7話 反撃
60歳のお誕生日を職場のみんなが祝い、私の個室に豪華な花束を飾ってくれた。
出窓に置かれた大きな百合の花の香りが部屋中に漂う。
高層階から東京の街を見下ろすと、目の前には、桜に囲まれ、白く輝く皇居が広がる。
運動を重ねていて、未だに痩せ、バストは大きく、ボディーラインも維持できている。
周りからは美魔女と呼ばれていて、お世辞かもしれないけど、40代に見えると言われる。
おばさんの上司をおだてているのだとは分かっているけど、悪い気はしない。
今日は、年甲斐もなく、スリットが入ったタイトなロングワンピを着る。
エレガントなハイヒールを履いているから、高い背がより高く見えるのだと思う。
せっかくの誕生日なんだから許してと周りに言いながら。
でも、本音を言うと、男性の頃を含めると長い人生で、もう疲れた。
どのくらいの時間を生きてきたのだろう。
男性として60年。おばさんから女子高生まで約5年。女子高生から今まで45年。
トータル110年も生きている。
とは言っても、男性の頃の記憶は、もうほとんどない。
今の体で長い時間を過し、苦労も楽しさも多くの経験をしてきた。
そもそも男性だったのは夢だったのではないかと最近は思う日も多い。
湊を失ってから、私は、男性と関係を持つことなく、1人で必死に仕事をしてきた。
再婚はせずに、せっかく卵巣を授かったのに子供は作れていない。
もちろん8年ぐらい前に閉経し、今はがんばっても子供はできないし、その気もない。
パパは5年前、ママは2年前に他界し、今は、松濤にある両親の家で1人で暮らす。
でも、女性としての喜び、苦しみ、男性では知り得ないいろいろなことを味わってきた。
今では、女性の体になりたいと思っていた頃が遠い過去のよう。
ただ、女性の体になれた時に嬉しかったことは覚えている。
結局、長く生きた分、苦しみや悩みに塗れた人生だった。
男性のときは、あまりに他責で、何事からも逃げていた。
それを反省し、女性になってからは、真剣に日々過ごしてきたと自負している。
その結果、仕事としては、女性になってからの方が成功したと言える。
弁護士だから、まだ仕事は続けられる。でも、仕事は惰性で続けているだけ。
検事時代の同期生からは、弁護士になってよかったとメッセージが来ることもある。
そんなことは何も知らないから言えること。
弁護士になってからは、自由は奪われ、与えられた結論に導くだけの奴隷だった。
それで、お金だけはたくさんある。でも、もうこの年で使いたいことなんて何もない。
一方で、感情は男性から女性になり、大きく変わった。
寂しい、誰かに守って欲しい、男性の時にはなかった感情に襲われる。
でも、最近は歳を取ったせいか、そのような気持ちも落ち着いてきた。
私の弁護士事務所は100人の弁護士を抱えるほど拡大した。
皇居を望むビルの最上階とその下の階の2フロアーを事務所が占拠し、大勢が働く。
その所長とは別に、組織の推挙もあり、私は、東京弁護士会会長もしている。
別に会長なんてしたくないけど、組織にとっては、隠れ蓑に、その箔は価値があるらしい。
ここにいる弁護士達は、私がいなくても生きていける。
ただ、みんなは、この事務所のブランドが欲しいだけ。
花束を送り、誕生日を祝っても、私を本心から慕っているわけではない。
あくまでも、上司として尊敬しているフリをしているだけ。
このオフィスで働いていて、お互いに意味があるのかは分からない。
私は何のために弁護士をしているのか、ふと疑問に思うこともある。
いえ、組織が弁護士業務を私に強制しただけで、自分から選んだわけでもない。
今振り返ると、いろいろな経験をした。闇バイト、学生、検事、弁護士。
地味な男性としての生活と定年退職。心が踊った女性としての日々。
邪悪な気持ちに支配された日々、いろいろあった。
弁護士として、許されない行為もたくさんあったのに弁護士でいられるのは不思議なこと。
女性として子供も作ろうと思ったこともある。
でも、結果、一人で暮らす人生だった。
ただ卵巣のおかげで、素敵な女性としての生活を送ることができた。
もともと女性になりたいという願望も叶えられた。
単に女装ということではなく、本当の女性に。
今の体に不満はない。あるとすれば感謝だけ。
一方で、私は多くの人を不幸にしてきた。
本人のせいの場合もあるし、私が仕掛けた場合もある。
今、その人達の中で、生きている人はどう過ごしているのかしら。
パパ、ママは優しくしてくれた。
でも、本当の娘を殺してしまったのは私。ごめんなさい。
今でも死体はコンクリート詰めのドラム缶の中で海底を彷徨っているかもしれない。
結局、どうなったのかは聞けていない。口封じだけをされて生きている可能性もある。
再会をし、再び私に幸せの時間を与えてくれて、結婚もした湊。
その湊も私が殺してしまった。
笑顔で皇居を見下ろしている私は、極悪人であるのは間違いない。
毎朝、隅田川テラスで朝ランニングをしている。
この時間だけは、気持ちがよく、とても好き。
都会らしい風景の中で、さわやかな風をきって走る。
最近は、この時間が最も心穏やかに居られる。
職場にいると、どうしてこんなこともできないのかと部下を叱ってしまうこともある。
ヒステリーなおばさんと、みんなは陰で言っているのだと思う。
でも、朝ランニングでは、心を無心にし、今日、やるべきことを整理できる。
厳しいことを部下に言うのはよくない、それは我慢して自制すべきと反省したりもする。
そして、今日は何を楽しみに、一日頑張ろうかと考える。
