彼女の行方は
城へ戻る馬の蹄音は、異様なほど大きく響いていた。
夜明け前の空気を切り裂くように、セリオンは王城へと駆け込む。
礼拝堂を飛び出してから、ほとんど記憶がない。
怒りも、焦燥も、後悔も、すべてが混ざり合い、胸の内で燃え続けていた。
(俺は、何を信じていた。)
信頼していたのは、王家の伝統か。
それとも、己の立場か。
あるいは、「彼女なら大丈夫だ」という、根拠のない楽観だったのか。
城門をくぐると同時に、セリオンは進路を変え、真っ直ぐ西棟へ向かった。
目指す先は一つしかない。
「……兄上、蓮に何かあったですか!?」
扉を叩く前に、内側から声がした。
返事を待たずに取次の者に扉を開かせると、ルシアンが書簡の束を手にしたまま、こちらを見ていた。
鋭く、冷静な瞳。
それが今は、わずかに揺れているように見えた。
「時間がない。座って話を聞いてくれ。」
促されるまま椅子に腰を下ろすと、セリオンは一息で事情を語った。
礼拝堂で起きたこと。
帰還の魔法陣。
エセルテとサラの介入。
そして“変更された帰還先”。
語るほどに、喉が焼けるようだった。
ルシアンは途中で口を挟むことなく、すべてを聞き終えると、深く息を吐いた。
「……なるほど。」
「分かるか?」
「いや。正確な座標も分からない以上、術式の追跡は不可能ですね。」
即答だった。
それでも、セリオンは食い下がる。
「だが、お前は術に長けている。何か、痕跡だけでも…」
「もし、彼らの言っていることが本当なら、ですよ?」
ルシアンは静かに言葉を切り、机に手を置いた。
「彼女は、魔族の地に飛ばされている。」
セリオンの指が、ぎゅっと握られる。
「……確定なのか?」
「“帰還”という術は、本来、世界の境界を越えるためのものです。
しかし、今回は同じ世界で行き先を変え、飛ばしただけ。
彼らからしたら、目障りな女を力をそこまで使うことなく、危険な地へ追いやった。戻ることもない。そんな考えなのでしょう。」
重い沈黙が落ちる。
「協力を仰ぐべき相手は、一人しかいませんね。」
ルシアンの視線が、まっすぐセリオンを射抜く。
「……レナトス、か」
「はい。レナトスは魔族の王です。
彼の支配領域なら、彼女が現れた痕跡も、掴めるかもしれない」
セリオンは即座に立ち上がった。
「連絡する。」
「待ってください。」
ルシアンが制した。
「直接会う前に、まず至急謝罪を。
それも、王子としてではなく――」
「分かっている。」
セリオンは、頷いた。
私室へ戻ると、セリオンは扉を閉め、棚の奥から小さな水晶装置を取り出した。
アストラ・リンク。
星の力を媒介にし、術者の前に“半透明の虚像”として相手を映し出す。
重要な政治交渉のためにのみ使われる高等術式のことである。
躊躇はなかった。
ただ、胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
(俺は、どんな顔で言えばいい。)
水晶に触れ、術者が力を流し込む。
淡い光が走り、やがて、低く落ち着いた声が響いた。
『……王子殿下から緊急の連絡とは、何があった?』
「魔王レナトスよ…」
セリオンは、名を呼び、深く息を吸う。
「まず、詫びさせてほしい。」
一拍置いて、言葉を選ぶ。
「――蓮を、帰せなかった。」
半透明の虚像が、静まり返る。
「俺は、帰還の儀式を見届けた。
だが、それは結果として、欺瞞だった。
彼女は、元の世界へ戻っていない。」
一瞬、歯を噛みしめる。
「……俺が、判断を誤った。
信じるべきでない者を信じ、守るべき者を、任せてしまった。」
言葉の端が、わずかに震えた。
『……そうか。』
レナトスの声は低く、感情を押し殺している。
だが、その沈黙の長さが、全てを物語っていた。
『彼女は、今、どこにいる?』
「魔族の地へ飛ばされた可能性が高い。」
一拍。
「生きているかどうかも……まだ、分からない。」
通信の向こうで、何かが、きしりと軋む気配がした。
