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  作者: 葉方萌生


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2

志田さんの自宅は、橋から十分ほどのオートロック式マンションだった。「狭い家だからね」と言う彼女を追い、六階へ。エントランスもエレベーターも綺麗だ。

「六〇六」と書かれた扉の前で立ち止まる。すぐ下に「志田」と表札があった。

「お邪魔します」

 玄関に足を踏み入れた瞬間、靴棚の上に置かれたお菓子の箱のようなものに視線がもっていかれる。トイレットペーパーの芯を三等分したものの中に、何かの繭が入っていた。

「これなんですか?」

「ああ、これは蚕。一ヶ月前ぐらいに飼い始めたの。繭になったのは最近」

「へ、へえ。蚕」

 金魚とかカメなんかを自宅で飼っている友人はいるが、蚕を飼っているというひとを初めて見た。つるんとした繭がとても美しい。しばらくぽーっと見とれていると、「可愛いよね」と志田さんが愛しそうに微笑んだ。

「あゆりちゃんも飼ってみる?」

「い、いえ……。さすがにうちは」

「ふふ、冗談よ。上がって」

 狭いと言っていたわりに、広いリビングだった。白いフローリングは塵一つなく、綺麗だ。私が今日ここに来たのは偶然のはずなのに。毎日丹念に掃除をしているのだろう。

「家、綺麗ですね」

「そう? 普通だと思うけど」

 これで普通なら、私の部屋なんてゴミ屋敷だろう。掃除は母親に任せっきりだし、その母親も、最近は妙にストレスが溜まっている様子で、家事もままならない。私の成績がふるわないせいかもしれないと思うかたわら、最近父親の帰りが以前にも増して遅くなったのも原因かもしれないなとぼんやり考えていた。

「何か食べる? 朝ごはん、食べてないでしょ?」

「えっ、いや、さすがに食事までは……。とういうか、なんで私が朝ごはん食べてないって分かるんですか?」

 腹の虫が鳴っていただろうか——と気にしたが、そんなはずはない。

 味覚と嗅覚を失ってから、お腹が空くという感覚もなくなっていたから。

「だってあゆりちゃん、顔色悪いわよ? ろくにご飯食べてないんだろうなーって分かる」

 言い当てられて、何も言えなくなる。

「簡単なものでよければ作るわよ」

「い、いや、大丈夫です! いきなり押しかけておいて申し訳ないです」

「連れてきたのは私のほうなんだけど? 私は誘拐犯で、あなたは被害者。立場上、どっちが強いと思う?」

「強い……? すみません、ちょっとよく分からないです」

 彼女の言葉遊びについていけなくなったところで音を上げる。ふふ、としたり顔で笑う志田さんは、答えなんて求めていなかったのだろう。すでに、そのほっそりとした身体にエプロンをつけて、髪の毛を一つに結い始めていた。白いうなじがあらわになり、どきりと心臓が跳ねる。女のひとのうなじを見て美しいとときめくなんて、どうかしている。けれど、お風呂で毎日のように見ている自分の身体とはまるで違う彼女の造形美に、不思議なほど心奪われていた。

「はい、出来上がり」

 それから十分も立たないうちに、目の前にコトン、とお皿を差し出された。

 トースト半分とサラダ、目玉焼きにウインナー。立派な朝食プレートだ。

 もう半分のトーストは彼女のお皿の上に乗っている。志田さんも朝ごはん、食べていなかったのだろうかと一瞬思ったが、よく見るとキッチンには同じような大きさなお皿が乾かしてある。まだ水滴が落ち切っていないところを見ると、今朝洗ったんだろう。

