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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

伝えられないこと、伝えないこと

作者: 甘いぞ甘えび

 一家が、というより一族が、どんなときでも戦士であれ、常に強くあれという考え方だった。弱者は強者に取って食われるのが当然の理で、弱者であることは恥であると教え込まれた。

 しかしそれは当然だ。力のない者は力のある者に組み敷かれ、何をされようと文句を言う筋合いはない。だって、弱いんだから。そうされるのが嫌なら、力を身につければいいだけのことだ。人に嘲られるのが嫌なら、強くなればいいだけの話しだ。

 だからわたしは力を欲した。本来以上の、持ちえる以上の力を、この両手に。


 * * *


 生まれて間もなく身体が弱いことが分かり、両親の第一子であったその男児はまるでゴミのように扱われた。間もなく生まれた第二子は健康そのもので、両親はその子をまるで初めての子供のように可愛がり、一族の掟にしたがって強くなるよう育てた。

 生まれつき身体が弱く、両親にも見捨てられたその男児は、はした金で雇われた乳母を母親代わりに育った。乳母と男児は一家の目の届かない離れに追いやられ、二人はまるでないもののように扱われた。

 その少年は、太陽の光を浴びると皮膚が赤く腫れ上がり、目は強い光を受けるとすぐに乾いて涙が溢れた。廊下を走っただけですぐに上がってしまう息はその弱さを象徴しているようで、彼は真っ先に息を殺すすべを覚えた。

 強者になれ、弱者には死を。

 玄関のレリーフに刻まれたその文句を、幼い少年は半ば羨望、半ば憎しみをこめて見つめた。

 彼には力がなかった。己を守る手段も持たず、弱々しい高齢の乳母に守られることでどうにか自分の存在を保っているだけ。彼自身が持つものなど何一つなかった。

 弟たちは兄の存在を知りながら、まるで他人の子供のように遠巻きに指差しては笑い、陽の高い時間帯に外へ出れない彼をからかって遊んだ。両親、弟たちと似ても似つかない白い肌の少年は、剣を持つことを許される年齢になってもそれを手にすることは許されず、ただひたすら室内に篭り、窓から見える弟たちの元気で力強い姿を目で追っていた。

 しかし、彼の弟たちが剣を手にし始めた頃、彼は本格的に身の危険を感じ始めた。

 始めは善人のふりをして、ひとつ下の弟がやってきた。日中外へ出れない兄を慮って陽の翳った夕時に、優しげな笑みを伴って彼を外へ連れ出した。弟は彼にいろいろなものを見せて回った。彼にとってはそのどれもがはじめて見るものばかりで、彼はすっかり警戒することを怠った。

 そして、埃をかぶって誰も踏み入れた形跡のない図書室で、彼は唐突に殴られた。

 丈夫ではない骨が砕け、血があふれ、意識が飛ぶ。しかし弟は殴ることをやめなかった。強者は弱者に何をしても許される。弱いほうが悪いのだ。そう教え込まれている弟の顔は愉快そうに歪み、殴っている相手が同じ人間で、血の繋がった兄だということさえ頭になかっただろう。

 厚く積もった埃の上に鮮血が散り、彼は倒れて動かなくなった。弟は満足げに血の飛んだ顔を拭い、ドアを閉じて鍵をかけた。自らの肉体を鍛えることにしか興味のない一家がその部屋に踏み入ることは決してなく、それを知っていた弟はそれを利用し、彼を閉じ込めた。

 目を覚ますと、彼は全身の怪我が治療してあることに気がついた。砕けた骨は真っ直ぐに伸ばされてくっつけられ、添え木を当ててあった。切れた皮膚には軟膏が塗りこめられ、布を当て、包帯をしてある。だけど、彼の体力は戻らず、起き上がることは叶わなかった。

 図書室には誰かがいる気配があった。彼は怯えた。また殴られると。しかし、彼が怯え、疲れ、うとうとしてくる頃になっても、その気配は彼に近づいてこなかった。

 うたた寝から目を覚ますと、包帯は取り替えられていた。ようやく彼が身を起こすことが出来るようになると、彼は真っ先にその気配の主を探し始めた。そして、その図書室があまりにも巨大であることと、そこに一人の男が住んでいることを知った。

