桜色の甘い香り
きょうもよく晴れて日差しがまぶしい。
偶然、電車停でサチ子さんと一緒になって、わたしたちは足早に舞台練習場の門をくぐった。練習場にはすでに七、八人の生徒たちが集まっていて、ストレッチなどの準備体操をしている。
「たっちゃん、新しい台本」
わたしは「ありがとう」と、サチ子さんから台本をもらい、ざっと目を通す。じゃんけんで順番を決め、私たちは二番目の稽古となった。
暖かくなってきたとはいえ、春はまだ浅く、わたしはお気に入りの本を持って城山公園に登る。城下町が一望に見渡せる古ぼけたベンチに腰を掛け、本を開く。そして、貴女の来るを待つ。
ほどなくして石段を登ってくる貴女の足音が聞こえる。
貴女は長めのマフラーを首に巻き、わたしの前を通り過ぎる。
もしも、小さなつむじ風が吹いたなら、「貴女が好きだ」と言えたかもしれない。
貴女は「エッ?」と言って立ち止まり、振り向いて気配を探るだろう。
しかし風は吹かず、貴女はわたしの前を通り過ぎる。
桜の下で一瞬立ち止まり、その美しい瞳を花びらに預け、また歩き始める。
貴女が去った後には、桜色の甘い香りが残るだけ。
わたしは立ち上がり、景色を眺める。城下町はいつもと変わらず、マッチ箱を寄せ集めたような家々が、気だるそうに並んでいる。
わたしは台本に従って演技した。そして監督の顔を見る。
「ハイ、カット。だめだねー、全然なってない。これじゃバス停のベンチに座って、通り過ぎるサチ子を見送っているだけだ。何のリアルもない」
監督は不機嫌そうに吐き捨てた。
「いや、監督。台詞が全くないのです、どのように表現したらいいですか」
わたしは、ムッとして監督を見た。
監督は少したじろぎ、そうだねーと顎を撫でている。
サチ子さんは手持無沙汰に台本を丸めたり、伸ばしたりしている。
ちょっとシラけた気まずい雰囲気。
「台本さ、台本すべてがセリフだ。ちょっとやってみるか」
「エッ、台本が台詞? これを読めばいいの?」
「そう、ナレーション風に感情こめてやってみよう。
はい、もう一度。みんな位置について、よういー、カチンコ」
わたしは慌てて「暖かくなってきたとはいえ、春まだ浅く……」と台本を読み始めた。
「ハイカット。いいねー、よかった」
監督は手のひらを返したように上機嫌になった。
「サッチャン、君は女学生の役なのに大人っぽい仕草がいいねー。立ち止まったあそこで、桜の枝に手を触れてみてもいいかもね」
「ええ、そうですね」
褒められたサチ子さんもうれしそうだ。
「あの―、監督」
「うん、なんだね」
「大したことじゃないのですけど、桜色の甘い香りってどんな匂いなんですか」
「そーだねー。臭いって客観的なものだね、たとえば」
そう言って監督はブーとおならした。
「うわ、なんですか、監督」
「これ、おならの臭い。わかる?」
「わかりますよ、くさいなー」
「このように臭いって客観的なものだから説明はいらないの。でもね、桜色の甘い香りって主観的なものなんだね。たとえば、桜色といっても、蕾が硬ければより濃い色どりだし、満開に近ければより白くなる。甘さだって、甘酸っぱい味もあるだろうし、あくが残って苦い甘さもあるだろう。そんな香りだから、人によって違うんだな。その人の主観的な感性さ」
監督はタバコに火をつけ、煙を胸の奥深く吸い込んで吐き出した。コーヒーとタバコ、それと七十年代に流行ったポマードの臭い。監督の臭いは、加齢臭だ。