霧夜は一般的ではない。結界を得意とする、軍隊の一チームのリーダー格を勤めていた呪術師だ。戦車の主砲さえも完全に防ぎきる圧倒的な結界の前に、アサルトライフルではどうすることもできない。
「――!」
銃弾は全て跳ね返り、二人の体を貫いた。壁に穴が空く。硝子壁には傷一つない。倒れて呻くふたりを視線から追放し、後ろを振り向く。
「――――霧! ゆりちゃん!」
「ありがとう、飛香。おかげで術に集中できた」
そこには、霧夜と優璃愛が無傷の姿で立っていた。彼女は腕を霧夜に絡ませている。その腕を離し、飛香をだきしめた。
「ありがとう、本当にありがとう……! 怖かった……痛くて、何も考えられなくなったの。霧夜のおかげだし、飛香のおかげ……」
珍しく、優璃愛が泣きじゃくる。飛香は彼女の涙を自分のハンカチで拭った。そのうち、優璃愛は落ち着いて、泣き止んだ。目尻に残った涙を指先で払い、笑顔になる。
「それにしても……すごいのね、こんなに再現能力あるんだ」
見つけたとき、失われていた両手や焼けただれた顔も完全に元通りになっていた。どこに傷があったのか忘れてしまいそうである。これには術者である霧夜も驚きを隠せなかった。
「ああ……だが、一度使ったらもう二度と使えない。次は気をつけてくれよ?」
「うん。本当にありがとう。もう、あんなことはしない」
「ま、しばらくは俺が付いているよ」
何気ない一言だったが、後に優璃愛がこれを誤解したことに気づいた。彼女の頬が紅色に染まる。
「そんな……守るだなんて。霧夜に守られる……」
「ゆりちゃん、守るとは言ってないよ。守ってくれるとは思うけど」
「ふふっ、霧夜、お願いねっ」
どうやら優璃愛は気を抜いてしまったらしい。霧夜に寄り添って離れようとしない。彼女としては安心できるのだろうが、霧夜にとっては不安材料になる。何より、優璃愛が無意識に放っている色香が彼の警戒を鈍らせているのだ。生き返った直後とは思えないほどの生気とフルーツのような香りがすぐそばで舞っているのだ、仕方ないだろう。
しかし、彼は同時に気づいたことがある。
優璃愛の体が震えている。小刻みで、少し離れれば気づきようもなかったが、今はほぼ密着状態。霧夜は不意に彼女の体を引き寄せた。
「安心していいから。無理に気強くしないでいいよ」
「う、うん。ありがとう。でも、そう思うならもう少しだけこうしてて……」
優璃愛は彼と同じペースで歩きながら、頬まで擦り付ける。隣で飛香がジト目になっていることにも気づかずに。
しばらく彼女の好きにさせておいた霧夜は、三階に上がった途端、不意に優璃愛の足を止めさせた。飛香も一緒になって立ち止まる。
「もうすぐだ……優璃愛、離れていてくれ。来る!」
通路の奥から湧き出る殺気、それは二人も感じ取った。
侵入者を排除すべく散策していた兵士が彼らを見つけたとき、一番最初に動いたのは霧夜だった。《実体化》の術で剣を取り出し、同時に《硝子壁》も行使する。後者は優璃愛たちを守るため。
「結界が張られている。これは非常に強固らしい……術者を狙うぞ。――一斉射撃!」
「《鎖》!」
霧夜が射撃に合わせて声を上げる。刹那、床から鈍色の鎖が網目状に飛び出し、銃弾を防いだ。相手も結界を張っているらしく、跳ね返った銃弾は兵士に当たる直前で落ちていった。
結界術式《鎖》はこれで終わりではない。術式を解くと、バラバラになった鎖が全て前に飛び出した。その数七本。二十メートルの距離を一秒と経たずに突き進み、結界をも打ち破った。鎖が二本、力尽きたように消滅したが、残る五本はうろたえる兵士にぶち当たり、その意識を刈り取る。
その後、霧夜は結界をかけ直した。移動式簡易結界の《光粒》。三人の体の周りに、金箔のようなものが舞い始めた。簡易の術式だが、彼が使えば大砲を数発は防ぐことができる。
四階に登った直後、霧夜は咄嗟に《鎖》を行使した。しかし、それは杞憂に終わる。自分から術を解いて、敬礼をした。
「桜大佐でありますか。失礼しました」