 そして少年は、そこで多くを学んだ。その男が何者なのか、そして、身体の弱い者でも、強者になれる手段があることを。

 彼は靴が隠れるほどのローブを身にまとい、その白く不健康な肌を人目にさらされぬよう隠している。深く引き上げられたフードからはちらりとその髪の毛が見えるぐらいで、その顔を見て取ることは出来ない。

 彼が歩くと、チリンチリンと金属の打ち合わされる音が響き、彼が止まるとその音は止んだ。

 ある日突然離れから姿を消した少年を、乳母を含めた全員が不思議には思わなかった。彼は自分の意思とは関係なく母屋の図書室に閉じ込められていたが、それを知っているのはすぐ下の弟だけで、その弟もそう頻繁には図書室を訪れなかった。

 弟が兄を殴りに二回目に図書室を訪れた際、兄は最初と同じように大人しくなんの抵抗もせず殴られた。そしてまた骨を折られ、血を流し、図書館に住む男に治療をしてもらった。

 男の治療は正確だった。彼の傷はどんなに酷いものであっても跡形もなく治り、骨の折れた腕がおかしな方向を向くこともなく、また後遺症が残ることもなかった。彼が無抵抗に殴られるのは決まって傷が完治した後だったというのも、その治療には役立ったようだった。

 彼は男に治療の方法以外にも様々なことを学んだ。力の付け方、使い方、自分よりも強者に出くわしたときの対処の方法などなど。そのすべてが彼には必要なことで、彼は貪欲にそれらを学び取っていった。

 そして彼が成人と認められた年、彼の元へやってきた弟は、ローブを身にまとった兄の姿を目撃し、そこで初めて戸惑った。ローブをまとったその兄の姿は、もう決して無抵抗で殴られるだけの人形ではなかった。彼は強大な力を持ち、弱者を踏みにじる立場にいる者の顔をしていた。

 兄は笑った。白の肌に赤い唇が妖艶に歪んだ。赤茶の目が細まり、その瞳の明るさが際立った。弟は、弟だったものは、目を見開いたままその場で動かなくなった。彼は笑い声を上げた。さも面白そうに、高らかに、だがおかしな音程の声で。

 音のない図書室に、彼の異様な笑い声と、チリンチリンと鳴る金属の音だけが響いた。


 * * *


「ウェルスス、いるかい?」

 風を孕んだ柔らかな茶色の髪の毛がふわふわとそよぐ中、優しげな笑みを湛えた一人の召喚士が片手を空に向けて掲げ、静かな声で尋ねた。

 彼のまとう黒のローブは前を止めていないために強い風にはためき、その下の服が完全に露わになっている。ローブを身にまとう者はあまりそうした着方をしないが、堅苦しいことを嫌う彼は、いつもそうやって少しルーズにローブをまとっていた。

『どうしたの、ケイラー? なにかあって?』

 まるで黒い液体を風に混ぜたかのように、長く黒い髪の女が、浮き出すように現れる。その登場の仕方だけでも彼女が人間ではないと克明に告げていたが、それ以上に、彼女の外見は人間ではあってはならない姿をしていた。

「君に会いたいから呼んだ。いけないかい?」

『私を呼ぶことは貴方の負担になるのよ、ケイラー。少しは自覚して頂戴』

 彼女を表現するなら、黒い液体と誰しもが言うだろう。真っ黒でその先を見通せない液体で形作られたその姿を見る者が見れば、それが精霊だということにすぐに気がつくことだろう。しかもその姿は常に蠢き、形を変えている。あるときは女性の姿に、そしてあるときは猪のような獣の姿に。

「でもどうしても君に会いたかった。君に見て欲しかったんだよ」

『どんなものを見せてくれるの? ケイラー」

 精霊を呼び出せる者は世界でも召喚士と呼ばれる者たちに限られ、彼らの数は限りなく少ない。それに加え、人の形を保った精霊を呼び出すとなるとそれなりに力を持った者でなくては成しえず、今ここで精霊を呼び出した男がどれほどの実力を持っているかは、呼び出されている精霊を見ればおのずと分かる。

