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借金

作者: 枯れる苗
掲載日:2025/11/01

ですから、そこにあった葉桜が憎たらしくて仕方ないのです。幸せな日々を遠く届かないものにしてしまったみたいで、侘しくさせられてしまうんです。再三、申し上げているように、今までお金に困った事なんか一度たりとも御座いませんし、金輪際もう二度とお借り致しません。あのお金は私の生活に使った訳でもなければ、勿論ギャンブルなんかの為にお借りしたわけでも無いのです。確かにそれは真実でありますが、同時に私は何処か、ギャンブルであり、生活の為に使った様にも感じております。首を傾げて居られますが、無理もありません。話を余計に散らかしてしまいましたね。しかし、信じて欲しいのですが、これは決して巫山戯ている訳では御座いません。

正直にお話し致しますと、あのお金を何に使ったのか全くもって存じ上げておりません。失礼な話ですが、私のお金がどうなろうと知ったことではなかったのです。そんなものに興味を持てませんでした。こんなにもお金の話ばっかり致しますと、無頓着だなんて到底信じて頂けないように思います。しかし、本当に私は生活の為の最低限のお金さえ有れば、それ以上に深く考えることなんて致しません。月に五万円あれば五万円の生活を、一万円しかなくったって一万円の生活をする様な、そんな女で御座います。

けれど、あの人にはそんな事、不可能でありました。そんな生活、私が駄目なのです。あの人にそんな生活させたくないものでしたから、私は一生懸命努めておりました。あの人がお腹を空かせてしまうのが、自分の腹を切り裂いてしまいたくなるほど苦しいのです。えぇ、ご察しの通り。私の最初で最後の借金は、あの人の為にお借り致しました。

いつも通りあの人は朝に帰ってこられました。私よりふたっつばかり歳上ですから、私には分からない情緒が、夜の街には有るのでしょう。勿論存じ上げております。まぁ、ですからここでこうしてあの人のそういう事を心置き無く暴露出来てしまうわけですけれど。それについてなにか恨み言を吐く積りでは御座いません。ただ、そういう習慣だった。と、本当に私にとって、ただそれだけの事でした。

私はあの人がそうであるように、いつも通りの真っ黒なソファに座って明るくなる部屋を眺めておりました。六時を過ぎて、とうとう早朝の淡い色が濃くなり始めた頃、玄関口から酷い物音が致しました。私はなんだか嫌な予感が致しまして、向かう、いえ、向かうなんて表現するほど大きな家でも有りません。ちょいと向こうを向くだけで、あの人が倒れているだけだったことに、すぐ気付きました。

肩を揺すって起こしてあげると、君は何にも知らないんでしょうと、馬鹿にするような優しい笑顔のまま顔をあげました。私はあの人の顔を見ても腹が立たなくて、仕方なく前髪を分けてあげてしまうのです。悪い人です。えぇ、あんな人の事が好きな私なんて、馬鹿な人です。

あの人は何がそんなに幸せなのか知りませんが、本当に嬉しそうに私の顔をじいっと見つめておりました。昨夜余っ程呑んだんだと思います。こんな家にお金なんかないのはご存知だったでしょうに。それから私の袖を強く握り締めて、泣き始めました。どうしよう、もうダメかもしれない。なんて仰るので、いつもの事なのでは有りますけれど、私にとっては一大事なのです。もうね、ええ、頭では分かっておりますとも。けれど、あの人の顔を見てしまうと、どうしても、どうしても。煩わしい前髪を退けてやると私の膝の上に縋り付いて下さるんです。ダメな人だなんて思いつつも、必死に話すあの人の声が愛おしいんですよ。どうせ最後にはお金の話をするのだけれど、あの人が必死に弁解するのが可愛くって、どうしても聞き入ってしまうんです。

