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  作者: 葉方萌生


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 履いてきた靴下の感覚がいつもと違うと気づいたのは、家を出た後だった。

 母親のものと取り違えたのだ。変えに戻ろうかと迷いつつ、そんな時間は無駄、早く学校に行って勉強をしろと怒り出す母親を想像して、やっぱり引き返すのをやめた。

 今朝、朝ごはんに出てきた白ごはんと焼き魚、味噌汁の味を感じられなかった。味も匂いも、どちらも消失していた。味と匂いが一度に感じられなくなったのは初めてのことだった。

 六月。梅雨になるとみんな、髪の毛がうねって鬱陶しいからストレートパーマをかけるという。私は自分の見た目など気にしないのだけれど、学校には行く気が起きなかった。

 通学路の橋から、雨に打たれる川面を眺めていると、波紋のようにつかの間消えたくなった。橋を戻り、河原への階段を降りる。いつもならペトリコールの匂いがするのに、今日は何も感じない。

 橋の下まで行くと、雨をしのぐことができた。雨宿りなんかしてどうするのだろう。学校に行く気はないのに。

次第に激しくなっていく雨を、外側の世界から見つめる。スマホで時間を確認すると、午前八時三十分。あと十五分もすれば朝のホームルームが始まってしまう。私が来ていないと分かると、先生は母に連絡をするだろう。私が学校をサボったと知った母が、鬼の形相で罵倒する姿が目に浮かぶ。セリフだって想像できた。

『どうしてあなたはお姉ちゃんみたいにできないの? お姉ちゃんみたいに、真面目に勉強すれば立派なお医者さんになれるのに!』

 母の口癖だ。国立大の医学部に通う姉、ちえみと私をいつも比べている。確かに私も、頑張って勉強すれば姉のように医学部には入れるのかもしれない。医者である同じ父の遺伝子を受け継いでいるのだから。でもたぶん、“立派なお医者さん”には到底なれないだろう。私がそれを、望んでいないから。

姉が完璧であるせいで、私が窮屈な思いをするのだ。姉に言ってやりたい。でも、私がまちがっていることは自分がいちばんよく知っているから、言えなかった。

“正しい”のはいつも姉で、“まちがっている”のは私。

 母からプレッシャーを感じるたびに、ごはんの味がしなくなった。そしてついに匂いまで。

 次に失くすものはなんだろう。

 降りしきる雨を眺めながらぼんやりと考える。どれくらいの間そうしていただろう。ふと右肩にトントン、という感触を覚えた。

「あなた、高校生? こんなところで何してるの?」

 高く澄んだ声だった。森の中で聞く、小鳥のさえずりみたいに。絶対に無視できないほど神聖さを孕んだその声にはたと首を傾ける。

 振り返った先にいたのは、ほっそりとした女のひとだった。右手には透明の傘を持っている。

長い黒髪がさらりと肩の下まで伸びていて、この湿気なのにひとつも絡まるところがない。嗅覚が鈍っていなければシャンプーの匂いが香ってきそうなほど美しい髪だった。

 美しいのは髪の毛だけじゃない。透き通るような白い肌に、大きな瞳、くるりんとカールするまつ毛。鼻筋もしっかり通っていて、誰もが認める美人。量産的でない儚さをまとった顔立ちに、思わず目を奪われた。

「もしかして私に見つかって動揺してる? でも安心して。私、あなたの学校に連絡するとか、そういうのはしないから。面倒だし。それで、どうしたの?」

「……学校に行きたくなくて。最近、ごはんの味も匂いもしないし、なんだかずっと、自分の周りにだけ薄い膜が張ってるみたいに感じるんです」

 彼女の白く華奢すぎる腕を見つめながらそっとつぶやく。

「それは重症ね。病院には行った?」

「いえ……行ってません」

「行ったほうがいいよ。なんておせっかいよね。病院に行くも行かないも、あなたの自由なんだし」

 ゆるりとした話し方をする彼女の言い分は、いまの私にとってはとても爽やかに聞こえた。

「ねえ、もしよかったらうち来ない?」

 あまりに唐突すぎて、一瞬、言葉が脳を素通りした。

 ペタペタと橋の際から滴る雨が地面に打ちつける音がやけに大きく聞こえる。女のひとは、新しいおもちゃを買ってもらった子どものように愉しげな視線をこちらに向けている。揶揄われているのだろうと思ったけれど、いまの投げやりな自分は、彼女の問いに驚くほどすんなりと頷いていた。

「あら、思ったよりあっさりしてるわね」

「誘ったのはあなたのほうでしょ」

「ふふ、そうよね。おかしなこと言ってごめんなさい」

 そう言って彼女は踵を返す。持っていた傘を広げると、橋の下から一歩外側の世界へと足を踏み出した。

「傘、入る?」

 私が傘を持っていないことに気づいたのか、彼女がそっと私のほうに傘を傾けてきた。

「ありがとうございます。実は結構困ってたんです」

「梅雨なのに傘持ってないって、確信犯って感じね」

 彼女の言葉を表面的に受け取ったら私を嗜めているように聞こえるのだが、実際は私の奇行を面白がってくれているような感じがした。

 差し出された傘に、女のひとと一緒に入る。彼女の肩が私の肩に触れ、湿った服越しに体温が伝わってきた。

ぱちぱちと雨が傘を跳ねる音が耳に心地よい。切羽詰まっていた私の胸の隙間を埋めてくれるように、雨音と心音が重なっていく。「あの、お姉さん、名前はなんていうんですか?」

 一つの傘の中で会話をするとき、必要以上に声を出さなくていいからいいな——そんなふうに感じながら問う。

「名前——名前ね。志田(しだ)です。志田メイサ」

「志田、メイサさん」

 ハーフのような響きで名前まで綺麗なのかとため息を吐く。

「あなたの名前は?」

 宝石のような瞳に覗き込まれる。その目は美しいといえばそうだが、血の通っていない人形の瞳のようでもあった。

「私は……あゆり、です」

 フルネームを言うかどうか迷った。

 つっこまれるかなと彼女の顔色を窺ったが、特に気にしていない様子で「あゆりちゃんね」と頷いた。

「たぶん短い付き合いになると思うけど、よろしくね。あゆりちゃん」

 志田さんがにっこりと微笑む。まるで女神だ。人間離れした透き通るような白い肌が、このひとのことを神様だと思わせる。そんなはずないのに。二十代後半ぐらいに見える彼女が一体何者で、どうして私を自宅に招き入れようとしているのかなんて、知るよしもないのに。神様なはずがない。

 そう分かっているけれど、雨の中で立ち尽くしていた私を連れ出してくれたこのひとに、やわらかに心が傾いていく。

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