 しかしその召喚士は優しげに笑み、腕を広げて空を示した。広く開けたその原っぱにいると、空は大きく広がり、その青を赤に染めている夕日が目にしみるようだった。空は綺麗な青と赤が混じり、もう十分も経てば真っ暗になってしまうのだろうと思わせた。

「綺麗な夕日だろう?」

『ケイラー……。たったそれだけのために?』

「ウェルスス、君は僕とは違う世界に住んでいる。君には僕の世界の綺麗なものを何でも見せてあげたいんだ」

 蠢く黒い液体は、青空を侵食する赤を見遣った。その姿を見守りながら、召喚士は満足げに微笑んでいる。

 しかし、何か邪悪なものを見つけたかのように、サッとウェルススが顔を巡らせた。その動きに呼応して、ケイラーの顔が強張り、彼女が見た方角にサッと顔を向ける。

 チリン、チリンと金属が定期的に音を立てていた。その音はゆっくりとだがペースを変えず、確実に彼らの元へと近づいていた。

 その姿が見えず、不安を感じた直後、ケイラーの視界に全身をローブで隠した男が現れた。その男はその金属音を鳴らしながら歩いてきたのだろうが、ケイラーの目にはその男が唐突にその姿を表したように見え、彼は驚きに目を丸くした。

『魔法使いね。あれは確か……、以前に会ったことがあるわ』

 チリンという音が止まると同時に、男が足を止めた。両腕を持ち上げたかと思うと、その重そうなローブのフードの縁に手をかけ、ゆっくりとそのフードを背後に下ろす。白い肌に紅い唇、赤茶の瞳に白に近い金髪が露わになる。

「こんばんは、ケイラー。こんばんは、ウェルスス」

 白金の髪の間に覗いているのは、長く細い金属の棒がいくつもついた耳飾だ。その耳飾が歩くたびに揺れ、チリンチリンという音を鳴らしていた。しかし本人は至って気づいてもいない様子でニコリと顔を笑わせた。

「ピアジェ? ピアジェか!」

『こんばんは、魔法使い』

 ケイラーは大またで見知った顔の男に近づき、その顔を親しみに笑わせた。ピアジェはそれに応えてぎこちなく笑ったが、その笑顔はどこか引きつっているように見える。しかしケイラーはまったく気にしていない様子で彼の正面で立ち止まった。

「久しぶりだな。何年ぶりだ?」

 ピアジェはその赤茶色の目を細めて笑った。それは時に冷酷にも見えるが、その笑顔にはぎこちなさはなく、彼の白い顔にはしっくりと来る表情だった。

「さあ? また、無意味に彼女を召喚していたのか?」

「無意味だなんて!」

「精霊を召喚するには力を消耗する。何の目的もなく呼び出すには些か危険だと思うが?」

 召喚士は手を伸ばして自らの召喚した女性に触れようとし試みたが、その形の定まらない黒い液体は彼の指が触れるとゆらゆらと動き、その手を握ることは叶わない。一瞬だけ彼の顔に悲しげなものが過ぎったが、すぐに払拭される。

「僕は彼女にこの世界を見せているんだ」

 宙を漂うウェルススは無表情に瞬間的に同情を見せた。その顔をケイラーは見ることはなかったが、傍で見ている魔法使いにはしっかりと見えていた。

「……ところで、一体どうしたんだ? こんなところで。探している人がいるっていっていなかったか?」

 無理矢理な話題転換だったが、魔法使いは至って気にしていない様子であぁと頷く。

「わたしが探していたのは、やはりあなただったようなんだ、ケイラー」

「えっと……、それはどういう意味だい?」

 真っ白で現実離れした顔をした魔法使いは、にっこりと友人である召喚士に笑いかけた。そして片手を挙げる。その手には耳飾と同じような金属の棒がたくさんついた腕輪がはめられ、今にも沈みそうな夕日を受けてキラキラと輝いた。

「力の原点は精霊だ。その精霊を操るのは召喚士で、召喚士の中でもあなたは腕がいい」

 チリンチリンチリン。魔法使いの腕にある金属が音を立てた。キラキラ輝くそれをよく見れば、その棒の一本一本に小さな石が埋め込まれていることに気がついたことだろう。その石は欠片のようなものだったが、そうして多く存在することでそれらは重要な意味を持つ。

