裏切
まだ太陽が山脈の奥で身を潜めている時分、優璃愛は自分のテントに備え付けてある鏡の前で髪を束ねていた。本当は鏡など見なくてもポニーテールくらいはできるのだが、今朝の彼女は妙にふらふらしている。
先日、優璃愛は強く想いを寄せている霧夜に想いを打ち明け――ようとしたのだが、上手く言葉を繋げることができず、結局伝わらなかった。胸がきゅっと締め付けられるような感覚は、切なくて痛い。そう感じた。これが――と思う。
どうにか気を取り直してテントから出るが、外の空気を吸い込んで最初に目に入ったのは本を片手に寝ている霧夜。どこか気の抜けた、あるいは安心した表情を見た優璃愛も無意識のうちに微笑んでいた。しかし、今日は少し肌寒い朝だ。軍服を脱いで薄手のTシャツ一枚で草むらに直接寝転がっていては風邪をひくかもしれない。もう少しの間、普段は見られないこの表情を眺めていたいと思うも、気持ちを押し込んで肩を軽く揺すった。
「ほら、起きて。風邪ひくわよ?」
なんだか保護者みたいね。優璃愛は内心でそんなことを考えながら、子供のように手を払おうとする彼の肩を揺する。
「ん……寝させてくれ……」
「じゃあせめて毛布だけでもかぶりなさい? こんな所でそんな薄着じゃ風邪ひくわよ」
優璃愛は一度自分のテントに戻り、ベッドの端に畳んで置いてある毛布を霧夜にかぶせた。今度は素直に包まってくれるようで、もそもそと毛布の中に潜りこんでいく。優璃愛は彼の頭を撫でて、それから飛香のいるテントへと向かう。
テントに入ってみると、飛香は目を開けてぼうっと天井を眺めている。それはまるで、失った何かを探し求めているようだ。
「体調はいいかしら?」
少々不安ではあるが声をかけると、彼女は驚いたのか身を竦ませて頷いた。その表情にいつもと違う怯えを孕んでいることに気づいた優璃愛は、慌てて周囲を見渡す。
「何、この臭い……」
腐臭とも違う、香と汗の入り混じった吐き気を催すような悪臭がテントに立ち込めていた。慌てて飛香の元に駆け寄ると、彼女は優璃愛にしがみついて泣きだした。
「もう……嫌……。ねぇ、優璃愛。どうすれば、いいのかな……。死にたい、よ。ここに居たくない、どこか遠くでのたれ死んだ方がずっと良かった……」
「どうしたの? 訳を教えてくれるかしら? ――これでも、わたしは強いから。色んなことできるのよ?」
優璃愛は無名で最強の呪術師。飛香もそれを信用してか、震える唇で一つずつ言葉を紡ぎだした。
「きの、昨日の……夜……り、りょ、旅団……の、人、が……いきなり入って、来て……」
途切れ途切れの飛香の言葉が終わった後、彼女は布団を腰の下までめくった。その光景に、優璃愛の呼吸が止まる。
無残に引きちぎられた寝間着と下着は、申し訳程度の布と化していた。荒れた肌には追い打ちをかけるように打撲の跡がいくつも残っていて、血もこびり付いている。痛いでは表現しきれない状態で、優璃愛は呆然と傷を見つめた。
「――で、途中、霧夜だっけ……あの人が旅団の人を全員追い払ったんだけど、撃たれたようなの。ボクは、何を信じればいいんだろう……」
今の飛香はまだ霧夜に対してかなりの恐怖心と不信感がある。しかし、同時に迷っていることも分かった。旅団の人が明らかに野蛮な行為を行った事と、それを追い払った霧夜との間に決定的な差が生まれている。信用に値しないほとんどの男と、霧夜のように信用してみてもいいのかもしれない男。優璃愛は霧夜が撃たれたと聞いた時に出て行こうとしたが、飛香が服を引っ張って止める。その手は汗で濡れて、震えていた。
「その……」
「飛香? どうしたの?」
優璃愛が問いかけてみても、飛香は首を横に振るだけ。目は堅く閉じられていて、身体全体が震えている。何かに怯えているのは一目瞭然で、優璃愛は彼女の肩を掴んで目線を同じにしてもう一度同じ質問をした。
「その……霧夜を撃ったのはボク、なの……。今までずっとピストルを持ってたんだけど、手を差し伸べられただけなのについ、反射で……ごめんなさい、ごめんなさいッ!! ボクが、あの人を……うわぁぁあああああああああああああああああああッッッ!!」
