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いくら帰りたくないと言ったって、塾に行かなければ母に連絡がいく。志田さんの家に入り浸っていることがばれたら、もう二度とここに来られないことは分かっていた。後ろ髪を引かれながら、彼女の家を後にする。
「またくっつきましょう。私、あゆりちゃんの身体と相性いいのかも」
「そのセリフはなんというか、脳が痺れます」
「なにそれ。でもよかった。好きなひとと相性がいいって幸せなことよ」
じゃあまたね、とほっそりとした腕で私に手を振った志田さんのことを、名残惜しい気持ちで目に焼き付けた。
その後はいつも通り無心で塾の授業を受け、二十二時過ぎに帰宅する。母が、「またあんたか」とお決まりのセリフを口にするので無視して二階の部屋へと上がった。ここ数日は、夜ご飯もコンビニで適当に買ってきたものを食べている。母も、そんな私の行動を甘んじて受け入れたのか、夕飯を作ってくれなくなった。いいんだ。母が私に毒を吐くなら、私だって逃げる権利がある。これは自衛だ。決して母に迷惑をかけているわけではないのだし。そう自分に言い聞かせて、なんとか志田さんと会うまでの時間を繋いでいた。
三日後も、四日後も、志田さんの家に通った。期末テストが近いので、基本的には志田さんの家でテスト勉強をさせてもらっていた。勉強なら自分の家ですればいいんじゃない? と志田さんは聞いてこなかった。「いらっしゃい」と変わらない笑顔を浮かべて私を迎えてくれる。余計なことを聞いてこない彼女が清々しく、滑らかな布団のようにやさしかった。
五日後と六日後は期末テストの一日目、二日目だったのでさすがにお邪魔することなく、家で勉強をした。
そして、七日後。
期末テストが終わり、午前中で学校から終わったのでその足で志田さんの家に向かうつもりだった。昨日のうちに「明日は昼過ぎに行ってもいいですか」と連絡を入れていて、了承をもらっていた。テスト後の開放的な気持ちはない。そんなに出来がよくなかったからだ。学校を出ると突如、激しい雨が降り出した。傘は持っていたのでさしたが、それでもスカートの裾からつま先が濡れていく。早いとこ志田さんの家に行こう——と決心して早足で校門から離れていく。増水しかけている川を見つめながら橋を渡っている最中に、橋の上で傘もささずに佇む女性を発見した。ほっそりとした体躯に、長い黒髪。長いまつ毛。志田さんだった。白いワンピースが白い肌をより際立たせている。
「志田さ——」
名前を呼びかけたところで、ポケットの中のスマホが震えた。着信だと分かり、スマホを手に取る。表示されていたのは母親の名前。どうしてこんな真昼間に? 今日は仕事じゃなかったっけ——と考えたところでふと気がつく。そういえば今日は夜勤の日だ。
「もしもし」
とにかく電話に出ないのはよくないと思い、スマホを耳に押し当てる。視線は雨の中でずぶ濡れになりながら佇む志田さんのほうへと向けられる。
『ああ、あゆり。もう学校出てる?』
「出てるけど、どうしたの」
『見つかったのよ、証拠』
「証拠? 何の話?」
突然のことで、頭がうまく回らない。証拠、証拠、とその言葉をぐるぐる頭の中で旋回させても、思い当たる節は何もなかった。
『だから、お父さんの浮気の証拠! ずっと疑ってたのよ。お父さん、絶対外に女つくってるって。でも几帳面なあのひとのことだから、なかなか証拠をつかませてくれなくて。でも今日見つけたの。鞄の中に、女物の靴下が片方入ってたのよ』
「靴下……?」
ぐわん、と視界が浅く揺れる。雨粒で遮られながらも、目は志田さんのほうに釘付けだ。スニーカーから伸びる彼女の足は折れそうなほど細い。靴下は履いていなかった。いや、履いているのだろうけれど、たぶんくるぶし丈のものだろう。
『黒い靴下だから、きっと女の子のものと間違えたんだわっ。あゆりもこの前間違えてたじゃない。急いでるとよくあることだわ。痛恨のミスね。靴下を間違えるってことは、少なくとも一緒にいる時に靴下を脱いだってことでしょ。それってもう、そういうことじゃないの。さっきね、お父さんに連絡したのよ。誰と浮気してるのって。返信はないけど今頃焦ってるはずよ』
キンキンと耳に響く母親の声に、呼吸が乱れていくのを感じた。
脳内で警鐘が鳴り響く。目を閉じると、チカッ、チカッ、と明滅する光が見えた気がした。
「志田さん……」
視線の先の彼女の身体がぐらりと揺れる。
『しださん? 友達といるの?』
「志田さんっ」