「残念だが、あなたには、わたしのために犠牲になってもらわなきゃならないようだ」

「え……?」

 腕輪が鳴る音が続く。ケイラーは目を見開き、そのまま唐突にガックリと地面にひざをついた。あまりにも突然だったせいか、致し方なく全体重を支えることになったひざが悲鳴を上げたが、当の本人は動くことも声を上げることも出来ず、ただ呆然と目の前にいる男を見つめ続ける。

 耳飾がチリンチリンと鳴り、ふわりと白金の髪が舞う。召喚士が見つめる中、ピアジェは狂った音階で歌うように祝詞を口ずさみながら、その白い手をそっとケイラーの見開かれている両目の上に掲げた。そして何かを囁くように呟く。

 次の瞬間、ケイラーの身体は崩れ落ち、音もなく静かにピアジェの手の内に落ちていった。


 * * *


 自分の意識が闇に落ち込んでいるときにまで精霊を召喚し続けておくなんて芸当が出来るのはこの世界広しといえど、数える程度しかいないだろう。実際、召喚士として評判のいいケイラーであっても、それは不可能だった。

 精霊を呼び出している間はずっと力を消費し続ける。そのため、召喚士は必要にならなければ精霊を召喚することはしないのが常だ。その点において、ケイラーは他者と異なり、くだらないことでもすぐに精霊を呼び出す。彼が気に入っている黒い水の精霊、ウェルススを。

 ウェルススは形が定まらず、常に流動しているように見える。力のランクでいえば下の上から中の下程度。獣の姿をとるときは猪の姿を、そして人の姿をとるときは真っ黒な女性の姿をしている。その姿は見る人によって異なるものの、どちらの姿でいたとしても人間に対して恐怖を抱かせるには充分な効果を発揮する。

 しかしケイラーはウェルススの姿を一目見たときから彼女のことを気に入り、何かとつけて召喚を繰り返すうちに彼女の方もそれなりに彼を認識するようになっていった。

 しかし、ケイラーの魔力では彼女を召喚するのはギリギリ一杯で、彼女を召喚している間は他の精霊を呼び出すことは出来ない上に、一時間も召喚し続ければ、翌日は半日ほど眠ったまま起きなくなるほど力を消耗する。

 召喚士は人によって力の補完の仕方が異なるが、ケイラーの場合は睡眠がそれに相応した。力をフルに使い召喚を行うと、一日中眠り続けることぐらいは日常茶飯事。下手をすれば三、四日起きないことさえある。

 見知らぬ部屋で目覚めた彼は、ボーっとした顔で自らの頭を探る。そこがどこか、自分が置かれている状況はなにか、ということよりも先に彼が優先するのは、自分の記憶がどこで途切れているか。そしてその途切れたあと、今まで何が起こったのかを考えるのはその後だ。

「あぁ……、ピアジェが……」

 出した声はぼわんぼわんと部屋に響き、その不自然さに顔を上げ部屋を見回すと、何の変哲もないただの部屋に強力な遮蔽が張られ、外部と完全に遮断されていることが見て取ることが出来た。四方に四精霊を象った宝石があり、それらが遮蔽を作り、この結界を維持しているようだ。

 部屋に照明や窓はなかった。しかし、真っ暗になることはなく、そこに何があるのか見て取ることが出来るし、暗いと感じることもない。それらもその結界の効果だろう。どんな魔法が使われているのか想像もつかなかったが、その四つの宝石によって空気と明かりをも供給しているのだろう。

「ピアジェ! 一体どうなってるんだ!」

 横たわっていたベッドから降り、部屋をぐるりと見回す。出した大声は変に反響してふよふよと漂ったが、その遮蔽の外へ出て行くことはなかった。空気や音さえも遮る結界。どうしてそこまで大それたものを自分に使用したのか、彼には理解できなかった。

 戸惑った様子で結界の中を慎重な足取りで歩き始めたケイラーは、自分がいるところが大きな部屋の一角であることに気がついた。てっきり四方の宝石は壁に取り付けられているものだと思っていたが、そうではなく、大きな部屋をその宝石によって小さく区切っているだけに過ぎなかった。