「ごめんね霧夜君。でもそんなに敵意剥き出しで階段登ってこられたらわからないわよ」
事務口調で話す霧夜といつもどおりの口調で話す桜。彼女は右手に片刃の霊剣を下げているが、ぶら下げたまま鞘に収める気配もない。後ろに居る優璃愛に気を遣いつつ、桜にも《光粒》を行使した。殿正は別行動をしているらしい。ここにはいなかった。
「……霧夜、ちょっとだけいいかな?」
桜との話が一段落したところを見計らってか、優璃愛が控えめな声を出した。何か言いたげな目は霧夜の目を捉えてそらさない。しかし、そこに怒りや嫉妬の類は見られなかった。そのことに安心して、許可を出す。
「いいよ。どうぞ」
霧夜が一歩引いて、飛香と横並びになった。代わりに優璃愛が前に出る。衣服は霧夜の上着を直接着ただけの酷い格好だが、目線はしっかりと桜を捉える。
そして、深々と頭を下げた。
「桜さん、先日は手前勝手なことを申しまして本当にすみませんでした。この結果は偏に自分の自惚れ、慢心が招いたことと思っております」
突然の謝辞。髪が床につきそうなほど深く下げられた頭を見て、桜は狼狽えた。仕方のない話である。彼女は優璃愛のことを、霧夜に一途で内面は苛烈な少女だと思っていたのだから。毒気を抜かれたような表情で、使う言葉を選ぶように、口を開こうとしては閉じる。
チラチラと霧夜を見ているのは、迷っているからだろう。彼は、飛香がわからない程度に笑みを浮かべた。桜は言葉を決めた。
「水沢さん、顔を上げてください。貴女の一途な想いがそうさせたのでしょう……? 私に対する思いもあるかと思いますが、今は考えないでください」
「桜さん、わたしはどうすれば……」
優璃愛は涙声になった。迷いと後悔の詰まった、切なげな声。その声に応えたのは霧夜だった。彼女の手を取り、そこに霊力の塊を呼び起こす。
「君は、君のできることをすればいいんだ。人間は誰しも万能じゃない……この作戦だって、優璃愛が手伝ってくれるだけで成功率は格段に上がるだろう」
「そっか……わたしの、できること。今、呪術は使える……!」
彼女の周りにオーラが宿る。体から溢れ出した霊力がそのように見せるのだ。蜃気楼が発生するほどの圧倒的な霊力が今宿主の元に戻った、その刹那。優璃愛の周りに漂っていた霊力が一瞬にして収束した。
あの量の霊力をすべて体内に取り込む――人間業じゃない、と霧夜は呟いた。
気のせいとわかってるが、つい足元を見た。床が揺れているように感じるのだ。
「すごいわね……。これが、彼女の強さなのかしら」
「こんなものではないかもしれませんよ? ただ、自分は彼女が一番の呪術師だと思いますがね」
「ちょっ、霧夜!」
「あらあら、贔屓ね」
優璃愛が顔を赤らめて迫ってくる。怒気迫る、というよりは照れ隠しのような表情だ。霧夜が宥めると大人しく引き下がっていく。
「霧、ここからどうするの?」
「この奥にある階段を上る。そうすれば、甲板に出られる。鹿賀はそこにいるはずだ……!」
「ええ、間違いないわ」
追っ手はもう来ていない。霧夜たちが全員倒したことの証左だ。
霧夜が一歩を踏み出す。その三歩後ろを優璃愛が、そのすぐ横に飛香。さらに二歩ほど後ろに桜。殿正は別行動だ。彼を捕縛する鎖が解かれていることは疑いない。そうでなければ、桜はここにいないのだから。
霧夜と優璃愛が同時に甲板に躍り出る。同時に彼は《実体化》を、優璃愛は体の周りに霊力の球を五つ発生させた。
甲板の奥に、目的の姿はあった。軍服を身にまとい、葉巻を吸っている。周りに従える者は五、六人程度だが、甲板全体には百人以上の軍人が見えた。おそらく、その全てが手練。
「気を抜かないで。ここにいる全員……強いわよ」
「了解。自分が前衛を張ります。大佐、優璃愛、後衛を任せます。飛香は優璃愛の傍にいてくれ。できることがある」
霧夜が軍服の中から呪符を二枚取り出す。鹿賀が右腕を振り上げた。
彼の霊力が呪符に注がれる。印が刻まれた。《雷轟波状》《赤ノ鎖》。鹿賀が右腕を振り下ろした。