母との通話をブチンと切って、今にも倒れてしまいそうな志田さんのほうへ駆け寄る。途中で傘を投げ飛ばす。瞬く間に全身がバケツをひっくり返したような雨にずぶ濡れになっていく。それでも構わず、彼女が地面に崩れ落ちる前になんとか身体を受け止めた。そのあまりにも軽い身体に、思わずぐっと唾を飲み込む。
「……あゆりちゃん」
今の今まで私の存在に気づかなかったのか、虚ろなまなざしで私を見つめる彼女の瞳には大量の涙が——いや、雨粒がびっしりとこびりついていた。私の濡れた髪の毛の先から滴る水滴が、余計彼女の顔を濡らしていく。汚していく。その美しい顔が、白い肌が、雨に濡れて汚れて、そしてまた艶やかに変わっていく。こんな時なのにおかしい。自分の感覚も感情も、自分のものではないみたいだった。
今この瞬間、彼女に触れていいのは自分だけだ。
志田さんの身体をぎゅっと抱きしめる。なんでこんなところに傘も持たずに立っていたのか理由を知りたい。けれどそれ以上に、いちはやく彼女を屋根の下に運ばなければという使命感に駆られた。
私は思い切って志田さんをお姫様抱っこする。無理かもしれないと思ったけれど、彼女はやっぱり、あまりにも軽かった。四十キロ……いや、四十キロもないかもしれない。私も痩せているほうではあるけれど、彼女の比ではなかった。
「あゆりちゃんやめて。あぶないから」
「大丈夫です、これぐらい」
軽いとはいえ重い。どっちなんだよ、と心の中でツッコミながら、前へと進んでいく。すれ違うひとたちが何か言いたげにこちらをじっと見てくる。中には「大丈夫ですか?」と実際に声をかけてくるひともいた。けれど、私は首を縦に振るだけでひとの善意を振り切って歩く。濡れながら志田さんの家について、そのまま二人でお風呂場に向かう。
「勝手にシャワー浴びてすみません」
「大丈夫」
志田さんは大丈夫だろうかと思ったけれど、家に着くと多少回復したようで、自分でお風呂場に立ってくれた。ふたり、裸になってシャワーを浴びる。志田さんの身体は、白い絹のようだった。水滴が彼女の鎖骨を滑り、胸の輪郭をなぞる。見ちゃいけないと分かっているのに、目が離せない。私の身体も女なのに、彼女の曲線は異質で、触れたら壊れそうな儚さがあった。心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなる。こんな感覚、初めてだ。彼女の身体を見ているだけで、知らない自分が目覚めるような、怖くて甘い気持ちが蠢く。志田さんが微笑むと、胸の奥が締め付けられた。
「助けてくれてありがとう」
お風呂から上がって髪を乾かしながら志田さんが言う。
「疲労が溜まってるんじゃないですか。ちゃんと食べてます?」
「それ、あゆりちゃんに言われたくないなあ。でも……うん、実はあんまり食べてないかも。私ね、本当は在宅ワークじゃなくて引きこもりなんだ」
ブオン、と鳴っていたドライヤーが止まった。やだ、故障かもと志田さんがドライヤーを軽く叩いたり振ったりする。どう足掻いてももう動かないと分かった途端、白色のドライヤーの表面を優しく撫でた。
「あゆりちゃんと出会った時、引きこもり始めて一ヶ月目だった。普通に会社勤めで、テレアポをしていたの。だけど……テレアポってさ、すごいんだよ。もうほとんど話聞いてもらえないの。特に私みたいなひ弱そうな女の話なんてさ。営業トークがうまくてセンスがあるひとならもちろん戦えるんだけど、私は違った。全然向いてなかった。いや……努力することから逃げただけなんだけどね。電話の向こうから聞こえてくる怒声や罵声に、耐えられなくなったんだ」
私は志田さんが他人からの悪意に傷ついて塞ぎ込んでしまったときのことを想像する。美しくてどこか飄々としていて、後ろ暗い過去なんて一切持ち合わせていなさそうな彼女が、ありふれた悩みを抱えていたことを私は知らずにいたのだ。
「あゆりちゃんと出会った日、咄嗟にライターで在宅ワークをしてるなんて言っちゃったのは……見栄を張ったの。雨の中で行き場を失ってるあゆりちゃんが自分のように思えて。いても立ってもいられなくなって声をかけたのに、実際に家に連れてきたら、ちゃんと年下の女の子だって認識しちゃって。大人でいなくちゃって、プレッシャーみたいなものを感じてた」
彼女の言う“大人”というのが、仕事中に傷ついて引きこもることのない、凛とした人間であるということは見当がついた。
「じゃあ……じゃあどうして、今私に本当のことを話してくれたんですか……? 最後まで隠し通せばよかったじゃないですか」