 遮蔽の外の様子は当然のように見ることは叶わない。不可視の結界に手を伸ばすと、そこには実体のない、冷たくも温かくもない壁があるような気がするだけで何もないのに、それ以上先に進むことが出来ない。なんとも形容しがたい空間だった。

「ピアジェ!」

 無駄と分かっていながらもう一度叫ぶと、かすかにチリンチリンと鳴る音が聞こえてくる。その音の出所を探ろうと顔を巡らしたケイラーは、目の前の結界の壁の外側から何かが迫ってくるような錯覚を覚え、数歩下がった。

「ようやくお目覚めか、ケイラー」

 頭からつま先まですべてを覆い隠すようなローブ姿の魔法使いがチリンチリンと音を鳴らしながらそこにいた。やってきた、ではなく、いた、だ。瞬きをする間に、そこに突如としてその姿が現れていた。ケイラーは目を見開き、露骨に警戒した様子を見せる。

 ピアジェはおどけるように肩を竦め、チリンチリンと金属を鳴らした。

「……僕は何日寝ていた?」

「それを最初に尋ねるとは懸命だ。だが聞いたところで何になる? あなたはもうここから出て行くことは出来ないのに」

 その物言いに、ケイラーは背筋がゾッとするのを感じていた。

 彼の最後の記憶は、目に焼きつくような綺麗な夕焼けをウェルススに見せているとき、唐突にやってきた旧友であるピアジェと挨拶を交わし、そして何らかの魔法の影響を受けて倒れた。そこまでだ。そして次の瞬間にはこの結界の中で目を覚まし、今に至る。

 その間のブランクに何が起きたのか、何日たったのかは彼には分かりようもなかった。

「ピアジェ」

「寝ていたのは半日と三日だ。三日前に一度起こしたんだが、覚えていなかったようだな」

 ケイラーはごくりとつばを飲み込んだ。ピアジェの言い方には含みがあった。三日と半日ではなく、半日と三日。三日前に起こしたということは、半日寝て、起きてまた三日眠ったという風に取れる。

 ケイラーは自分の顔が青ざめているかもしれないと思ったが、今更それをどうにかすることなど出来なかったし、する必要性もなかった。ただ、崩れそうになった足元をなんとか堪えることはかろうじて可能だった。

「どういう……、ことだ?」

 アルビノの魔法使いが首を傾げると、その両耳に付けられた金属の飾りがチリンチリンと音を立てた。

 この異様な空間だからか、その細い金属の棒一本一本についている石がまるで糸を引いているかのように魔力で繋がっているのが分かった。ケイラーは無意識にその繋がりを呆然と見つめていた。

「力の原点は精霊だ。その精霊を呼び出せるのは召喚士だけで、わたしは召喚士じゃない」

 自信に満ち溢れているその声にはどこか含みがあり、ケイラーは余計な口を挟まず、彼が先を続けるのを待った。

 ケイラーが以前にこの魔法使いと出会ったとき、こんなにもそこ抜けて不気味な印象は抱かなかった。ただ少し力に固執する性質があったが、魔法使いというものは往々にしてそのような傾向が強いため、それを異常とは決して思わなかった。それ以外の面においてはその外見の割には社交的だし、旅をしているとあって話題は豊富だった。

 だがしかし、今目の前にいる男は到底同一人物とは思えないほど狂った感情をむき出しにし、その魔力を惜しみもなく使用しているのが素人目にも分かるほどだ。

「精霊から溢れた力を利用するのが魔法だ。だがそれには限度がある。なら、精霊から直接力を引き出せないものか?」

 たった一人のために演説ぶるピアジェは、チラリとその赤茶の目を唯一の視聴者に向けた。聞いているのを確かめているといった視線ではなく、彼が倒れてしまっていないか心配しているかのようにも見える。