飛香はかすれた悲鳴を上げると、両手で頭を抱えて涙を流し始めた。錯乱して、痛覚が一時的になくなっているのか爪が皮膚に食い込んでいる。血が滲み出ているが、彼女は爪をさらに喰いこませていく。荒れた肌は簡単に傷がつき、痛々しさを増していった。
「き、霧夜は……今、寝ているわよ。傷なんて無かったわ」
優璃愛の声は震えている。顔は蒼白になり、冷や汗が背中を伝う。風がテントを叩く音だけが聞こえてきた。
「っ、そこで待ってて」
優璃愛がテントの外に飛び出そうとすると、その服の裾を飛香がいきなり掴んだ。彼女の筋力はまだ戻っていないはずにもかかわらず、かなり強い力で掴んで離そうとしない。
「ゆ、ゆり……今は……だめ……、そ、外に……」
「何を言って……きゃあ!」
テントの外に出ようとした、その直後、優璃愛が肩から血を噴いて悲鳴を上げた。その瞬間から彼女の手は懐に忍び込んでいる。
「貴方達……いったいどうしたいの! 霧夜を追い出そうとして、その上飛香まで追い出すの!?」
「あやつは軍人だ。この国を荒れ地に変えたのは、あいつらだ! 本当は粉微塵になるまで磨り潰したいと思っていた。それを、貴様に免じて追い出すだけで済まそうと思っていたんだ……水沢」
テントの中に入ってきたのは、考古学者の谷田。片手にピストルを持ち、部下を二名携えている。どちらも呪術に秀でた人間だ。騙されていた、と優璃愛は後悔している。彼らの活動に手を貸し、古文書に書いてある地を探す旅は、あくまで表向きであった。
裏の目的、それは軍人の抹殺だ。ある日、優璃愛は買い出しから予定より二時間も早く戻れたことがあった。その時は戦後直後で、買い物ひとつにも危険すら伴う時期であった。とりあえず一通りの買い物を済ませ、霧夜の安否を心配する毎日の最中、彼女は見てはいけないものを見てしまった。
――旅団の人が、先日に救助した軍人を虐殺していた。体半分を地面に埋め、槍で肩や首を突き刺し、高笑いしていた。その夜に怨霊が森を彷徨うことも気にせずに。当時の優璃愛には、その光景は刺激が強すぎた。慌ててその場を離れて買い物袋をテントに置き、近くの川で嘔吐するほどの衝撃と、恐怖感をその身に焼き付けられた。水沢家は軍の家系ではないが、彼女の父親は元自衛隊員である。(その時はまだ国防軍ではなく自衛隊であった)もしかしたら自分もと思うのと同時に、実は既に霧夜も殺されているのではないかと思うようになってしまった。実のところは、当時はまだ中国で戦闘をしている部隊が残っていて、そこに霧夜もいたのだが。
まさか、と優璃愛は息をのんだ。その時の記憶と、飛香が撃ったという霧夜の安否が気にかかる。
――相手は二人、いや、三人――否、七人!
優璃愛は周りの気配を察知し、このテントを取り囲んでいる人間を七人と判断した。殺気が出ているので丸分かりだ。懐に手を入れ、一枚の札を取り出す。
「う、撃て!」
「道を開けなさい!!」
札に霊力を流し込み、印を作る。それを谷田の左側から刀を振り上げて走ってきた男に投げつけた。まるで糸で引かれているかのように、札は男の額に張り付く。
本当は悪鬼などを縛るために用いる呪術の一つだ。呪縛という、平安の世から存在する呪術である。効果を発揮したことを確認せず、もう一枚取り出して、谷田の右側にいる男に投げつける。
「早くしろ、撃て!」
谷田の声に焦りが混じる。余所見をした好機を逃さずに、優璃愛は谷田にも札を投げつけようとした。
刹那、視界が暗転した。両側面から強い衝撃が加わり、彼女の体が地面に叩き付けられ、物の破砕音に飛香の悲鳴が混じる。どうやら、テントの骨組みごと叩き潰されたらしい。重量のある巨石が優璃愛の体を地面に叩き付け、その上に重量のあるタンスやテントの骨組みが覆い被さる。谷田のそばの二人は囮であり、本当の狙いは巨大投石器か何かでテントごと押し潰すことだと気付いた時には、全身が悲鳴を上げて動かず、意識は殆ど離れていた。飛香の姿は見えず、左足が石に潰されていた。外からは剣戟の応酬が聞こえてくる。