またやってしまった。本当はすこーしだけお酒を頂いてさっさと帰ろうと思ったんだ。君にも散々言われていたからね。だから安い酒をたった一杯注文したんだよ。本当に一杯だけ。なのにそれが不味くって不味くって。店主に文句言ったらお客さん素人かいこれはこういうお酒なんだって馬鹿にしてきて、もう腹が立って腹が立って、もう一杯注文したんだ。それから次はこれだその酒にはこれをアテなきゃだめだって次々運んできて仕舞いには宿代だって言われて持っていたお金全部持っていってしまったんだ。君も覚えているだろう。だってあのお金は大切な大切な君から預かった大切な大切な生活費なんだから。本当に、どうしよう。あの店主が許せない。なんて酷いやつだ貧乏人を騙して。もう二度とあんな所には行かない。苦しい、とても、息もできないくらいに苦しい。このひと月で変わろうと決心したんだ。君と昨日泣きながら話した未来のこと、本当に叶えたかった。けど、なんでいつもこうなんだろうね。前に前にと風が吹く度に、空き缶が飛んでこないかと心配して頭を抱えてしまう。蹲っているうちは何もしてこないくせに、立ち上がったら打ち当たる。酷い話だ、世界は運で回っている。その癖運の所為にするなと怒る。もう立ち上がれないんだ、もうダメなんだ。もう何も無くなってしまったんだ。

私はあの人の心に触れたいと、模索致しました。けれど、どんな言葉をかけてもあの人を悲しませてしまうんじゃないかって思って、その金色のくせっ毛をいたずらに撫でてあげることしか出来ませんでした。膝元がじんわりと暖かくなるほどに、あの人は泣いていました。余っ程悔しかったんだと思います。余っ程、悲しかったんだと思います。私を裏切ってしまったあの人が、悲しくないはずがない。私を裏切ってしまったんだから、悔しくないはずがない。なんて可愛そうに。ああ、なんてひどい仕打ちを受けたんでしょう。私が隣で頭を撫でてやらなくちゃ、誰があの人をいやせるのだろう。強く、強く、あの人を思いました。心の隙間に私を捩じ込もうという邪な心ばかりで声をかけました。白状します。私なんて、あの人に救われたかったのです。あの人のためにしたことが、いつか身を結んで私に帰ってくることを願っていたのです。その一環で、私は走り出しました。

もう息が詰まる程、暗い町を駆け回りました。どこへいったって、私とあの人を助けてくれる心優しいお方は見当たりませんでした。それから、しばらく、しばらく。走り続けました。どことも知らずにあちらこちらへ、とにかく私たちを救ってくださる所へ逃げ込もうと躍起になって。それでようやく一軒の無粋な金貸し屋が私に振り返って下さりました。ふふっ、そう苦い顔をなさらないで下さい。もちろん感謝しておりますとも。

桜の死んだ道を、一生懸命に逃げました。心の奥の、ずっと奥の方から昇ってくるような寂しさを感じました。ただ、息が詰まるほど、虚しくて、寂しくて。もう二度と、こんな惨めな想いはしまいと、約束して、美しい死体の上を走りました。きっとこれがダメだったんです。死体の上を歩くなんて、酷くって、悪いことで、罰当たりなことです。悪かったんです、悪い人間なんです。

家に入ると、正面にあの黒いソファの横顔がチラリと視界の縁に映ります。そのまま奥へ目をやると、薄いレースが春の風に延びていました。けれど、あの人の姿はもうどこにございませんでした。今朝、私があの人を待っていた小さな炬燵の上に、潔癖なくらい真っ白な便箋が一つ寂しそうに落ちておりました。

「それで、その便箋には、なんと?」

奇妙なことをお聞きになりますね。真っ白なんですから白紙の便箋ですよ。

「そんな訳無いでしょう。謝罪の一言くらいあって然るべきだ」

いいえ白紙でした。白紙でしたの。だから手掛かりなんて、彼を探す方法なんてひとっつもありはしません。受け取ったお金を受け取った封筒のままお返しするのはなんだか不思議な気持ちですね。

「寂しそうには見えませんね、何だか気持ちが悪いや。事情はよくわかった。さっさと帰ってくれ」

えぇ、さようなら。


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