 そこには青ざめた顔で話を聞いている召喚士が一人ぽつねんと立ち尽くしているだけだ。彼は構わず続けた。

「召喚士が精霊を召喚する。そしてその力を魔法に転ずる」

「そ、そんなこと……、不可能だ」

 弱々しく否定の言葉が紡がれ、熱弁を奮っていた魔法使いはおやといった顔で反論した主を見遣る。しかしその反応も想定済みだったのか、ニヤリとその赤い唇を笑わせると、首を横に振ってそれを否定した。耳飾が鳴り、そこに込められた魔法が揺れる。

「精霊から零れるものを利用するのだから、その源泉が近ければ近いほど、強い力を引き出せる。これはなんら不思議なことじゃない」

 精霊を物としか認識していない物言いに、ケイラーは眉を寄せて首を左右に振る。彼は精霊が身近な存在として、そういったものの考え方に賛同することは出来なかった。精霊は人間とは違うものだが、それでも彼らは生きていて、人間と同じように思考し、喜怒哀楽を有する生き物だ。それを物のように扱うなど、彼には許しがたいことだ。

「違う」

「違わない。精霊を利用すれば巨大な力を扱える。わたしはそれを証明する」

 ケイラーは激しく頭を左右に振った。足元がふらついて、ぶつかったベッドにへたり込むように腰を下ろしたが、その目はじっとピアジェを見つめ、その主張を否定し続ける。

「そんなこと出来るはずがない。精霊の力は精霊のものだ。人間にはそれを扱うことは出来ない」

 ケラケラケラと音階の外れた笑い声が魔法使いの唇から零れた。

 普段話している分にはなんら違和感がないのに、笑い声と祝詞を口ずさむときだけこうして突拍子もない音を出す魔法使いを、召喚士はまじまじと見遣った。その顔には、その笑みの理由が分からないとしっかり刻まれていたが、その疑問を口は出さないだけの冷静さは残っていた。

「だったらこの結界は何だと思う? ただの人間が、これを三日もこの状態で維持し続けることが可能だと?」

 ギクリと召喚士の顔が強張った。

 彼が閉じ込められているこの強固な結界がこの世に現存する魔法で作ることが可能なのか疑っていたのは否定のしようのない事実だった。四方の宝玉はそれぞれ力を持った石だが、石は所詮石であり、あくまで魔法を補佐するアイテムでしかない。それ自体がこんな強力な力を有することはありえない。

 魔法使いが結界をよく見せようとするかのように、腕を広げる。腕輪がチリンチリンとやかましく鳴り響き、目に見えない魔力が糸を引いた。

「あなたは本当に優秀だな」

 指先まで隠れていた魔法使いのローブがいつの間にかめくり挙げられ、その白い手が露わになっていた。手首の飾りはチリンチリンと激しく自己主張し、キラキラとその魔力の宿る石を揺らしていた。

 どこかで見た覚えのある光景だとケイラーが思った瞬間、視界一杯にその白い手が広がった。遮られた視界の中、耳には狂った声で祝詞が響いた。

 次の瞬間、ケイラーの身体は崩れ落ち、音もなく静かにピアジェの手の内に落ちていった。


 * * *


 力を使いすぎて倒れた後の目覚めは、たいてい普通に眠りに落ちたときと同じように穏やかに訪れる。しかし、跳ねるように飛び起きたケイラーの顔には恐怖が張り付き、彼が決して心穏やかではない状況で目覚めたのだということを如実に語っていた。

 はっはっと激しく繰り返す呼吸。額から流れる汗。見開かれたまま虚空を見つめる両の瞳。そのどれをとっても彼がご機嫌な様子であるとは決して形容しがたい。あまりの悪夢に飛び起きたとしか考えられないほどの様相で、彼は呆然と自らの記憶を探っていた。

 何度記憶の海にもぐってみても、最後の記憶から今までの間にどれだけの時間が経ち、何が起こったのかを思い出すことが出来ない。ずっと寝続けていたということはないだろうということは本能的に悟っていたが、何をしていたかまではどうしても思い出せない。

 あたりを見回して、そこが四方を宝玉に囲まれた隔離空間だということはすぐに理解する。彼の荒い息遣いがぼわんぼわんと室内にこだましているように聞こえるのは、この空間があまりにも特殊な魔法で外界と区切られているせいだ。