寝る前の1杯のシャンパン、それも十分に1日のご褒美になる。
横に目をやると、いろいろな人が横を通り過ぎる。
顔に苦悩を浮かべている人。恋人と笑顔でキラキラしている人。
男性、女性、性別に関係なく、みんなが日々、努力をし、喜びと苦しさを感じている。
最近は、女性だから家事や育児をしなさいなんて言う人はいない。
男性も、育児や料理、洗濯等を積極的にやっている。
男性と女性の違いは、子供を産むことぐらいだけど、最近は無痛分娩で苦労も少ない。
男女差別が横行していた頃よりは、女性は遥かに生きやすくなっていると思う。
私自身は、その頃は男性で、女性の立場に関心がなかったことが悔やまれる。
全て、自分のせいだと考えれば、人を憎む感情は薄れる。
もう覚えていないけど、妻を嫌な気分にさせていたのかもしれない。
娘から毛嫌いされていたのも、私に何か落ち度があったのかもしれない。
人間は1人で生きていると思っていても、絶えず誰かに迷惑をかけているものだから。
走りながら、組織のことも考える。
私に指示をしてきた組織のボスは引退した。
その娘がボスを引き継ぎ、今も私に指示をし続けている。
頼りになるのはやはり女性だと言って、私をおだて、昔以上に仕事を依頼する。
男性ばかりの犯罪組織を女性がまとめ上げるのは大変なのは分かる。
でも、だからと言って私に頼るのはやめて欲しい。
その組織から、今、総理にはある計画があると聞いた。
中国に日本を売るという、とんでもない計画が。
経済力が大幅に下落してしまった日本。
その日本を中国の支配下に入れ、独立自治区として再起させるという。
前から気になっていたけど、この手の仕事に誰がお金を払うのかしら。
組織のバックに政府等が関与しているのだと思う。
政府が、清濁合わせ飲み、裏の組織に依頼したのかもしれない。
組織は、持ちつ持たれつの総理に恩を売るため、強力に後押ししているのかもしれない。
私にも、一役を担えと、新しいボスは強く迫る。
私は、その指示に疑問を提示した。
中国は策略が渦巻く、したたかな国。
最初は独立自治区なんて言っても、そのうち吸収されてしまう。香港を見れば明らか。
そもそも、中国に誠実さなんて一欠片もないことは誰でも知っている。
ただ、自分がしたいことを実現するだけ。
それでいいのかと。日本人として、それは許せないとボスに強い口調で伝えた。
でも、ボスは断固として私の言うことに耳を貸さない。
あなたは、何も分かっていないと。中国への偏見も甚だしいと。
私は、過去に1度もなかったけど、今回だけは協力指示を断った。
だって、こんな私でも日本を愛しているから。
家族はいないけど、日本を愛している。
2人分の人生を過ごしてきた今更ながらに思う。
人という生き物は、過去の失敗を悔やみ、将来の不安に怯える。
多くの人が、9割以上を過去と将来で過ごし、今に生きていない気がする。
今を大切にしなければ、いい将来は来ないし、将来には今が失敗だったと悔やむ。
今を9割以上真剣に過ごすのがいい。
過去は経験にすぎず、将来の予想は今のことを決める指針にすぎない。
男性のころは、過去のことをいつも悔やんでいた。
あの時にこんなことをしたから、今が不幸なんだと。
常に誰かのせいにして、責任逃ればかりしていた。
また、将来への不安から少しも前に出ていくことができなかった。
ただ、前に出ることが怖くて、言い訳をしていたのかもしれない。
でも、悔やんでも不安に思っても、人生に何もいいことをもたらさない。
今、何をするのかが充実した人生を手にいれるためには一番重要。
今を充実して生きることができれば、自分らしい生き方ができる。
それが楽しいのか、苦しいのかではなく、自分らしく生きるということ。
ただ、頑張りすぎるのはよくない。どこかで無理がたたり、挫折する。
自分のやりたいことを、自然体で取り組むのがいい。
力が足りなければ、飾らず、へりくだらず、周りに協力をお願いすればいい。
今、私は何をするのがいいのか。
そう、私が大切にしてきた日本での生活を守ること。
そのためにも、私は、これまでのように見て見ぬふりをするのではなく、行動する。
今、ランニングをする途中で、情報を渡し、助けを求めることにしている。
アメリカ大統領の使者に。
アメリカ大統領は、大切な日本が中国の支配下に入るのは困ると言ってくれた。
アメリカもしたたかだけど、日本が中国領土になるのは嫌だと考えていた。
アメリカにもメリットがあるのだから、日本を守ってくれるはず。
日本にとって、その方が最良の選択肢であることは間違いがない。
私は日本が好き。
悪人もいるけど、基本は優しい人達が大勢いると思う。
私は、こういった優しい人に支えられて生きてこれた。
どこかしら。この辺だと思うけど。
あ、いた。大きな紙袋にいっぱいのバラを持っている人。
どこにでもいるような、バカっぽいおじさん。しかも、似合わない帽子をかぶる。
USBメモリーを取り出した時だった。なにやらボールが足元に飛んでくる。
なにかと思ってボールに手を伸ばした途端、大きな光と衝撃に包まれる。
熱い。痛い。こんな所で死ぬわけには・・・。
大きな煙に包まれた隅田川テラス。
煙が引くと、半分ぐらい崩れた遊歩道が現れた。
パトカーと救急車のサイレンの音が鳴り響く。
組織が絡んでいる以上、単なる露店の引火事故等として処理されるのだと思う。
これで、私が守ろうとした日本は、いずれなくなる。
いえ、アメリカ大統領が何かしてくれるかもしれない。
でも、もう手遅れ。私の体は、どこにもなかった。
あの楽しさと苦痛を一緒に過ごしてきた私の体が。




