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  作者: 葉方萌生


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3

何食わぬ顔で十八時から通っている塾に出席をして、二十二時に自宅に帰り着いた。塾までサボると先生から母親に連絡が行きかねないので、そこは細心の注意を払った。

「ただいま」

 気づかれてはないと思っているが、リビングに入るときには自然と緊張していた。お風呂上がりのスキンケアをしていた母がこちらを振り返る。いつもならすぐに「おかえり」と言って夜ご飯を用意してくれるのだが、今日は違っていた。

「なんだ、あゆりか」

 大きくはーっとため息をついて、目の前の鏡に向き直る。学校をサボったことはバレていないようだが、「なんだ」と言われたことがショックでその場でフリーズする。

「……どうしたの?」

 恐る恐る尋ねた。母は機嫌が悪いとき、表情が険しくなるからすぐに分かる。娘の前ぐらい、もっと分からないようにしてくれ——そう愚痴をこぼしたくなるけれど、今日の私は母に強く出られない。いや、いつも母の顔色ばかり窺っているのだが。今日は普段以上に、自分の中にある後ろめたさがじわりと滲んでいく。

 母は私が尋ねてくるのを待っていたのか、顰めていた眉をよりぎゅっと寄せて、私を睨みつけた。

「お父さんが帰ってこないのよ。昨日も、一昨日も、あゆりが塾から帰ってくるちょっと前に帰ってきたの。診察は七時までなのに、こんな時間まで何してるよの本当にもう。今週だけじゃない。ここ一ヶ月ね、ずっと帰りが遅いの。聞いても、患者が多いとしか言われないし。大体、あの人は家で全然私の話も聞いてくれない。忙しい忙しい疲れたって言うだけで、帰ってきたら私が用意したご飯を無言で食べて寝るだけじゃない。昔は冗談言ってあゆりやちえりのことを笑わせてくれてたのに。朝だって早くに出ていくし。そりゃ私だってね、看護師だし忙しいのよ。だけど、家のことを疎かにするわけにもいかないから夜勤だろうとなんだろうと色々済ませていってるじゃないの。それなのに何? なんであのひとはいつもいつも自分のことばかりでいられるの。家族のために身を尽くしてるのは私のほう。あの人がそんなだから、あゆりだっていろいろ察しちゃうんでしょ。知ってるのよ。あなたが勉強なんて本当はしたくなくて、医者にもなりたくないってこと。全部、あのひとのせいじゃないの。あのひとが家族を蔑ろにするから。あゆりもあのひとみたいな医者になりたくないって思っちゃうんでしょ。ねえ、そうでしょどうなのよあゆり」

息継ぎもままならない勢いで溜まっていたストレスを、母は吐き続けた。母の毒を一心に浴びて、胸に鋭い痛みが駆け抜ける。

 お父さんが家に帰ってくるのが遅いのには気づいていたけど。でも、私は単に仕事が忙しいのだとしか思っていなかった。だって、それ以上考えたって不毛じゃない。何かいいことある? いろいろあることないこと察して落ち込んだり怒ったりしているのはお母さんじゃない。そんなにキツイならお父さんに直接聞けばいいのに、なんで娘の私に言うの? それ、お姉ちゃんには話した? 

 心の中で愚痴が止まらない。私もお母さんみたいに、つらつらと口に出して毒素を身体の中から垂れ流すことができたらいいのに。

「はあっ。もういいわ。あゆり、あんた今お父さんは仕事だから仕方ないって思ってるんでしょ。それとも、口うるさい親だってうんざりしてる?」

「な、なんでそんなふうに言うの」

「あんた、顔に出てるのよ。本当は勉強したくないって顔に書いてある。ごめんね、こんな親で悪かったわね」

 母は塞ぎ込む。自分の教育が間違っていたかもしれないと認めるのが嫌で、自らを否定することで慰めを求めている。だけど、肝心の娘の私が母を労ってやれない。てか、謝るぐらいなら押し付けんなよ。私は何のために生まれて、何のためにここまで目指したくもない進路に向かって無理やり進んできたのだろうか。何のために、誰のために……。

“あゆりちゃんも飼ってみる?”

 不意に、志田さんの声が蘇る。玄関先で大事そうに蚕を飼っている彼女。あの繭の表面みたいに、彼女は白くすべすべとしていた。つかみどころがないひとだけれど、何もかも自分の意思で決めて、貫いている。だって蚕だよ。ふつう、飼わないって。彼女の中に“普通”なんてないのだ。自由に働いて知らない女の子を家にあげて、心の隙間にすっと入り込む。

 志田さんみたいなひとが家族だったらよかったのに。

 虚ろな瞳で正面の鏡を見つめる母親の心にはもう、私のことなんてこれっぽっちも映っていない。そっちがそうならこっちもそうする。と主張するみたいに、踵を返して部屋へと戻っていった。

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