 立ち上がろうと手に力を入れ、そこでようやく自分の指先がガタガタとまるで寒さに震えるかのように震えて止まらないことに気がつく。ギュッと手を握り締めるとその震えも幾分か収まったが、ピタリと止むことはなかった。

 どこからかチリンチリンという金属の鳴る音が聞こえないかと耳をすまし、何も聞こえないと悟ると、震える足先をそっと床に下ろし、深く息を吸い込んで吐き出し、なんとかして気分を落ち着かせようと試みる。

「ウェルスス」

 まだ仄かに震えている片手を持ち上げ、囁くようなかすれた声で名を呼ぶ。吐息のような声はこだませずに結界に吸収されて消えてしまったが、彼の差し出した指先から少し離れたところに、黒いもやのようなものがじわじわと広がる。

『ケイラー?』

 元々形の定まらない姿をしていた精霊だったが、そこまで小さく現れたことは一度もなかった。手のひらに収まってしまうのではないかという大きさで蠢いているその黒い物体を、ケイラーは信じられないという面持ちで見つめた。

「ウェ、ウェルスス……?」

『あぁ、今日はまともなのね。安心したわ。でも……、ここは干渉が多すぎる。これ以上力を放出できない……』

 苦しそうに蠢く黒い精霊を見つめ、ケイラーはなんとかして彼女の力になってやりたいと願った。しかしそれは、彼にどうこうできるような次元の問題ではなかった。それが彼女も分かっているのか、その姿を瞬間的にいつもの女性の姿に形成し、ニコリと彼を落ち着かせるために微笑んで見せた。

『ごめんなさい。あなたに呼び出されるのが怖いの』

 彼の記憶にないことを彼女が知っているという確信に、背筋がゾッと冷えた。

 精霊であるウェルススには分からない感覚かも知れなかったが、ごっそりと記憶が抜け落ち、その間に自分が何をしていたのかまったく不明瞭である現状は、ケイラーにとって、目を合わせたくない一番恐ろしい事実だった。まったく分からなければ割り切れたが、それを知っている者が身近にいるということもその恐怖を煽る。

「ぼ、僕が何をしたの? 君に」

『操られているのは分かっていたのよ、ケイラー。でも私はあなたに召喚されている。あなたの命令には従わなきゃいけない……』

 そのまま消えてしまうのではないかと疑うほど、キュッと黒い物体が縮こまる。しかしすぐにゆらゆらと動きながらその身体を展開し、その通り道にあったかのように、一瞬だけ猪の姿をとる。

『……忘れているのなら、思い出さないほうがいいと思うわ』

 自らを信頼し、己の意見をはっきりと述べるウェルススが言いよどむなんてことは今までに一度もあり得なかった。それが、今の彼女はケイラーに呼び出されることに怯え、自分の体験したことを忌まわしい記憶のように封じ込めている。

 ケイラーは自分自身が信じられないと首を振った。震え続ける両手を握り締め、今にも泣き出しそうに顔を顰める。

「僕が君に何かしたのか? 君を傷つけたのか?」

 黒い水の精霊は答えなかった。否定も、肯定もしない、ただの無言。それは暗に肯定を示すのだと、召喚士は本能的に悟る。

「ウェルスス、済まない……!」

 ケイラーの目から涙が零れた。

 愛しい者を自らの手で傷つけてしまった事実に絶望し、自己嫌悪のあまり、このまま死んでしまえればとさえ考えが及ぶ。常に堂々とした姿で優しげに微笑むウェルススをこんな姿に貶め、ひくつにさせてしまった己をいくら呪っても恨んでも憎んでも憎み足りない。

 震えを止めるために握り締めていた拳を振り上げ、ベッドに力いっぱい叩きつける。しかしそこにある上等なマットレスはその衝撃を吸収し、穏やかな振動を伝えただけだった。

『ケイラー、悲しまないで、ケイラー……。あなたが悪いんじゃないのよ……』

 なんといって慰められようとも、今の彼の耳には届かなかった。あまりの失望、あまりの衝撃に周りの声など耳に入らない。声を押し殺そうとしている口から唸り声が漏れた。歯を噛み締め、無意味と分かっていながらもう一度ベッドを殴りつける。