それが、玉座の肘掛けなのか、
あるいは感情そのものなのか。
『……セリオン殿下。』
レナトスの声は、先ほどよりも低い。
『俺は、お前に任せた。』
責める口調ではなかった。
だからこそ、重い。
『王族であり、理性的で、
あの娘を最も安全に送り返せる男だと判断した。』
短い沈黙。
『……その判断を、今、少しだけ後悔している。』
セリオンは、息を呑んだ。
『いや』
すぐに、レナトスは続ける。
『責めているわけではない。
ただ――』
言葉が、わずかに途切れる。
『あの娘が、独りで見知らぬ地に放り出されていると考えると、
……平静でいられるほど、俺は出来た王ではないらしい。』
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、魔王の声に感情が滲んだ。
セリオンは、拳を握り締める。
「……本当に、すまない。」
『謝罪は、聞いた。』
レナトスは、深く息を吐いた。
『ならば、次にすべきことは一つだ。』
『探す。必ずだ。』
その声には、揺るぎがなかった。
『俺の領域に飛ばされているなら、痕跡は残る。
部下を総動員する。』
そして、少しだけ、柔らいだ声音で続ける。
『あの娘は……俺にとっても、大切な存在だ。』
セリオンは、目を閉じた。
「……恩に着る。」
『礼は要らん。』
『次に彼女に会えたら、もうお前には渡さないがな。』
通信は、そこで切れた。
水晶の光が消え、部屋に静寂が戻る。
セリオンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(蓮)
名を呼ぶたび、胸が痛む。
だが、立ち止まっている時間はない。
扉を開け、廊下へ出る。
魔族の地。
王国とは相容れぬ場所。
危険と未知に満ちた領域。
それでも――行くしかない。
彼女を、必ず連れ戻す。
それが、贖いであり、約束であり、
そして――
一人の男としての、選択だった。
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蓮は、ゆっくりと目を開ける。
最初に目に入ったのは、淡い光だった。
空は澄んでいるのに、どこか現実感が薄い。
青とも緑ともつかない色が、柔らかく広がっている。
「……?」
身を起こした瞬間、息を呑んだ。
周囲には、背の高い樹々が立ち並んでいた。
だが、ただの森ではない。
幹は細く、しなやかで、まるで空へ向かって伸び続けているようだ。
葉は小さく、幾重にも重なり、風が吹くたびに微かな音を立てる。
(……きれい)
そう思った直後、違和感が胸を刺す。
静かすぎる。
鳥の声も、虫の羽音も、ほとんど聞こえない。
それなのに、生き物の気配だけは、確かにそこかしこに満ちている。
足元を見ると、地面には草が生えている。
踏みしめても、音がしない。
まるで、草そのものが衝撃を吸収しているかのようだった。
「……ここ、どこ……?」
呟いた声が、妙に澄んで響く。
空気が澄みすぎているせいか、自分の声が浮いて聞こえた。
遠くを見ると、樹々の合間に、淡く光る何かが見える。
霧のようで、霧ではない。
光が、ゆっくりと漂っている。
(……元の、世界じゃ……ない)
それだけは、はっきり分かった。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
代わりに胸に広がるのは、理由の分からない、居心地の良さ。
まるで、この場所が、
「拒んでいない」とでも言うように。
風が吹いた。
木々が一斉に、さざめく。
その音は、言葉ではないのに、どこか意思を感じさせた。
蓮は、無意識のうちに一歩、前へ踏み出していた。
(……飛ばされた、はずなのに)
(どうして、ここに――)
答えは、まだ出ない。
蓮は、そっと息を整える。
「……生きて、るよね。私」
そう呟くと、
森は何も答えず、けれど確かに優しく、揺れた。