 それが意味するところを考える。二度目の朝ごはんを食べる志田さんは楽しそうに微笑んでこちらを見つめていた。

「なんか、こうしてひとと朝ごはんを食べるのって嬉しいわね」

「そうですか?」

「ええ。私、一人暮らしだし」

 ちらりとキッチンのほうに視線を向ける。食器棚には同じ種類のお皿が並んでいて、どれもちゃんと二枚ずつある。一人暮らしなのに、二枚ずつ。

「朝ごはんって、特別じゃない? 新しい朝が始まるって素敵なことよ」

「そう……ですね」

腑に落ちはしないけれど、「いただきます」と小さく手を合わせた。私にとって朝は、憂鬱以外のなにものでもない。また今日も母親に追い詰められながら渋々やりたくもない勉強をする一日が始まるのか、と思うと辛くて涙が勝手にあふれてくる。

 シャキ、と口に入れたレタスを咀嚼する。

 口の中で弾ける瑞々しいトマトもスライスされた紫色の玉ねぎも、食感だけしか分からない。目玉焼きとウインナーの弾力は、嚥下するのをひたすら邪魔してくる。それでも食べた。むしゃむしゃと、何も考えずに胃の中に押し込んだ。だって、志田さんがわざわざ私のために作ってくれたものだから。ふわふわのトーストのやさしい味を想像すると、少なくとも胃袋は満たされた。

「目玉焼き、何もかけない派なんだ」

 無言で食事を続ける私を見つめて、彼女がそっとつっこむ。しまった。何か、かけるべきだっただろうか。でも、味が分からないのに無駄にソースや醤油をかけるのも、もったない気がして。返答に困りつつ、「は、はい」と曖昧に返事をした。

「ごちそうさまでした」と手を合わせて、空になったお皿を下げる。

「そこ置いといてくれる? あとで洗うから」

「いえ、自分で洗います」

「いやに真面目なのねえ。学校はサボるのに」

「……それとこれとは話が別です」

 痛いところを突かれて一瞬胸がぐっと押されたように苦しくなった。でも、志田さんは相変わらず心の中で何を考えているのか分からない様子で微笑んでいて、さっきの言葉には悪意がないのだと悟った。

「志田さんは、今日は仕事お休みなんですか」

 自分の分と彼女の分のお皿を洗いながら、気になっていたことを背中越しに尋ねる。

「ん、そうだねえ。休み、といえばそうかな」

「曖昧な言い方ですね。本当はサボりだったりして」

 先ほどのお返しに、と内心ほくそ笑みながら答える。皿洗いが終わって振り返ると、志田さんは虚を衝かれたように瞳を大きく膨らませて、「まあ、そんなものね」と淡く唇を開いた。その表情が、恋に悩む思春期の女の子のように無防備で、自分が守ってあげたいと感じてしまったのだから、始末に負えない。

「仕事はね、ライターをしているの。業務委託だから、自分が好きなときに働ける。だからいま、サボり期間中」

 先ほどまでの曖昧な物言いとは打って変わって、いやに具体的に説明をしてくれた。なるほど、フリーのライターなのか。それなら平日の朝に自宅にいてもなんら不思議ではない。

「というわけだから、いつでも来ていいわよ。あなたが来る時間に仕事を休みにすればいいだけだし」

「いやいや、それはさすがに迷惑すぎませんか、私。今日はたまたまお邪魔しているだけで、きっともう来ません」

「あら、そうなの? 寂しいから来てよ」

 志田さんのほうからそんなことを言われるなんて思ってもみなくて、私はきょとんと呆けたように固まってしまう。

「まあ……じゃあ、気が向いたら」

「ふ、いいね。てか今日はこれからどうするつもり? 学校、行くのよね」

「そ、そうですね……学校……」

 教室の隅っこの席で、カリカリと机に向き合う自分を想像して、吐き気が込み上げてきた。一応、特進クラスに所属する私は、学校に行けば四六時中勉強漬けだ。三年生で、今は期末テスト前でもある。周りに勉強しないひとを探すほうが難しい。だけど……心はあの場所に行きたくないと叫ぶ。