『ケイラー……』

「ケイラー、目が覚めたのか」

 ビクッと身体を震わせたのは、ケイラーだけではなかった。心配そうにその身体を蠢かせていたウェルススの黒い液体が瞬間的に縮み、素早く動いてケイラーの影に隠れる。

 涙で歪んだ視界を上げる。そこにはローブのフードを下ろし、白い肌と白金の髪を晒した姿の魔法使いが佇んでいた。キラキラ輝く耳飾は健在だ。

「ピアジェ……」

 そわそわと隠れる精霊にちらりと一瞥くれ、魔法使いはふっと目を細めて笑う。その顔は完全にウェルススを下に見、弱者と認識している表情だ。たったそれだけのことに、召喚士はカッと頭に血が上って勢いよく立ち上がった。

「何をした! 僕と彼女に一体何をしたんだ、ピアジェ!」

 勢い込んで詰め寄るケイラーだったが、対するピアジェは動揺するそぶりも見せず、ただ余裕な笑みを浮かべたままで迫り来る召喚士を待ち受ける。

 ガッとそのままの勢いで殴りかからんばかりにローブの胸倉を掴んだケイラーは、魔法使いの身体をグッと自らに引き寄せる。チリンチリンと耳飾だけでなく腕飾りをも音を立てて鳴った。

「言え。さもないとどうなるか分からないぞ」

 憎しみと怒りに燃える茶色の瞳が赤茶の瞳を捕らえる。しかし、アルビノの魔法使いは狂った音程で阿呆みたいに笑い声を上げた。不気味に赤い唇から零れる笑い声は到底自然なものとは思えないほどの音を立て、奇妙な結界にぼわんぼわんと反響して消えていく。

 その笑い声に一瞬怯んだケイラーだったが、掴んだローブを放さず、グッと堪えてピアジェが答えを寄越すのを待つ。

「実験をしているだけだよ、ケイラー。わたしはわたしの理論が正しいことを証明しているんだ」

 その言い方なのか、彼の雰囲気がそうなのかは分からなかったが、ケイラーはピアジェに対し、底が抜けるような恐怖を感じた。

 それがどんなに人道的に間違っていようと絶対にそれを認めず、己の信じているものだけを妄信している。そうなっている状況では、誰が何を言おうとも、それがどれだけ間違っていると諭そうとも、聞く耳を持たない。聞こえないのだ。彼の中では彼が信じたいことのみが正であり、彼が信じたくないことは存在しない。

 ケイラーは胸倉を掴んでいた手を、突き放すようにして手放した。チリンチリンと装飾品が鳴り、それらの間を魔力の糸が泳いだ。

「……狂ってる。君は狂ってるよ、ピアジェ」

 囁くように呟いたその声には、かすかに恐怖が滲んでいた。

 今まで善良だと信じていたものが、その表皮を一枚めくった途端に今までそうだと信じていたものとは全く別の、化け物が潜んでいたことを知ってしまった恐怖。化け物と隣り合わせにいながら、その存在に気づかず、気を許してしまっていたという現実。

「先を行く者は忌まれるものさ」

 高らかな勝者の笑い声は、聾唖の者の声のように、健常者の笑い声を真似たような狂った音程で鳴り響く。それらは決して聞く者を愉快にはさせず、恐ろしく狂った世界へといざなう。

「あなたには感謝している。あなたがいなかったらわたしの研究もここまでスムーズには行かなかっただろう」

 クスクスと無意識に笑い出してしまっているような声を響かせる魔法使いを目の前にし、召喚士は怯えた様子で眉を顰めた。そして無意識にこの気味の悪いアルビノの男から離れようと一歩後ろへ下がる。その背後に隠れる黒い精霊も同意見であるように一緒に後ろへ下がった。

「出て行ってくれ……。近づくな! 出て行け!」

 叫んだケイラーの声はむなしくぼわんぼわんと反響し、それに覆いかぶさるようにチリンチリンと金属が鳴ったかと思うと、彼の視界は白い手によって遮られていた。そして何度目になるのか彼には想像もつかなかったが、視界がブラックアウトし、抵抗もむなしく、彼は意識を失った。


<了>

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