怒っているわけでもないのに、感情任せに追及するような口調になってしまう。
「そうね。隠し通せばよかったの、これからもあゆりちゃんと会うなら」
「どういう意味ですか?」
「その必要がなくなった。もうこれ以上あゆりちゃんと会えない。だから、本当の自分を伝えようって思った」
志田さんの瞳に、意思の強い光が差し込んでいく。ゆらめく水面に映し出される月の光のように、明確な形をつくらず、私を捉える。
「さっき……あゆりちゃんが私を見つける前、電話が来たの。山本武史さん。私がお付き合いをしかけていた男性から」
「山本……武史」
父の名前だ。どこかで予想をしていた。彼女がつぶやいたその名前のひとが、いつか私の大事な時間を傷つけて台無しにしてしまうんじゃないかって。母から電話をもらったときにはすでに予感していたのだ。
「奥さんに私と会っていることがばれたって連絡があった。最初、彼が何を言っているのか、私にはよく分からなかったの。だって私、彼が既婚者だなんて知らなかったし、まだ付き合ってるという意識もなかったから。しかも娘がいる、名前はあゆりで——って彼が動転して話すのを、自分とは関係ないことみたいに聞いてた。だけど、ああそうかって思い出した。あゆりちゃんの名前が山本だって知ったとき、ありふれた苗字だから気にしなかったの。でもあのとき、気づかなかった自分が悪い。自分の選択がこんな結果を招いてしまったんだって理解した。そしたら自然と呼吸が苦しくなって、身体も重くて、気づいたら雨の中、手ぶらで外に出てた」
もうどうにでもなれって感じがして。でも心の中で叫んでたの。
誰か助けてって。
「あゆりちゃんが来てくれて、なんて皮肉なんだろうって思った。彼とはね……武史さんとは病院で出会ったの。私が風邪で患者として病院に行った時に、親身になって職場での話を聞いてくれて。まるで私の悩みを全部受け止めてくれてるみたいだった。その後、病院の外でも話を聞いてくれるようになって、惹かれていって……。だけど本当に、既婚者だとは知らなかった。さっき連絡があって、動揺して目の前がくらくらして。ダメだってわかってるのに、あゆりちゃんに甘えたくなった。倒れたのはたぶん、心の疲労のせい。心配かけてごめんね。助けてくれてありがとう。だけど私たち、会うのは今日までにしよう?」
嫌です、とは言えなかった。
志田さんと父親が男女の関係になりかけていた——不倫していたという事実以上に、志田さんが少なからず父に好意を寄せていたという事実が、胸を抉った。たぶん、許されることではない。志田さんは母に裁かれる。彼女が窮地に陥るところを見たくない。だけど、私にはどうにもできない。助けられない。だって私たちはただ、偶然出会っただけの赤の他人だから。
「……メイサさん」
初めて名前を呼んだ。ぐちゃぐちゃの感情のまま、彼女の細い腕に触れると、志田さんの身体がぴくんと跳ねた。彼女の肌は、まだ少し湿っているけれど温かく、指先を吸い込むような柔らかさだった。そっと抱きしめると、彼女の鼓動が私の胸に響き、ぞくりと背筋を這う感覚が広がる。彼女が私を抱き返す。彼女の唇が私の頬に触れる瞬間、心臓が跳ね、身体が熱を帯びた。友達でも恋人でもない、この曖昧な距離。父が彼女に触れたかもしれないと思うと、胸が締め付けられるのに、彼女の温もりを全身に擦り込ませたい衝動が抑えられない。こんな気持ち、知らなかった。彼女に触れていたい、でも触れてはいけない——その矛盾が、濁流となって私を飲み込んでいく。
「今日だけ……今晩だけ、ここに泊めてもらえませんか?」
私のわがままに、彼女の瞳が大きく揺れる。
「明日の朝さよならして、終わりにします。だから」
言い終わらないうちに、彼女が再び私をふわりと抱きしめた。嗅覚が失われているというのに、ふわりと芳しい香りが私を包み込む気配がした。
ああ、きっとこれは志田さんの匂いだ。
私に安心をくれるひとの。
「……うん。そうしよう」
夜は長くもなく、短くもなかった。
彼女の身体にぴったりと触れている間、父が彼女にどれだけのことをしたのだろうと想像した。あまりいい想像ではなかった。でも考えずにはいられなかった。
志田さんが私の頬のキスをする。友達でもない。恋人でも、単なる片想いの相手でもない。この気持ちに名前をつけてしまったら、いよいよ本格的に志田さんとお別れしなくちゃいけないような気がして、胸が軋んだ。だから、ただひたすら志田さんとくっついていた。彼女の温もりを、全身に擦り込ませるように彼女に寄り添った。
夜がふけるとともに、志田さんの身体の中に私が溶けていった。