「べつにいいのよ? 私は、あなたが学校行かなくても」

「それはまあ、そうですよね。赤の他人ですし」

「あのさ、あなたの高校って深山(みやま)高校?」

「え? あ、はい」

 一瞬なぜ分かったのだろうかと不思議に思ったが、制服から判断したのだろう。深山高校はこの辺りでは有名な進学校だ。知らないひとはいない。

「何組?」

「三年二組です」

「了解。じゃあ、ちょっと待ってね」

 何をしだすのかと彼女の行動を見守っていると、志田さんは自分のスマホを手に取り、どこかに電話をかけ始めた。もしかして……とある予感が頭をよぎる。

「もしもし、ああ、先生。あ、そうです。山本(やまもと)の母です。はい、あゆりなんですけど、本日体調が悪いので欠席します。ご連絡が遅くなり、申し訳ありません」

 それでは、と彼女は電話を切った。

「志田さん、今のって」

「ご推察の通り、あなたの保護者として学校に欠席連絡をしておいたわ」

「……」

 まさか、と思っていたがやっぱり想像通りだった。彼女がそんな、破天荒なことをするなんて思いもしなかった。いや、まだ知り合って二時間も経っていないのだから、彼女のひととなりについては不透明なことのほうが多いのだけれど。

「てかあなたの苗字、山本だったんだ」

「は、はいそうです。先生が先に訊いてきたんですよね。もし先に訊かれなかったらどう名乗っていたんですか」

「うーん、どうしたかな。あなたの鞄の中を漁って、教科書の裏の名前欄を勝手に見たかも」

 なるほど、その手があったか。

「ねえ、これでもう学校行かなくていいんだからさ、うちにいなよ」

「へ? いや、さすがに帰りますよ」

「帰ったら親御さんに学校サボってることバレるかもしれないわよ」

「両親とも働いてて家にいないから大丈夫です」

「むう。でもさ、もしもってことがあるじゃない。突然早退して帰ってくるかもよ。だからね、慈善事業だと思ってどう?」

「志田さんがそこまで言うなら……」

 実際のところ、家に帰りたくないのは事実だった。彼女の言う通り、いつ親が帰ってくるとも知れないという点もあるが、それ以上にあの家にいると息が詰まるのだ。ただ、志田さんは大丈夫なのだろうか。ともすればこれって誘拐事件になりやしない?

 私の心配をよそに、志田さんはぱん、と両手を合わせて頬を綻ばせる。その仕草が子どもみたいで可愛らしくて、綺麗なひとなのに可愛さも兼ね備えているなんてずるい、と場違いなことを思った。

 それから私たちは、一緒に映画を見たり、トランプをしたりして過ごした。二人でババ抜きをしていると、彼女が「もー!」と悔しがる姿がおかしくて、初めてトランプが楽しいと思った。

 思えば我が家には、こういう時間が少なかった。

物心ついたころから姉のちえみは勉強づくしで、そのせいか家族みんなで旅行に出かけたりみんなでボードゲームをして遊んだり、といった楽しい記憶がない。そのうち私も姉と同じように努力することを強いられて、家族はおろか、友達とも遊ぶ機会を奪われてきた。 

 志田さんは私よりもたぶん十歳は年上のひとだろうけれど、屈託なく笑いながらトランプを握りしめる姿を見ていると、友達と遊んでいるようで心がやわらかに解けていった。

「もうこんな時間なのね。そろそろ学校が終わる時間かしら。また来てね。うちはいつでも大丈夫だから」

 十六時過ぎ、彼女はすっきりとした表情で私に手を振った。

「ありがとうございました。また来るかどうかは……その」

 さすがに、今日だけだと思っていたので彼女の言葉に面食らう。でも、自分のなかでも、今日だけの付き合いにしてしまいたくないというわがままな気持ちが芽生えていたから不思議だ。

「気が向いたら、またおいで」

「……分かりました。お邪魔しました」

 涼しい顔で私を見送る志田さんの表情は、今朝出会った時とは変わらず凛としていて清々しい。こんな綺麗なひとが、自宅にこもって仕事をしているなんてなんだかもったいない気がする。けれど、何がどうもったいないかと聞かれたら答えに窮してしまうから、自分の気持ちが分からなくなった。

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